8日目

素直なことは私の美徳だと思っている。そういうことは、普通、自分では言わない。だから、多くの素直で、かつよき人は、他人に評されるだけだ。だが、私は他人からも言われるうえに、このように自分でも、言っちゃうのである。

例えば、昨日WAIS-Ⅳ(知能検査)を行ったが、「長広舌」という言葉の意味を問われた。病気のせいではなく、私はこの言葉の意味を知らなかったので、「知りません」と答えた。ここがポイントではない。セラピストは少し意外そうにしながらも、「あとで検索してみて下さいね」とアドバイスしてくれた。今朝起きた時、この言葉を思い出した私は、スマートホンで検索し、結果を日記に貼り付けた。この、ちゃんと調べたのが素直ポイントである。まあ、大方の現代日本でネットに日常的に触れている人にとってはもう当たり前過ぎる話であり、言われなくてもやるのだと思うが、これを言われて思い出したうえでやっている、そう思うことで、私は自分が言われたことをそのとおりにやっていると、自分のことを捉えるのである。これは素質でもあるし教育の結果でもあり、技術の進歩の影響であるとも思われる。ネットは広大だわ・・・。

もうひとつ。私はいまレベチラセタム1000mg/日を内服していて、恐らくその副作用とは思うが、軽い倦怠感がつきまとっている。悪性腫瘍の終末期の患者さんの強い(しかし見当識は保たれている)倦怠感や、心不全終末期の会話もままならない程の苦しみとは比べるべくもない、もう塵芥に等しい軽微なものだが、なかなか本調子、といかない。昨日は主治医から予後の説明などがあったのだが、それの影響なのか、いつからか、少なくとも今日は、どうも気分も上がらない。看護師がラウンド時に調子を訪ねてくださるので、正直に答える。すると、「今日は予定もなくて、許可もでていますし、院内を散策されてはどうでしょうか」とアドバイスしてくれた。なので私は今、こうしてローソンで記事を書いているのである。これがワンポイント。あと看護師さん可愛かったです。

最後に、日曜日に素寒さんとお電話した際に、落語でもどうだいという話になり、桂米朝の地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)を勧められた。素寒さんのご家庭でも聞かれているようである。私は素直に、すすめに従って今日の午後はこの高座を楽しもうと思っている。

なお地獄八景は大変長い噺で、演者の体力を消耗するもので、米朝自身晩年は演じていない。これは同じく比較的長い噺である「百年目」も同様で、米朝は古典落語(上方落語-関西の伝統芸能としての落語)復興・発展の祖という立場からも、これらの作品には特に思い入れが強かったようである(根拠は、テープについているライナーノーツと、米朝のインタビューの本など・・・実家のどこかに眠っているはずです)。私自身は、祖父の趣味で家にあった米朝と枝雀のテープを、小学校に上がる少し前〜中学年頃まで(今ともうと、意識的に音楽を聞くようになるころまでだろうか、小学校5-6年生頃だ。)聞いて寝ていた。地獄八景は、尺としては長いのであるが、小噺の寄せ集め、という趣もあり、子供でも楽しむことができる。あと、どこの図書館や児童館にもおいてある絵本のシリーズに「吉四六(きっちょむ)さん」というのがあるが、これのひとつに、とてもよくにた地獄の噺(たとえば、クライマックスの大鬼に飲み込まれるシーン等が有名だろうか)が載っている。そういうのを読んだ私は、幼心に、童話や面白話などは、どこにでも似たような話があるものなのだと思ったが、ユングあたりが興味をもったのもそういう所なのかも知れないと思うものである。さて、今、聞き直す前に、ひとつ遊びのために、噺の筋を思い出して書き出してみようとおもう。まず枕ではとにかく長い噺であまりやりまへんのや・・・という言い訳がなされる。男がサバを食べて死ぬところから噺が始める(つまり、恐らくだが、アナフィラキシーショックではじまる物語なのである。笑。いやアニサキスかもしれないけど・・・)「おぉぉーーい」道を先ゆく知り合いを追いかけ、声をかける。道楽を尽くしたため人生最後の道楽としてふぐを食べきた大金持ちの若旦那が通り過ぎる。三途の川の渡しは前は婆がやっていたが、金が足りないから婆はソープランドでも働いている。「閻」魔様のお「触れ」で物の値段が上がって困ることをエンフレという。川を渡った後は念仏を宗旨ごとの店で買うが、よい念仏は80万円もする(地獄の沙汰も金次第でんなあ)。川端康成、太宰治、三島由紀夫の講演が予定されている(テーマは「自殺について」、ああーこれは聞かなあかんわ)。閻魔様の登場。(テープだとここでB面になる) お裁きがあるが、一芸があるものは地獄ゆきを免れる。4人の重罪人は大鬼に食べられてしまうが、4人のうち一人は医者で、腹のなかの腹痛を起こす場所を引っ張ることで鬼が苦しむ。下げは、大鬼が「こうなったら閻魔様あんたを飲まなあかん」「どうしてじゃ」「大王(大黄)のんで、下してしまうねや」

随分端折りました・・・切りがないですね。これ、ダイオウというのが、現在でも高齢者の方々ご愛用の緩下剤であるセンノシド(センナ)のことですが、それを分かってないと、全然わからないオチなんですよね。幼い私は流石に分からなくて、親にきいて教えてもらった覚えがあります。まあという感じで、今日は過ごしていきたいと思います。お昼ごはんの時間になってしまいました。(H)

7日目

今日は疲れていて早めに寝ようと思います。手術は6月初旬になりそうです。フォローアップは生涯となります。上手くことが運んだとしてとして今の時代の成績で、私の寿命は50-60代くらいまでらしいです。ながーいおつきあい、と考えるか、平均余命から考えれば短いと考えるか。あと今の私にはパートナーがいません。あと、どうやって働いていくか、生きていくか。Stievie Wonderが2000年頃のLondon Live(よくYoutubeに違法アップロードされてる、DVDのやつです、私も持ってますが。たしかりんぶんでも一度、滋賀県でみんなで見た覚えがありますが)、ラスト曲 (たしかUsだったと思います。話それますけどマイナー曲をラストに持ってくる感覚って、アジア人からするとやっぱり違和感ありますよね。((※Us自体がメジャースタートのサビマイナーという変な曲))日本の映画の曲、例えば寅さんとか、大概メジャーの和音で終わりますよね。まあどうでもいいですけど。) 

「Use your heart to love somebody」

っていうんですね。このDVD、学生の頃に感銘をうけて、未だにその気持だけは持ち合わせてたいと、思うところなんですけど。さて誰かを愛することとは、具体的になにをして、何をしないことなのか?私にできることは???

6日目

本日は日曜日であり、朝一番に風呂に入らせてもらった。というか実はだいたい毎日一番に入っている。風呂は当日予約制の、早い者勝ちになっていて、大概8時過ぎまで毎日待っているのであるが、9時の枠がいつも空いているので、一番風呂を頂戴している。風呂と言ってもシャワーである。病院の一人用のシャワー室はいずこも同じ企業の製品なのだろうか、かつて勤務していた病院の、当直シャワー室と同じ形をしている。

発病してから色々な人と喋り、連絡をとっている。今回、退院後手術までにはしばらくの時間が、ありそうである。今日は、3年間合わなかった人と、退院後に合うことになった。とても嬉しい。このちっぽけな人生で、私は多くの素晴らしい人に出会えた。多くの人の期待を裏切り、残念な気持ちにさせ、驕り高ぶり振る舞ったけれども、そんな私を憐れみ、ささえれくれる、人のぬくもりに触れることができた人生だった。感謝してもしたりない、あたたかな世界だった。たとえ実存してなかったとしても、ナイスなファンタジーだったと思っている。勿論、右肩くらいしか痛くなくて食事も全量摂取しているから言えることだ。術後には、痛みのために、そうはいかないだろう。もしもデキサメサゾンを内服するようになれば、様々な生活上の制約が課されるだろう。全ては今、いまこのときの平安に、ただ感謝するのみである。(H)

5日目

H: fMRIについて教えて下さい

ChatGPT: fMRIとは、機能的磁気共鳴画像法(Functional Magnetic Resonance Imaging)の略称で、脳の神経活動を非侵襲的に測定する方法です。fMRIでは、脳の血流量が増加することで、脳活動が起こる部位の周辺の酸素消費量が増加します。この酸素消費量の増加に伴い、脳血流量が増加するため、fMRIは脳の活動部位を間接的に検出することができます。fMRIでは、磁気共鳴画像法を用いて脳の構造を画像化し、同時に脳の神経活動を測定することができます。被験者は、脳の機能を刺激する課題を実行しながら、MRIスキャナーの中に入っている間、脳活動を測定します。脳の活動部位には酸素が供給されるため、脳血流量が増加し、それによってfMRI信号が検出されます。fMRIは、脳の特定の機能領域の活動を非侵襲的に測定することができるため、神経科学や心理学などの分野で広く使用されています。また、脳神経科学研究や臨床診断において、脳の活動部位を特定するための有用なツールとしても活用されています。

H: fMRIで心の中のことを覗かれてしまいますか

ChatGPT: fMRIは、脳の神経活動を非侵襲的に測定する方法であり、心の中のことを直接覗き込むことはできません。fMRIは、脳の活動部位を間接的に検出することができるため、脳がどのように反応しているかを推測することができますが、直接的に心の中を読み取ることはできません。fMRIの測定結果は、被験者の脳の活動に基づくものであり、脳内で何が起こっているかを解釈することができますが、それが必ずしも被験者の意識や感情を正確に反映するわけではありません。また、fMRIによって得られる情報は、被験者のプライバシーを侵害することはありません。ただし、脳の活動を測定するためには、被験者がMRIスキャナーの中に入り、一定時間静止する必要があります。そのため、fMRIを実施する際には、被験者のプライバシーを保護するために、適切な倫理規定が存在し、被験者の同意を得て行われます。

第4日目

今日は痙攣発作後状態(Post-ictal state)について調べたりしていたらついつい遅くなってしまい疲れたので眠ろうとおもいますが、やはり色々な人に相談などしているわけですが、病気しているとはいえ一番暇人なのですから、忙しい人にメールしたりやり取りしてもらって申し訳ないなという気持ちにはなります。

第3日

母:あなたは祈っていないし、聖書を読んでいない、そのような態度が果たして許されるだろうか、勿論出来ない人がしなくても何も問題はない、しかし、できるのにやらないのはおかしい、それは思い上がった態度だ、私は10年間教会を離れていたが、父のことと(新)宗教、淀キリのホスピスで教会員との再びの出会い、交通事故による罪の自覚というエピソードがあって深く懺悔し、神の元に戻された、そしてそこから、本当に祝福された日々を過ごすことができている、求めようとする下僕に対しては主人は与えようとするはず、祈りたくないのか、聖書を求めたくないのか。もしも今、時間が与えられたのなら、それは離れていた神様との時間に充てるべきではないのか。

私:確かにある時期から祈りや聖書の通読が私の日常から消えていった、私は、神様はすべてをご存知であり赦されている、そして私は神様がすべてを成功や良い方向に導かれるとは考えない、また祈りの程度や有無によって、その希望の実現・現実の結果が影響されるとは、考えていない、やはりすべて我々の目の前におきていることは神様が働かれた結果であって、神様の働きの結果僕が術中死することだってあり得ると考えられるし、だからといってその後に祈りが足りなかったから、とは考えたくはない、それから、私は祈りたくなかったり聖書を読みたくなかったり拒むような気持ちがあるのではなく、祈りが非科学的で無意味な行為だといっているのでもない、僕たちはともに祈り合うことで、祈らないときにはえられない感情を共有している、私はあらためて、祈り読む時間にしたほうがいいかと思う、ただつまるところ、そういう行為を私がとっているかどうか、他人には分かりようがない、なのだから母が私の行為を信頼できるかどうか、といったことの問題でもあるようにおもっている、私はこれを私が18歳くらいのころから母との間に問題として横たわっていると感じてきたが、今日の日までここまで大きく取り上げてこなかった、だがこうして指摘されることで非情に辛く感じることも事実であり、伝えることと行動を変化させることが必要であるように感じたため、伝えることとした

母:そのように神様のことを考えているとは知らなかった、悪いことがおきているのはサタンが働くからであろう、ただもうあなたには後がなく、言わば刃を突きつけられている状態なのに、神様がなんでも救ってくださるからなにをしても、祈らなくてもいい、という態度では許されない、祈るかどうかはあなた自身の問題であるため私にはわからないけれど、とるべき態度は唯一つであるようにおもう、牧師にも相談をしてはどうか

私:私の考えを伝えることができてよかった、また(何度もきかされた話も多かったが)母の考えをきくことができよかった、通読と祈り、そして牧師との相談はあらためておこない、このときを与えられたことの意味を神様にもとめていきたいとおもう。

第2日

朝希望していたパンが想像以上に美味く、やはりパン食の盛んな土地柄だけのことはある、などと感心した。検査としては脳血管造影CTだった。造影剤がながれると熱い感じがしますよ、などと、離島で造影CTを自ら撮影するときなどさんざっぱら説明してきたものだが、いざ我が身がうけるのは初めてであって(緊急入院したときもMRで造影剤を使用されたはずだったが、CT(ヨード系)はおそらく初めてのはずだった)、それなりに緊張しナースコールをもつ手に汗を握った。咳が出てしまったらアドレンリン0.3mgを筋注しなきゃ、でも今は患者だからオーダーできない・・・などと考えたが、杞憂に終わった。ただ、造影剤が血流に乗っていくとき、咽頭に「有機溶剤」の薫りを感じ、それに合わせて温かい液体が体内を駆け抜けていった。

第1日

正確には、転院第一日です。3週間前、私は高校の部活の同級生とともに、高校の部活の顧問が退職後にひらいていたで呑んでいたのです。その夜と、その夜までの事とは、今でもよく覚えています。うまい酒で、いい夜でした。そして、その日まで、記憶で困った経験は、ほんとうの意味では、ありませんでした。勿論、すっとぼけた性格をしていますので、約束が抜けてしまうことも、これまでの人生、一度や二度ならずありはしましたが・・・私個人の基準では、まあなんとか人並み(か、ややそれ以下か)に収まっているものと考えられていたのでした。ただ、それでも、成人後、慣れ親しんだ人以外の人とする対話、あるいは留学、学会、勤務先(病院)・・・そういった社会のつきあいは、私にとって、まあまあ、ハードルというかストレスが高いものでした。勿論人間は、我が身を振り返るときには、欠けたる所が目につく生き物であろうと思います。とはいえ、一方で、その状態を認識しながらも、少しでも欠けた所を補おうとする、そのような存在でもあると思うのです。そういう意味で、私もなんとか、外れがちながらも、なんとか人並みの範囲内ではなかろうかと、そう考えていたのでした。

しかし、今になってみると、一方で、どんどんとお酒が飲めなくなったり、コーヒーが飲めなくなったり、金遣いが変わったり(定額系サービスを2022年頃から複数利用するようになった)、といった変化があったようにも思います。それくらい普通、と言われてしまうとそれまでなのですが(そして自分でも、そうとも思うこともできますが)、・・・ただただ、そういう目で振り返って見ている、ということです。

そんななか、今からおよそ3週間前から記憶が曖昧になり、家でひっくり返っていた私は(このあたりもまた機会があれば詳しく書きます)、2週間前から勤務先に入院することになりました。診断は、脳腫瘍疑い。月並みですが、やはり驚きました。色々な方に報告、連絡しました。そして本日、大学病院に転院することとなりました。学生以来の大学病院です。場所としては生まれて始めて足を踏み入れる病院です。きれいな病棟でベッドも上等です。ただ、昨日まで職場のはからいで個室に入院していましたのが、今日からは4人の相部屋、総室入院となります。いまのところ、大事はおきていませんが、目下の問題として音(例えば自分の放屁等)が、気にかかります。プライバシー、は時代とともにその概念が移ろう、面白いものだと思います。基本的には、とはいえ、時代を経るごとに個々人の思想や信条、性的指向といったポイントは尊重されこそすれ、おざなりにされる方に進むことはなく、一方向的趨勢を感じます。そこに噛み合うのがコミュニティの論理です。いちコミュニティである病院の存在論理は、最大多数の病人が、癒しを得るための構造を提供することにあるのですから、どうしたって個人の領域が侵犯されます。そもそもケアするとか一緒にくらすこと自体が、ひとりでできることではなく、それは病院でも行われていますが、家庭とか、会社とか、ひとがひとりでいるのではない場所で日々営まれていることです。(H)