タイトル:AIアート
作者:AI and tome
Medical Association of Clinical Arts
タイトル:AIアート
作者:AI and tome
2023/06/18 勉強会記録
13時からの予定ということで午前中は子供とショッピングモールのようなところで買い物をしたりドーナツを食べたりして過ごした。赤ちゃん用の籠に乗りたがって、乗せると上の子はもう6歳だから体が入らなかったが下の子は3歳でなんとか乗れた。どっちも乗ろうとするから喧嘩になる。上の子は結局乗れないから諦めたようだった。ドーナツは持ち帰りにするつもりだったようだが、下の子がちゃっかり外の席に座っていて食べる気満々だったからその場でみんなで食べているともう12時を回っていて家に着いた頃には13時になっていた。
未の刻には、遅くとも申の刻にはとメールをして会場へ向かった。
今回から理事長iさんの自宅で開催できることになった。今年の秋口から開業予定のiさんのお宅は二世帯住宅でそのひと棟をクリニックとする予定である。
つい先ごろご家族で転居された。京都駅で伊勢丹に寄ってお祝いを選んでいると、いつのまにか15時を過ぎていた。獺祭とシャンパンとメロンを買った時点でくたびれてしまい、酒のつまみを吟味するゆとりがなくなってしまった。パン屋でフランスパンだけ買っていくことにした。
桃山駅を降りて、東へしばらく歩いて山を登り、南へ下る頃には緑の深い森林に囲まれ空気が少し冷ややかに感じられる。神社を越え、線路を抜けるとiさんのお宅がみえてきた。
インターホンが2つついており、どちらを鳴らしてよいかわからないので黙って鳴らさずに入った。入ると手前の家の網戸越しにiさんたちの姿が透けてみえる。私は網戸を開けて畳のお部屋からお邪魔した。もうだいたい終わりましたよといったことをiさんが言い、薬剤師のuさんが私と会ったら帰ろうと思ってたといい帰っていった。オンコールなのだそう。皆さんお忙しい。
他には学生のaさん、大学で講師などされているsさん、この前あったときは学生さんだったはずのmさん、今は病院勤めのよう。この前大手術を終えたばかりのhさんがいた。
今回の読書会はブッダのことば スッタニパータだった。特別講演はiさんの緩和のお話だった。いずれも遅れてきたのでどんなだったかはわからない。ただ昼からお酒を呑みながら、皆頬を赤らめているところをみると、まだ煩悩を捨て去ってはいないようで安心した。日本酒が美味しくて、呑みすぎてしまう。本の紹介はhさんがされた。アイとアイザワというAIと恋をする漫画だった。アイは超限記憶を持っており、アイザワは人間の不完全性をインストールされたようなAIだった。二人はとんでもないことが起こらないようにフラグを回収していく。だいたいフラグ回収はオイディプスのように、それ自体が運命へと導いていく形で不可避的に進行していく。運命はいつも、過去も未来も丸ごと変わる。もっとドラマティックではない、展開されなかった未来がいつも背後に伏在している。ドラマが起こらない日常を描くことは、ドラマの裏番組を流すことで、それが丸ごとドラマのほうまでを伝える力がある。
iさんの子供たちが2人、3人とぞろぞろと入ってきて、銃で撃たれたり腕を切られたり眠らせられたりしているうちに日は傾いていった。(2023.6.20)
丸太町通にはプロテスタントの寺があって、十字架が曇天の空を指している。
朝はいつも「マリア様助けて下さい」と祈る。朝に限らずいつも祈る。祈るとかろうじて物事が進む。私は病人である。重篤な病人が薬を切らしては体が悪化するように、私は祈りを切らしては滅びてしまう。
中間医から患者のことを尋ねられてもだいたいのことが分からない。6月から来た研修医の先生のほうがよく分かっている。私はあまり優れた医者ではないのだと思う。しかし適当に生きていく。私は全ての誠意を尽くしていることは神がご存知である。
論文の抄読会が来週にある。論文は手元にあるが、まだ読めていないしパワーポイントのスライドもできていない。この週末に片付けることはできるだろうか。
初めて外勤というものに来た。伏見の山にある病院に来た。入院している児らは元気だ。病院といってもいろいろあるのだと感心する。発達に凹凸のある児らが入院しているという。見ているかぎり彼らは普通だ。親しくすれば色々と見えてくるのかもしれない。
私は常に考えることを要求されている気がしている。それはとてもうんざりすることだ。一体なんのために考えるのかが分からなくなるからだ。一体医者はなんのために鎬を削るのか分からなくなる。おおむね患者のためというのは間違いないことだ。しかしそのためと言うには学会、論文抄読、さまざまな事務作業は迂遠に思われる。もちろんそれらは利益のあることだろう。しかしそれらが主な目的にすり替わりかねないほど忙しくしては不幸なことだ。
竹下節子の「聖女伝」を読み、その文章の複雑さに困る。聖女の成したことを単純に知りたいと思っても、竹下節子の批判的学術精神が彼女自身の分析を文章に加えることを逃がさない。私はただそのまま聖女が歩んだ実際を知りたいだけなのだ。その意味では聖人伝として有名な「黄金伝説」も、宗教にありがちな荘厳をあえて取り付けた感じがして苦手だ。私は淡々と聖人たちの歩みが見たいだけなのだ。
学術というのは…正確さを保つために言葉が厳密になり、言葉が厳密になると実際に現れてくる姿は真実から遠ざかる気がする。学術らしい学術をいくら重ねても救われない気がする。もちろん科学は治らない白血病を治るようにしたのだ。そこに自然の軸があれば学術は意味が生じる。自然の内奥には神がある。軸のない学術はただ難しい言葉を並べるだけの無意味である。
乾燥した世界に水が欲しい。神のいない知恵比べをする羅刹の世界にはいられない。
空谷子しるす
このたび2023年度機関誌『臨床文藝』をオンライン上で公開開始しましたのでお知らせいたします。
今年から機関誌を会員限定で販売いたします。
送料込みで一冊1000円です。
予約注文受付中です。ご購入いただいた方には7月上旬から中旬頃には紙媒体で発送できればと考えております。
今年は精神科医の高木俊介さんたちとの座談会も掲載しておりますので、ご興味のある方は手にとっていただければと思います。
よろしくお願いいたします。
肩が重く体が重い。
中間医の先生が5月で去り、研修医の先生が6月の第一週終わりに去った。新たな中間医と研修医の先生が来る。二人は必ず私より優秀だろう。しかし新しい環境に慣れるまでしばらく時間はかかる。その間なんとか病棟を維持するようにできることはしないとならぬ。
しかしどの道それはいつもと変わらないことだ。やれることしか私にはできない。
170cm、70kg超える体格のよい児に一度で腰椎穿刺を成功し、無事に髄中ができた。以前L4-5では中間医もうまく穿刺できなかった人だ。化学療法のステロイドの影響で、筋肉質な体の上に脂肪がやや厚く、鎮静しながら巨体を支えるのも困難な児だ。うまくいったのはとても嬉しかった。
空が明るい。初夏の紫外線は真夏より強いと言う。
世の中ではさまざまな事件が起こっているようだったが私には一分の余裕もなく、私の力の全てはいよいよ病棟に向けられている。それでもなお細かな失敗は後を絶たず、しかし全てを「うまくやる」ことは私には不可能だ。
彼女の祖父母に会いに奈良に行かねばならぬ。気は重い。陽気な人々だと聞く。陽気な人々から私は憎まれることが多い。
医師という仕事は人の病気があって初めて成り立つ。それが切迫していれば医師は休む訳にいかなくなる。仕事の量が多くても少なくても困る。表面的には医師は人の不幸で暮らす人間と言える。人がよく生きるためには医療以外も必要である。私がよく生きていくためにもあるいは医療以外が必要である。しかし卑劣な商売は私はする能力がないから、私が生きていくには必死に医療をする以外のことはいまだ思いつかない。
祈りは常に重要である。天津神と国津神はどのようであったろうか。明らかに天津神は大陸の人間信仰や道教の雑多な蕃神と性格を異にする。人間信仰と自然信仰、一神教的なgodの性格を兼ねた神道はなにかの普遍性を有しているように思われるが、日本の土地を離れて成立するものかは分からない。
空谷子しるす
車の助手席を取り合う子供達
今は妹が助手席に座り込んでいる
兄:そこはダメだよ、警察にみつかったらたいほされるよ
妹:ダメなの!
兄:じゃあ、死んでもいいの?
妹:しんだらだーめな-の!
兄:じゃあ、警察に見つかってもいいの?
妹:だーめ
兄:ゆびきりげんまんはりせんぼん、ウソついたらはりせんぼんの-ます♪
妹:なにゆーてんえん!
兄は4歳で妹は2歳1ヶ月
2歳で死について理解しているか不明だが、少なくともツッコミはできるらしい。
我が家唯一の教育目標、3歳にしてツッコむ、をすでに達成している。
もはや教えるべきことはなにもない。
最近、7歳、4歳、2歳の子供たちの間でずるさ自慢が流行っている
同じ食事でも、大きさや味のよい部位などでより優れたものを手にしている時に、嬉々として自分がずるいポジションにあることを顕示する
ずるいでしょ?
と承認を求める
子の誰かを抱っこしている時も、羨望のまなざしが刺さる
ずるいという声なき声が聞こえてくる
このように、他者の欲望としての<私>の欲望(ラカン)は自然な家庭で容易に観察される
同胞は親の愛を奪い合うライバルである(フロイト)
自然状態では万人が万人に対して闘争する(ホッブズ)
それでは身がもたぬ
争いは辛い。痛い。血が流れる。
よって、現実原則が上からふってくる、父に委ねる(去勢、フロイト)
自然権を国家、リヴァイアサンへ譲渡する(ホッブズ)
快感原則から現実原則へ(フロイト)
争いから平和へ、現実の美しき妥協へ
やはり対話しかない
マスターベーション(のみ)ではなく、交歓も
モノローグ(のみ)ではなく、ダイアローグも
高まった緊張を対話でドレナージしなければならぬ
全ては循環のなかにある
だって、そうでしょう
権力は監視しなければ、などと言う時、
ダイアローグをしましょうなどと、ぬけぬけと言う時、
それはセクハラだとか、パワハラだとか、喫煙はダメだとか他者に言う時、
あなたは、あなた自身の権力を自覚していますか、
と、私は気になる
卑近な場面で言えば、あなたが父親である場合、あなたは子に発揮している権力に自覚的ですか
私は私が日々行使している権力のあれこれに、日々うんざりしている(だからなんだという話なのだが)
私が怒った時に、子のまなざしが、いの一番に私に注がれるとき、やりきれぬ思いがする
そのようにまなざさないで欲しいと願う
(随分と身勝手な権力だこと。そしてそのことにまたうんざりする)
子と接するのみならず、誰と話す時も、権威的な自分が立ち上がる様が自覚されるとき、その刹那、ないし事後的にうんざりする
かくして王様は孤独である
だから植物がよい
植物には権力の無自覚性がない
また同じ場所で私に挨拶をしてくれる。同じまなざしで。
今年もヤマボウシが、アジサイが咲き始めた
タチアオイという佇まいの美しい、気品高い花とも出会った
愛おしい
王様でなくとも、権力はあらゆる場面でやはりある
地位や立場、人生経験の差などといった差異だけではない
方言の差といった瑣末な差異ですら生じる
情報の非対称性はポジションに関わらず常にある
<私>と<あなた>の差だけ、そのままある
2者が話すときdia(2人の間で)logueにならないのは、どちらか一方が、あるいは両者がmonologueしているからである
我々はみな王様なのである
王様は孤独で最も退屈なのだ(パスカル)
ユゴーの描くルイ11世も退屈にうんざりしている(ノートル=ダム・ド・パリ)
孤独な王様たちがなんやかんやとtweetしている
モノローグもよいのだ
もちろんよい
自分と対話をすることは耕すことだ
マスターベーションもよい
おのが想像力を自由に発露させればよい
しかし、この我が身我が土地という必然性を離れれば絶望が待っている(キルケゴール)
他者と交わるのであれば、
ヤマアラシ同士が暖め合うことを意図するならば(ショーペンハウアー)
お互いのトゲでもって傷つけ高まる緊張をドレナージしなければならぬ
それは、一方的に一者が勝ち、他方が負けることではない
それでは、快感原則に身を任せた自然状態にすぎぬ
めいめいの小さな王様が、おのが土地の取り分を争って悲喜交々しているに過ぎぬ
王位を維持する限り、交歓は起きない
そこに支配はあっても愛はない
玉座から離れぬ者の前戯はさぞつまらんだろうな
相手が本当にイったかどうかも分からんのだろう
それはマスターベーションである
同様に、抽象のモノローグはマスターベーションである
交歓が必要なのだ、具体的な愛のある交歓が
愛し合わければならぬ
自我の玉座からおりたマイノリティ同士が愛し合うのだ(近頃の若者はそれを脱構築と言うらしい)
私はマイノリティである
しかし、あなたもまたマイノリティなのだ
京から比叡に登るには雲母坂を行かねばならない。
花崗岩の風化した砂礫がざらざらする。木々は茂り、くぼんだ坂道を湿気と暑さの中に汗を垂らしながら登るしかない。
坂本のがわには日吉大社があり。東面した金大巌が太陽の光を浴びると鏡のように光るという。比叡山は古くからの信仰の山である。いかなる人間の歴史も、山の霊威を塗り隠すことはできない。いかなる人間の信仰も、山の霊威を置き換えることはできない。
山はやや涼しくなってくる。
都のそばの山であるのにこの勢いはどうだ。
比叡の山の上、西塔、さらには横川のほうまで行けば日枝の山のまことの姿が垣間見えるだろう。
なぜ全ての人は救われぬのか。
一切皆苦の果てに救いがあるのか。
救われるために苦しまねばならぬのか。
あたまの悪い私はどうしたらあたまが良くなるのか。
見よ蒼穹を突く大比叡を。真実は身近にありながらしかも一切がわからない。裏も表もないのに目に見えない。
賢い人は幸いである。祈らずにすむ。
空谷子しるす