専攻医9

丸太町通にはプロテスタントの寺があって、十字架が曇天の空を指している。

朝はいつも「マリア様助けて下さい」と祈る。朝に限らずいつも祈る。祈るとかろうじて物事が進む。私は病人である。重篤な病人が薬を切らしては体が悪化するように、私は祈りを切らしては滅びてしまう。

中間医から患者のことを尋ねられてもだいたいのことが分からない。6月から来た研修医の先生のほうがよく分かっている。私はあまり優れた医者ではないのだと思う。しかし適当に生きていく。私は全ての誠意を尽くしていることは神がご存知である。

論文の抄読会が来週にある。論文は手元にあるが、まだ読めていないしパワーポイントのスライドもできていない。この週末に片付けることはできるだろうか。

初めて外勤というものに来た。伏見の山にある病院に来た。入院している児らは元気だ。病院といってもいろいろあるのだと感心する。発達に凹凸のある児らが入院しているという。見ているかぎり彼らは普通だ。親しくすれば色々と見えてくるのかもしれない。

私は常に考えることを要求されている気がしている。それはとてもうんざりすることだ。一体なんのために考えるのかが分からなくなるからだ。一体医者はなんのために鎬を削るのか分からなくなる。おおむね患者のためというのは間違いないことだ。しかしそのためと言うには学会、論文抄読、さまざまな事務作業は迂遠に思われる。もちろんそれらは利益のあることだろう。しかしそれらが主な目的にすり替わりかねないほど忙しくしては不幸なことだ。

竹下節子の「聖女伝」を読み、その文章の複雑さに困る。聖女の成したことを単純に知りたいと思っても、竹下節子の批判的学術精神が彼女自身の分析を文章に加えることを逃がさない。私はただそのまま聖女が歩んだ実際を知りたいだけなのだ。その意味では聖人伝として有名な「黄金伝説」も、宗教にありがちな荘厳をあえて取り付けた感じがして苦手だ。私は淡々と聖人たちの歩みが見たいだけなのだ。

学術というのは…正確さを保つために言葉が厳密になり、言葉が厳密になると実際に現れてくる姿は真実から遠ざかる気がする。学術らしい学術をいくら重ねても救われない気がする。もちろん科学は治らない白血病を治るようにしたのだ。そこに自然の軸があれば学術は意味が生じる。自然の内奥には神がある。軸のない学術はただ難しい言葉を並べるだけの無意味である。

乾燥した世界に水が欲しい。神のいない知恵比べをする羅刹の世界にはいられない。

空谷子しるす

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