A shivering chill

それは突然やってきた。
当直中の深夜近くに私はぼんやりしていた。
それは完全に不意に、しかし明らかにステージの変化を告げるファンファーレであった。
突如、がくがく震えて飛び上がった。
これが、戦慄かっ!!
布団にすべり込むが、なお寒い。
幸いこの施設の当直室の布団は立派な羽毛布団だった。
しばらくすると体幹は温まった。しかし、足はしっかりと冷えたまま。

発汗法で邪を追い出さねばならぬ。
葛根湯は数包常備している。
ベッドのすぐそばのデスクに取りに行けばよいのだが、このなんの造作もない動作がなかなかにできない。
意を決して這々のていで布団を抜け出し震えながら葛根湯2包を流し込んだ。
寒い寒い。
1包目は仕損じて6割程度しか内服できなかった。
暖を取るために白衣を着て布団に戻るが1時間待っても汗がでない。
足はまだ冷える。
葛根湯をもう1包飲む。
すると、しばらくして全身からじんわりと脂汗が出始めた。足もあたたまり始めた。
しめた。
その後は猛烈な熱感がやってきた。
今度はとにかくどうしようもなく熱く、全身から汗をかく。
排尿した。下着、白衣は汗でじっとりしている。
しめた、素晴らしい。経過は悪くない。

読者も覚えておくとよい。
葛根湯は常に持参しておきなさい。
寒気が来た時、風邪かなと思った時に、若ければ2包でよいから一気に内服し、布団にくるまって汗が出るまで待ちなさい。
汗がでればしめたものである。汗がでなければさらにもう1包飲みなさい。
間違ってもこの段階で病院に受診してはいけない。
待合で長時間待たされるなら風邪はより悪くなる。
風邪の初期に対して西洋医学は何もできない。

ちなみに、数千年の歴史が発汗法の偉大さを見出したが、私は20歳の頃に自分で天才的に発見している。
風邪を引いたと思った瞬間に①大量に水を飲む、②大量に食う、③大量に眠るの三つの実験系を組み自分で試したのである。
結果は①の圧勝であった。食わずとも寝ずとも、大量に水を飲んで汗をかいて小便を出せば治せるということに気がついた。以降、私は風邪を1時間で治せるようになった。
もっともその頃医学部生でなかった私は、大量の水でもってウィルスを希釈するなどという大胆かつとんちんかんな仮説に満足していたのだが。

ちなみに、読者諸氏に告げておくが、創傷に対する湿潤療法は小学生高学年の時の私の発明である。
特許申請をしておけば今頃億万長者であるのに、実際は大量の借金を抱えた貧者でしかない。しかし、心は明るい。ほっといてください。

閑話休題。
その時の私の脈は浮・緊のように感じられた。
汗は全くない。
葛根湯よりも、むしろ、麻黄湯がよかったろう。
体温計があれば体温を測りたいが、当直室には体温計はもちろんない。
体温が0.55℃上昇すると脈拍が10回/分上がると言われている。
脈拍は102回/分。
普段の脈を70回とするならば、+30回/分であり、体温は平熱より1.65度上昇している。36.5度と見積もると38度以上の熱があるのだろう。体熱感と矛盾しない。
呼吸も乱れていない。発熱以外のバイタルサインは悪くないのだろう。
発汗法を使って、なんとか邪の侵入を抑えられている。

しかし、出来るならば抗菌薬を直ちに投与したい。

これまでの経過からは副鼻腔炎に違いないと直感した。
風邪症状の後に、閉鼻・頭重感・倦怠感という典型的ないつものウィルス性副鼻腔炎の症状が出現したのが3日前である。
副鼻腔炎では抗菌薬は最初から使用しない。まずはウィルス性副鼻腔炎としてロキソニンなどNSAIDsや鼻うがいなどで改善することが多い。10日間はそうやって観察できる。
今回も、NSAIDsを内服すればおよそ30分ほどで、おそらくは抗炎症作用により、粘膜の肥厚が緩和され鼻の通りがよくなっていた。
しかし、今や悪寒戦慄をきたしたということは、菌血症に至ったか?
否、副鼻腔炎で菌血症に至るなど聞いたことがない。
しかし、何かフェーズが大きく変わったに違いない。
菌血症には至らぬものの、それでもウィルス性から細菌性副鼻腔炎に変わったのであろう。

残念ながら抗菌薬は常備薬としては持参していない。
できるならば、施設に置いてあるであろうセフトリアキソン2gを投与したかった。
使えばいいではないかと読者は思うかもしれない。
しかし、施設の常備薬は当然当直医用のものではない。
なにより、恥ずかしい。
私にも羞恥心というものがある。
もちろん、いざとなれば施設の薬を自分に投与することも、最悪の場合、救急車を呼ぶこともありうる。
しかし幸い、細菌との初戦は私が勝った、と兆候は言っている。
今後は抗菌薬がなければ敗血症で死に至るであろうが、なんとか今晩は東洋医学でしのげそうである。

暑すぎて寝ようにも眠れない。
目を閉じると忙しく、意味が騒ぎ始める。
何かの戦闘シーンのように、もう忘れてしまったが意味を担った何かが目まぐるしく活動していた。
おそらく夢うつつであった。
正しくは夢ではなかった。なぜなら眠っていなかった。
当直室で何か急変が起きた時の記録として妻に自分が何をしたかを正確に意図して報告していた。
時間感覚も見当識もおよそ保たれていた。
おそらく煩躁と呼べる状態であったろう。
であれば、強い実証と考えて麻黄湯よりも大青竜湯がさらによかったのかもしれない。

私は大量の水を飲み、計3回の排尿を得た。
すばらしい。
しかし、電解質が心配である。
できれば生理食塩水の点滴を受けたい。
なんなら塩でいい。塩昆布でもいい。
しかし、この当直室には塩っ気のあるものは置いていない。
そう、当直室は医師が待機する場所であって、患者を助けるための場所ではない。
幸い、私は天才的に他の当直時に余った味噌汁の素を2つばかり持参していた。

しかし、本当は塩が欲しかった。
温かい塩水でもって、鼻うがいをしたかったのである。
鼻うがいは皆さんにも是非おすすめする。
風邪で鼻の通りが悪い時にはとてもよい。
感染症は結局、流れが悪くなって圧が高まっておきる。よって、流すことが大事になる。鼻うがいは滞った鼻の流れよくする。
しかし。
それを真水でやってごらんなさい。
鼻がツーン、となって苦しい。
プールで不意に鼻に水が入った時のあの辛さですよ。

私は今回、大量の水摂取によるナトリウム低下を防ぐために味噌汁を使うべきか、いっそ味噌汁で鼻うがいをすべきか、数秒間は真剣に考えた。
味噌汁には気の利いたことにワカメや小さい油揚げが入っていた。鼻うがいでこれらを吸い込むことは不本意である。結果、失敗してしまう可能性が高い。よって、私はほとんど迷うことなく味噌汁2袋を正しく摂取することに決めたのである。
そして、鼻うがいの方は真水でやったのである。
辛かった。鼻がツーンとなった。あれはやはりやるものではない。

こうして私はなんとか当直を終え、抗菌薬に辿り着いた。
そこからの話もなかなかに面白いので記録しておこう。

翌日の第2病日は、血液検査をしておいた。
悪寒戦慄があり、抗菌薬投与せずに一晩経過した後の炎症反応を見ておきたかったからである。
白血球は1.4万、CRPは3。
やはり、ぼちぼち炎症反応が高く、細菌性感染症の初期を支持する結果であった。仕事を休む客観的な口実にもなった。
第2病日の夜、咽頭に違和感を感じた。
これはおかしい。
副鼻腔炎で咽頭に違和感を感じるはずがない。
鏡で自分の咽頭をペンライトで照らして見てみた。
すると、
両側の口蓋扁桃にびっしり白苔がついているではないか!
咽頭後壁にはリンパ濾胞もある。
右の耳管扁桃にはポツンと白い点がある。
おもしろい!

なるほど、細菌たっぷりの鼻汁が副鼻腔から咽頭に流れ込んで接触感染を起こしたのか。思えばいかなる感染ルートよりもこれほど直接的な暴露もなかろう。

Chat GPTにも、副鼻腔炎から両側口蓋扁桃炎へ波及することはありますか、と聞いてみたら、あると言っている。あるのだ。

これら白苔は第3病日には減少し、第4病日にはほとんど消失した。
おもしろい。

ちなみに、副鼻腔炎の身体所見として、前かがみで頭痛が増悪するというのがある。
副鼻腔炎で膿が充満した状態でうつむくと、空洞内の静脈圧が上昇し三叉神経への機械的刺激が増強し頭痛が悪化するという機序らしい。
私もこの所見は知っており、診察でも使っていたのだが、診察室でちょっとおじぎしてもらう程度では感度が低いと今にして思う。
もっとがっつりと腰を曲げなければ偽陰性となる。
90度の丁寧なおじぎでも足りない。
例えば「床に落ちてるコインを拾ってください」と指示してやってもらうのがいいだろう。もろもろの所見、全身状態が改善しても、この深いおじぎでの頭痛増悪は第5病日の今もまだわずかに残っている。

さようなら

昨夜は当直だった
珍しく4時間ほど眠れた

開始の17時、
ひどい時は、ERフロントに患者が溢れている
昨日はそうではなかった。
カルテの救急一覧を見ていると、
ふと馴染みの名前が目に止まった。
あれ、どうしたの。
カルテを開ける。
Stanford A型急性大動脈解離、高齢でありBSC方針。
造影CTをみる。
これはだめだ。

彼女は私の外来で定期通院している患者であった。
2年ほど前、感染症科にいる頃に、感染性心内膜炎で入院し、以来外来で診ていた。
認知症がある。
それを発達障害のある息子が支えていた。
つい、先日、別れを告げた。
私が退職するからである。
息子は、「先生だけですよ、こんな風にいじってくれるのは。次の先生にもよろしくお伝えください」と寂しがってくれた。
彼女はよく笑ってくれた。
デイサービスでは麻雀を楽しんでいたらしい。
「雀士のたかこ言うたら、この界隈で知らんもんはおりませんもんなあ」
と私がふっかけると、彼女も、息子もゲラゲラ笑っていた。
私もその笑いをゲラゲラ笑っていた。

たまたまその時間は都合よくERに患者が少なかった。
私は2階に彼女を訪れた。
青息吐息の彼女は、私の呼びかけに応答できなかった。
A lineの血圧は50だった。
あの時と同じであった。
なりたが旅立った時のように、私は肩を撫でながら「大丈夫、大丈夫だからね」と連呼する以外能がなかった。
「雀士のたかこ言うたら、この界隈で知らんもんはおりませんもんなあ」
と私はふっかけてみた。
A lineの血圧は60に上昇した。

また一人、私と笑った人が旅立った。

なりた、かっちゃん、
私を愛し、私が愛した人たちよ
あなたたちは神なのか
神になったのか
だから私の問いかけに答えないのか

一人、また一人、あちらに行き
やがて、私の親しい誰もが私の問いかけに応じなくなる

さよなら。
ありがとう。

念仏三昧、症状三昧、つまり享楽

ある末期癌の高齢者は、沈静して欲しいと強く強く訴えた。
彼には多くの末期癌患者がもつ身体の痛みや呼吸困難がなかった。
じっとしていると不安で仕方がないから眠らせてくれと。
彼の訴えは我が国で禁止されている安楽死の希望ではなかった。
しかし沈静であっても、死期が迫っている状況でなければ実施できない、と我が国(の緩和医療学会の)の倫理は判断する。
私は何を思ったか「息が苦しい人も、痛みでしんどい人もいる中で、あなたは随分と気楽なはずですよ」と応じたが、病者には何も響かなかった。
振り返って反省するとともに、なるほど、症状がなければある種の苦痛が顕在化するのか、と気がついた。

ある思春期の少年は、コロナワクチンを接種後にさまざまな症状が出現し、学校に行きづらくなった。
元々周囲の刺激に対して過敏で、緊張・不安が高まりやすい性質であったのだろう。
その少年が、よく眠れた日は頭が働いて様々に考えて不安になってしまうから苦痛だ、と訴えた。眠れなかった日のぼんやりした感じの方がむしろ不安が少ないと。

私はかつて大学生であった頃に庭づくりのアルバイトをしていた。
春先に小振りのモモやサクラを皆で掘り起こし、運んで植えて見栄えを整えていた。
夏には北山杉に水やりをしていた。
今思えば優雅な日々であった。
様々な人間がアルバイトにきていた。
その中に、前職は警備員だったという寡黙な青年がいた。
その青年は、肉体労働と警備職を比較して次のように述べた。
警備員の仕事はきつかった。ぼーっと立っているだけで仕事になるから、あれこれ考えなくてもいいようなことを考えてしまう。その点、こうやって体を動かしていると時間を忘れるからありがたい。

緩和ケア医の岸本は、子どものみならず、がん患者もまた異界に接する言う。
従って、子どもだけでなく、がん患者においても言葉にならない、イメージを大切にしなければならない、と。

岸本の文章を読みながら、これら違うライフステージにいる、三者の訴えは全て同じことを指していることに思い至った。
彼らは皆、異界に触れたのである。
子どもや病者のみならず、人間が自由というものに接すれば、その時すでに異界が口を開けており、半分片足が入っている。
異界の歩き方を知らなければ、緊張を緩和できず、不安を惹起させるらしい。

我々は症状をもつことで、自由の緊張を、不自由を緩和しているのだろうか。享楽しているのだろうか。
異界を歩くには症状があったほうがいい。
埋没できる症状が一つはあった方がいい。
ガイドブックにはそう記載しなければならない。

症状なき者が異界の歩き方を知らずに不安と向き合うと、現代医学は貧しいことに病気にしてしまう。
全般性不安障害などさぞ使いやすかろう。
余分な名前だけ与えて緊張を緩和せぬ貧しさよ!

鎌倉初期に浄土門の念仏が普及したのは、そういう消息だろう。
念仏という日々の症状をもつ方が渡世によい。
念仏は症状であり享楽である。
統合失調症者の幻聴、一なる声は念仏かもしれぬ。
念仏がなくなれば寂しかろう。
われわれがここにしょっちゅうあれこれ書きつけるのも、症状であり、排泄である。
親鸞は念仏の行よりも信心の信に重きを置いた。
量ではなく、質であると。
一念、多念の差異など瑣末なことである。
親鸞は教義にこだわりこの点を見逃した。
臨床はすべからく、苦しむ者の具体的な困りごとに添わねばならぬ。
具体的な困りごとを差し置いて抽象をうんぬんするなど、エロスを解さぬむっつりスケベに任せておけばよい。

さて、かくいう私はいかなる症状を、いかなる享楽を処方しようか。
念仏を処方することは、この時代には困難である。
未熟者の私にはまだ答えがでない。
従って人様を批判できたものではない。

日々の緊張を緩和するにはいかんせん。
人々がセルフマッサージ、ストレッチができるような具体的手法はなかろうか。
やはり、緊張の緩和=笑いという枝雀の直観に魅了される。
ボケ、ツッコミ、笑いという舞台を現前せしめることが私の具体的な臨床アートである。
それは一つの運動で、緊張をほぐすマッサージとも言える。
思えば私はボケ病、ツッコミ病である。
常にボケようと頭が働き、常に何かにツッコんでいる。それを享楽している。
私が連続しているという信念に、保守に、ツッコミを絶えず入れようとしている。
緊張に笑いを。
この病を広げることが、宗教なき世の私の手練手管となるだろうか。


異界医療ことはじめ

気がつけば私は異界にさまよう様々な患者と関わっている。
私の自由意志によるものか、運命がそうさせるのか。
どうも私は異界のことがことの他気になるらしい。
ないし、異界が私を呼んでいるらしい。

子どもは、大人の常識的な世界とはまったく違う世界を持っている。
(中略)
昔、子どもは育ちにくかったこともあって、「七歳までは神のうち」と言われ、「あの世」に近い存在と考えられていた。しかしそれは昔だけのことではない。今も子どもは大人の常識的な日常の世界とは違う世界−これを「異界」と呼ぶことにする−に近い所に生きている。この世の常識とは違う世界での体験を踏まえて子どもは大人になっていく。言い換えると、大人になるということは、異界と距離をとっていくということになるかもしれない。
(岩宮恵子『生きにくい子どもたち』)

私がこのブログに子どもの言葉を記録するのは、異界での視力が高い子ども達の世界を仰ぎみたい一心からである。
振り返ってそう考えると得心がいく。
否、ただの親バカの一心からなのかもしれない、と謙虚になっておく。
子どもはかわいい(特に私の子どもが!)

岸本寛史は、子どもに限らずがん患者が体験する世界もまた異界であるとして、「がんを患うと、感覚が鋭敏化し、兆候空間が優位となり、見える風景が変化してくるのではないか」と問題定義し、夢や絵を用いた心理療法を提唱している(岸本寛史『がんと心理療法のこころみ 夢・語り・絵を通して』)。

統合失調症者はもとより異界の住人である。

異界とちゃんとした距離をとれるようになるためには、まず、しっかりとその世界に浸ることが大切である。
(中略)
異界との距離をどうとればいいかわからなくなり、現実と異界が混乱し、妄想ともいえる世界に陥ってしまうこともある。
(岩宮恵子『生きにくい子どもたち』)

私は気がつけばこれら異界の住人全てに関わるようになっていた。
いつのまにか小児の発達相談に関わるようになり、いつのまにか緩和ケア病棟で勤務するようになり、いつのまにか統合失調症者の訪問診療をしている。
全て、医師になった時点では予見できなかった。
摩訶不思議な縁の力が働いているようだ。

このような異界を歩き回る専門科は存在しない。
臓器を超えて、ライフステージをまたいで、ということになれば家庭医療が似た領域を有するかもしれない。そいう言えば、私は家庭医の専門医ということになっている。
しかし、家庭医は統合失調症者はみないだろう。発達相談を受けているといえど、初診から心理士と協働してその後のフォローまで全てするということはしないだろう。
多くの家庭医は、それは我々の専門ではないと臆面なく言ってのけるだろう。
専門のないのが我々の専門であると諧謔を言う彼らが!

元より専門性などどうでもよい。
専門性に拘泥して徒党を組むあさましさにはうんざりしている。
徒手空拳で事象そのものに向かう他ない。
異界医療、と名づけるのがよかろうか。
あらゆるライフステージをと謳うのではなく、あらゆる異界をと謳う。

りんぶんには異界が溢れている。
O氏すでに詳細な異人論考を世に出しているし、彼の描く人物はみな異人である。そもそも彼の偉大な父上は明らかな異人で、その薫陶を受けたO氏は異界語が母語らしい。
M氏の思弁的な言葉も異界語に違いない。おそらく異人なのだろう。
「こどものちから」はこどもが見る異界を切り取っている。
臨床文藝医学会は、臨床異界医学会と言い換えてもよかろう。
略語として収まりがよいのは臨床文藝医学会であるのだが。

まあよい。
岩宮は、大人になるとは異界と距離をとれることと言っている。
われわれは今後も異界と距離をとりあぐねた様々な人間と出会うであろう。
いっそ異界で遊ぶと不遜に表明してもよかろう。
距離、空間、あそび。全て同義である。
異界にかどわされ生じた緊張から距離をとりあそんで笑うほかない。
いずれにせよ明日はわが身である。
ふむ、今日ではなく明日だと?

われわれは同情をもたねばならない。しかし同情というものは、一人の人におこったことは万人におこりうるものであることを、本当に心のそこからわれわれが認めた場合に初めて真実なのである。その場合に初めて人は自分自身に対しても他人に対しても益あるものとなり得る。もしもある気狂い病院の医者が、自分は永遠にわたって聡明であるであろうし、自分にわりあてられた頭脳が人生において損傷をこうむるというがごときは断じてないように保証されている、という風に思いこむほどに愚鈍であるとすれば、彼はある意味においてはなるほど狂人たちより聡明であるでもあろうが、しかし同時に彼は彼らよりは一層愚鈍なのであり、彼が多くの人を癒すというようなことも、またないであろう。
(キルケゴール『不安の概念』1844)

光りうしないたる 眼うつろに
肢うしないたる 体担われて
診察台にどさりと載せられたる癩者よ、
私はあなたの前に首を垂れる。

あなたは黙っている。
かすかに微笑んでさえいる。
ああしかし、その沈黙は、微笑みは
長い戦いの後にかち得られたるものだ。

運命とすれすれに生きているあなたよ、
のがれようとて放さぬその鉄の手に
朝も昼も夜もつかまえられて、
十年、二十年と生きて来たあなたよ。

何故私たちでなくてあなたが?
あなたは代って下さったのだ、
代って人としてあらゆるものを奪われ、
地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。

許して下さい、癩者よ。
浅く、かろく、生の海の面に浮かび漂うて、
そこはかとなく神だの霊魂だのと
きこえよき言葉あやつる私たちを。

かく心に叫びて首たるれば、
あなたはただ黙っている。
そして傷ましくも歪められたる顔に、
かすかなる微笑みさえ浮かべている。

(神谷美恵子「癩者に」1943)

ある当直明けの書簡

忙しい当直を終え、ビールを飲んでいます。
当直の後のこの高揚をおさめるには飲む他ありません。

昨日も印象深いエピソードがありました。
あるおじいさんがショック状態(循環不全)にあるが、その原因が分からないと日勤帯から引き継がれました。
間質性肺炎という病気がもともとあり、ステロイドというお薬が減量されていたことから、残る原因として副腎不全が疑わしい、と申し送りを受けました。
しかし、ステロイドの漸減はゆるやかなものであり、副腎不全をきたすペースとは思えませんでした。
加えて、血液検査では低Na高Kや低血糖といった所見はみられませんでした。
ショックのよくある原因として、敗血症を伴う感染症がすぐに想起されますが、四肢は冷たく、好中球の左方移動も見られません。
心電図は心筋梗塞のようではありません。
レントゲンでは肺炎の陰影に変化はなく、気胸だとか縦隔の拡大もありませんでした。
心臓の超音波検査では下大静脈はぺこぺこに虚脱しており、左室にはkissing signが見られました。
血を吐いたり、血を下したりといった病歴はなく、元々腹部大動脈瘤がありますが、超音波検査では腹水もみられませんでした。
大血管や心臓を観察するにhypovolemiaと思われましたが、生理食塩水を1000ml以上負荷しても血圧は回復していませんでした。
なんともヌメっとしたショックに、これは血管系だろう。早くCTで評価したい。しかし、血圧が70前後をふらふらしてERから移動できない、どうしたものかとヤキモキしていました。

このように奮闘しながら、なんとかCT撮影にこぎつけ、やはり元々もっていた腹部大動脈瘤が破裂していることを見出しました。
しかし、肺の悪いおじいさんは手術に耐えられる状態ではありませんでした。
元々お腹に抱えていた時限爆弾が破裂してしまったのです。
もはやフェンタニルという医療用麻薬で痛みを緩和する他ありませんでした。
結局、そのおじいさんはERにいらっしゃって、5時間くらいで亡くなりました。

診察中は家族を入室させることはできないことが多いです。
特にこのおじいさんのように、急変する可能性がある患者さんの場合には。
僕はなんとか方向性を定めて、長年寄り添った老妻を呼び入れ、2人が言葉を交わす機会を設けることができました。
振り返るにそれはギリギリでした。
最期には妻、中年に達した息子・娘、小学生や中学生と思われる孫達に取り囲まれながら、息を引き取る手引きをしました。
我ながら少し誇らしいお看取りでした。

忙しいERでお看取りをするというのは実は難しいです。
なにせ、(予定で入院する緩和ケア病棟などと違い)ERに受診したわけですから、本人にとっても、家族にとっても唐突にことが起きたわけです。
そして僕によって、まもなくご老人は死ぬこととなる、手の施しようがないと、突如告知されます。

僕はクリスチャンではないんですが、
高校がカトリックの高校でして、ある司祭に僕は発見され、卒業後も教育を受けました。
さまざまな書物とさまざまな人を紹介され、僕の世界は豊かになりました。
時に自力ではおよそ解決できなかったであろう知恵も授かりました。
僕は、神なき世に、司祭的機能をどのように担保できるか、
つまり、彼のようになりたい、という想いがあります。

医療者は宗教者と同様、生と死に携わる数少ない職種の一つです。
僕は昨日、あの激務の最中に、おじいさんが数時間以内にこの世を辞去することを見てとり、家族に告げました。
宗教者にもできない、医学的判断に基づいた宗教的支援ができる類い稀ないタイミングです。

ERでは患者さんと、その家族に関わらないで済ませるための弁解がたくさんあります。
まず、忙しい。
他に死にそうな人を救命しなければいけない、あの患者を待たせている、入院が必要と判断した患者のもろもろの同意書を得なければならない、またホットラインが鳴った、などと、文字通り忙殺されています。
あの時の僕も他に重篤な患者を診ていました。
原因不明の意識障害でけいれんが止まらない高齢者です。
その他軽症・中等症の患者もいました。

そのおじいさんの脈がのびはじめたと看護師より聞いた時、
忙殺されていた僕は、一瞬、ああそうですかと流しかけた。
それは10分だかそれくらいで心停止をきたす医学的サインです。
忙しい医療者にとって、死の間際の徐脈というのは、心停止手前を示す一兆候にすぎないのです。
しかし、ほぼ同時に、個室の中で大家族が旅立たんとするおじいさんを取り囲んでいるのを窓越しに僕は見た。
一見して、そこに緊張があった。
その緊張が私の精神に反響した。
彼らが、医学的な導きなしには、呼吸がやがて止まりゆく爺さんをみて、受け入れるということは極めて難しいだろうということがすぐに分かりました。
医療者は、どのように患者がひたひたと死に向かっているのか、それを知っています。
終末期に起こる嵐のような「こと」は、「もの」としての医学的な言葉が求められていました。
僕は、家族のそばに侍って、案内しなければならないと思い立ちました。

先般ご紹介した『複雑性PTSDとは何か』という対談集の中で、神田橋先生が緩和ケアについて僕に教えていました。
いまわの際の時には、戸惑う家族に患者の額を撫でさせて別れの支援をした方がよい、と。
これまでも臨終の際のさよならの支援に僕はこだわってきました。
7歳の男児がお家で亡くなった時、尻込みする兄の手をとって、頑張ったなと手を握ってやるよう導いたことがあります。
あの時も終末期の嵐の中、全く動物的勘でそのような僕はそのような援助を思い立ち行動に移しました。
あの僕の援助に、兄の手をとって、旅立った瞬間の弟の手をとるよう促したことに、医学的に肯定的な意味はあるのだろうか、
とその後もことあるごとに思い出していました。
ですので、神田橋先生の言葉は、僕の過去の(トラウマというともちろん大袈裟ですし、現代的すぎますが)ふるまいを肯定する役割を持ち、すぐに僕の心に響きました。

昨日はそれをすぐに実践しました。
小学生と中学生の孫は、死体となりつつある愛すべきおじいさんに近づくことを躊躇っていました。
僕は、家族皆に、いま耳は聞こえているから、ありがとうと言ったらいい、ちゃんと聞こえているからね、と支援しました。
皆、泣きながら、応じました。
手をとって頭も撫でてあげたらいい、ちゃんと聞こえてるからと。
そうか、そういうことなんだ、という具合に僕の言葉を受けていました。
孫もみな、そのようにしました。
下顎呼吸をとらえて、この呼吸は大丈夫ですか、と問う息子に、
これはあちらの世界に旅立つ準備をしている呼吸ですよ。大丈夫ですよ、みんなに見守られながら穏やかにみんなを感じていますよ、と答えました。

あの場で起きた「こと」は、僕がこのような言葉という「もの」で切り取るよりも、豊かななにかがありました。
特にあの場の老夫婦の間におきていた交流を僕はうまく描くことができない。
しかし、僕の試みた「もの」化は、「こと」の事後的な記述には適切でなくとも、あの時あの場所で緊張状態のなか皆がさまよっている「こと」をある程度緩和する機能は果たしたようです。

喪の作業では、やはり泣いた方がよいと僕は思います。
涙は精神が絶えざる循環の中にある根拠です。
泣けないことは精神の循環不全を示します。
涙として溢れ出ないと緊張した高圧状態がその後も続きます。
緊張は人間のふるまいを一へと閉じ込めます。
それはデタラメも遊びも笑いもない冷たい不自由な世界です。

このような援助は現代においては医療者にしかできないことです。
そして、それをしないですませる弁解が医療者にはたくさんあります。特に忙しいERにおいては。
僕は(今回おそらくたまたま)弁解せずに、彼らを導くことができた。
こういうことをするために僕は医者になったのだと、今は振り返る余裕があります。

昨日起きたことをすでに僕は美化し、都合のいいように歴史として記述していますが、後悔が残ることもあります。
もっと早く診断できればいずれにせよ死を避けられなかったおじいさんと家族の時間を少しでも増やすことができたかもしれない。
そのことを一緒に関わってくださった看護師さんにこぼすと、
でももしそうなら臨終の前に入院病棟に移動してしまって、あのように家族全体で見送るということはできなかったと思いますよ。だから、診断が遅れてよかったんです。
と励ましてくれました。

すみません、直明けにたかまった交感神経をアルコールで鎮めているもんで、筆が走ってだらだらと自画自賛するという恥ずかしいことをしています。

しかし、こういった人々の魂の緊張を和らげ、生じる心的外傷と喪失をどのようにケアするか、それが僕の目指す全てです。

素寒

『現象学の理念』

3年ほど前のプライマリケア連合学会でビブリオバトルに参加し、本書を紹介した。
その時の原稿を残していたので掲載する。
____________________________

みなさんは患者さんをケアするとき、寄り添うとき、どうすればケアになるのか、寄り添うことになるのか、困ったことはありませんか?

私は、非常に困っています。
訪問診療で例えば終末期ガン患者さんと向き合うとき、
手を握って傾聴したり、関係性に着目したり、自律性に着目したり、痛みには麻薬で調整したり、家族と医療従事者と連携します。
しかし、十分に寄り添えている、などとは決して思えません。
思ったとたん「お前はこの苦しみを経験したことがないから分からないだろう」という心の声が直ちにわきあがってきます。

例えば、家庭医療で有名なマクウィニー先生は死にゆくひとに注意を払いなさい、と指摘しています。
それもただの注意ではなく、完全な注意を、と指摘しています。完全な注意とはなんでしょう。
非常に抽象的です。しかし彼はわざわざ言い直しています。
イギリスのジョン・フライ先生は16世紀の外科医のアンブロ・パレを引きつつもケアの重要性を再三指摘します。
科学には限界があり、キュアにも限界がある。しかし、キュアはできなくてもケアは常にできると。
この学会はプライマリケア連合学会ですが、プライマリキュアではなくプライマリケアです。

でも、ケアがなんであるかを端的に明言したものは私はみたことがありません。
従って、普段はわたしは、例えば終末期がん患者さんに接する時、非常に困ります。
はて、よりそうとは?完全な注意を払うとは?

でもそれは、もしかしたら本来的に概念として定義できないもの、であるからかもしれません。
そのような時、この本はヒントを与えてくれるかもしれません。

この本の著者エドムント・フッサールは現象学の創始者です。
皆さんも最近ケアの領域で間主観性という言葉を聞かれたことがあるかもしれませんが、あれはもともとフッサールの仕事です。
この本は彼の仕事の最初期のものです。
彼は、認識とは何か、を非常に深く深く問い考え抜きました。
彼は認識とは、直接に、明晰に、直観することだ、と繰り返し指摘します。
その時、その認識から概念は排除せよ、とも指摘しています。
なぜなら、概念は、外側にあるからです。
ではなくって、直接的に知覚されるもの、目の前にあるものをしっかりつかんで、そこに注意を払え、と言っています。

例えば、私が、自分は何者かと考えた場合
男性で日本人である私、2000年代を生きる私は〜と記述してもよいでしょう。
愛国心ある自分として記述することもできます。
自然に考えるとそうなるだろう、でも哲学的に考えるとは、そのように考えることではないとフッサールは言います。
私は日本人でなくたって私だ。私は男でなくたって私だ。
日本人だとか男性だとかは、外部の概念であり色眼鏡にすぎない。
そういった外部の概念に頼ら判断を一旦中止してみよ、現象をそのまま直観せよ。
色眼鏡を外しなさいと言っています。
これが現象学的還元です。

この本は哲学書ですから、もちろんケアについての本ではありません。
しかし、フッサールによると、苦しむ患者さんに寄り添うとき、どんな教科書にあるどんな概念で、この人に向き合えばいいのか、と考えるのではありません。
外部に頼らず、内へ内へ。
今認識していること、患者さんとの間で起きている現象をそのまま掴む。
目をそらすな、完全な注意を払え。そうですマクウィニーの指摘する完全な注意と重なってきます。

ケアが定義できないかもしれないと言いましたが、現象学的に言えば、ケアは相手ありきです。
ケアとは何ですか、と言った場合に、それは誰のケアですか、誰との間でおきている現象のことですか?という問いが立ち上がります。
したがって相手不在の簡潔な定義はできません。

哲学書はだいたいそうですが、読むのが非常に困難です。
僕はこの本を30回くらい読みました。
10回読んで薄ぼんやり
20回読んでなんとなく
30回読むと、ああなるほど
非常に難解で、時に放りたくなりますが、頑張って読んでみてください。
哲学は実学としては役に立たない、なんてことは全くありません。
必死にしがみついてみてください。
苦しむ患者さんに寄り添う時、逃げるな、退くな、今起きていることをしっかり見よ、感じよ、そんなフッサールの息遣い、励ましが聞こえてくるでしょう。

素寒

ぼけ、再び

道すがらボケの赤をみとめ、思わず立ち止まった。
20年ほど前に、やはりぼくを釘付けにしたボケ。
その出会いの唐突さに世界が少し揺れた。

一週前までは刺すような冷たい外気があった。
暖かくなった春の日差しに包まれると記憶がゆらゆらと、
ふと解離から覚める。

回診で寝て過ごす高齢者達にボケのことやユキヤナギも咲きそうなことを報告してみた。
みな認知症をもっている。
ある者は年相応に、ある者はすっかりいろんなものがわからなくなっている。

ボケがもし古い記憶としてあるならば、その索引性でもって何かを手繰りよせられないか。
歌を歌ってもらって手拍子をとるなどすると活気づく場面はこれまでにも経験している。

5人中3人は普段と変わらぬ無表情を維持した。
1人はほんまか、ととぼけていた。
同室の誰かが笑っているのが聞こえた。
おそらく、ぼけ、という音に惹かれたのだろう。
味をしめたぼくは追撃を試みる。
ぼけてますね、なんて失礼言ってるわけじゃないですからね、ぼけてるのはみんな同じですからね
ぼけを見たぼくがぼけた。
予想通り、同室の誰かの笑い声が大きくなった。

もう1人は泣きつつ笑った。
彼女にサクラとボケはどちらが好きですかと問うと、
知らん、
と返答があった。

知らん、
という快活な響きは我が家の3歳男児を思い出させた。
彼は好きなことを自分で訴えられるようになった。
しかし好きな理由を問うと、
知らん、
と明快に答え、爽やかな風が吹く。
彼も3歳で正しくツッコミを入れられるようになった。
順調に言葉の海を楽しんでいる。

両者は認知機能としてはどちらも十分ではないという点で共通している。
片や上り坂に、片や下り坂にいる。
機能が十分でない場合に日常生活の自立がままならず、サポートが必要となる。
それは高齢者であっても小児であっても同じだということが、両者を診ているとよく分かる。
機能が十分でないことに対する他者によるサポートが必要である。
しかし、医師(親)という他者の主体性が、ケアを受ける者の主体性を凌駕してはいけない。
いや、時に避けがたいこともある、がしかし。
機能、イメージ、他者の喪失とその外傷に関わることがライフワークとなるだろう。
物心ついたときから私のまなざしはなぜかそこに向かっている。

随分前に妻と議論したことがある。
花が咲いていると、君はだーれ?なんていうの?
と聞きたくなる。
君は気にならないのかい。
美しいと感じることが大事なのであって、花の名を知ることは重要だと思わない。
じゃあ君は、好きな人の名前が気にならないのかい。

花の名を知ることは、花に気をかけ、愛するということだ(寺尾紗穂)

いまわのきわの方針についての意思表示が重要であるとよく言われる。
ACPのP、planningは現在進行形であって、動名詞ではないなどと。
心肺停止時に延命処置をするかどうか以外に、
好きな歌や、好きな花など意思表示しておくとよいかもしれない
好きな食べ物でも、好きな馬でもいいだろう。

僕がボケた暁には、
真っ赤なボケが咲いたよ、だとか、
ハクモクレンが妖しくも美しいよ、だとか
サルスベリは雨に濡れるとやっぱり色っぽいね、
などと話しかけて頂きたい。

素寒

島行 

その島でパラサイトという映画をみた。
映画の中で父親は、計画を立てるから失敗するのだと、息子に教え諭した。
彼は決定論者ではないにしても、運命論者ではあった。

この島はかつて砕石で財をなし、バブル時には本土よりも地価が高騰していたという。
港は錆で覆われ、古びたビルが乱立していた。
この島をあの滑稽な父親がみれば、計画をたてるからこうなったのだとやはり言うだろうか。

その異様なビル群に惹かれ、家族で移住を決めた。
これから島を盛り上げ外国人も誘致するはずが、このコロナで頓挫した。
港でカフェを営む男はそう言って冷たく笑った。
再び計画は頓挫した。

今やこの島は、見せるという目的を欠いていた。
老婆が化粧を忘れるように、老いたこの島も化粧を忘れ、湿度の欠いた荒れた皮膚をそのままにしていた。
鉄錆に覆われるのは単にこのまちが老化したからだけではない。
この港には造船所が複数あり、古びた船がやってくることになっている。
しかし、それでも錆で覆われているこの港町の外観は、私のオリエンテーションを失わせるのに十分に異様な雰囲気を有していた。

港には古い戦艦が夢破れて港に突き刺さっているように見えた。
港のまうらにある診療所の窓からは少なくともそのように見えた。
実際には造船所にドック入りしているだけのことであったのだが。
造船所にあるあまたのクレーンもまたもれなく錆び付いており、それらが群れた蟹の妖怪を思わせた。
我々は鉄錆を見ながら酒盛りをし、翌日は神社に詣で、また酒盛りをした。
港だけでなく、島全体に化粧気がなかった。
神社に化粧気が無いことはもちろんかえってよかった。
島民に色気が出てきたときにこのよき神社はどのように化粧で汚されるのだろうかとも案じられた。
子供たちにとって、化粧の有無は問題でないようだった。彼らにとって重要なことは、礼拝で鈴を何度も鳴らすことであり、海岸の石を物色することであり、よーいどんで誰が早いかを決めることであり、途中で暖かいミルクティーを買うことであった。O氏は、子供たちに参拝の仕方と神様について教えていた。

この島のあらゆるものが斜陽であった。
かつての繁華街には人気はなかった。
子供を遊ばせながら出会った老婆は、皆出て行ってしまって何も無いとこぼしていた。
唯一ある小さなスーパーでは、長屋の熊さんが先日亡くなったことを話題にしていた。レジ前では90歳代と思われる老婆がその死を知らなかったことに落胆し、繰り返し嘆いていた。

フェリーの駅には隣の島の求人があった。
砕石の求人で、日当は1.2万円とあった。
神社から見たその島は、スプーンでえぐられたプリンのように、削られていた。
その島の人口は500で、商店はひとつもなく、家が点在しているという。
彼らの世界はどのようであるのか。この島は半地下で、その島は地下なのか。

カフェの男も、港町の老婆もある種の具体性を欠いていた。
夜半にふと、彼らはあやかしの類ではなかったかと思われた。

患者を数名診た。
1人は70代の高齢者で、高血圧が心配と隣人を伴って受診した。
本人も隣人も独居だった。普段から支えあっているという。
1人は嘔吐を伴う頭痛の中年者だった。

島の診察は難しい。
本土に送るべきか、経過観察可能かどうかを検査に頼らず病歴と診察から判断しなければならない。
都会の救命センターであれば若年者ではなく、初発の頭痛であれば、帰宅させる前に頭部CTを撮影しておくだろう。
救命センターでは検査機器があるのに検査をせず疾患を見逃すということが許され難い。島では夕方に受診した場合、本土への最終フェリーには乗れたとして島に帰るフェリーは無い、本土に泊まるところもない。
かくして救命センターの検査閾値は低くなり、島の診療所での検査閾値は非常に高くなる。
結局、心電図、簡易血糖に異常がないことを確認して観察することとしたが、祝日が終えるまでその患者の容態が変わりはしないか、ヤキモキした。

2日目の夜、やはり酒盛りをしながら、O氏とバラサイトをみた。
どのカットも並べれば写真展になりそうな美しい動画だった。
躍動感あふれるサスペンスに加えて、コメディの要素も多分にあった。
格差、学歴、計画、匂い
鑑賞後も象徴的なキーワードが頭に残った。

このコロナ禍に人々の移動は極端に制限されている。
私がこの島でアルバイトをするという計画は褒められたものではないだろう。
それがどのような島で、どのような診療所かということはまるで分からなかった。
賢い医者はそもそも選択しなかったろう。
しかし、私は選択、計画した。
給与目当てに?越境を試みた?進化を目指して?花が咲こうとした?
すると、島行の前日のPCRは陰性という結果となった(それ自体の感染を完全に否定するものではない)
前日にO氏に声をかけたところ、即座に同行するという返事を得た(それ自体が感染を拡散させる可能性があった)
これが理性的な動物のふるまいと言えるだろうか。

私は花が咲く必然性は信じたとしても、運命は信じない。計画も立てる。
しかし、その計画はいつも粗雑である。
粗雑な余地を残していると強弁しておく。
必要十分条件が揃ったとみるや事態をうっちゃってしまう。
そのようにした方がよいと計画するのではなく、うっちゃってしまう。
性癖がそのようになっている。

この斜陽の島で、この日O氏とバラサイトをみるということは、そうでなければならない必然の力が働いていたように思えた。

私は計画を立てつつも、計画の外にある。
自力でありつつも、他力に委ねて朗らかに笑う。
かくして私は偶然性を我が物としていく。
私の祈りの形はこのようなものかもしれない。
ナルホイヤといっても差し支えないだろう。

患者さんのことなど3

その方は緑膿菌肺炎であった。

若い時はタバコを吸っており、COPDと気管支拡張症が基礎疾患にあった。

朝、訪床すると、ぜいぜいいいながら寝台に腰掛けておられることがしばしばであった。

「話してると楽になるわ」

しばらく対話をしていると、たしかに落ち着くようだった。

「ありがとう」

話を聞くだけで病がよくなるなら安上がりでよいことだ。こちらだって、注射も、採血も、内服の計画もできんろくでなしなのだから、話くらいしかできんのだから、ありがたいことだ。

彼は宮大工であった。

「いままでに、そうやなあ…」

過去を思い出す彼の目は病室の中空を見る。

「大通寺の台所、竹生島の三重塔、石山寺、岩船寺なんか扱ったワ…。」

「それはすごい」

「そうやなあ。ありがたいことや…」

彼の左手の親指は短く変形している。

なにか事故によるのだろうか。

「石山寺でナ、あすこに縁側とか、渡り廊下があるやろ、昼休みにそこで昼寝すんねんな」

天下の昼休みである。

私は石山寺の、木漏れ日のなかで昼寝する男たちを想像した。

それは天下一の昼寝に違いなかった。

「趣味のないもんには、しかたないけどナ…」

彼は馬場秋星の「浅井三代小谷城物語」という本(絶版のようだ)を読んでいた。

「浅井の墓には行った?」

彼はそう尋ねたが、私は残念ながらまだ参らない。

「小谷山も、いろいろ面白いんよ」

彼はさまざまな寺の話をしてくれた。

岐阜、京都、近江、奈良…彼は休みのたびに寺に詣で、家族、こどもらを観光に連れ出し、みずからは寺をじっくりと見ていたようなのだ。

「大工仕事が平日、忙しいからゆうて」

と彼は苦笑した。

「こどもらは休みの日はオトウチャンに遊びに連れて行ってもらおうと思ってるしナ。家で寝てばかりいるわけにはいかへんナ。家族サービスせんとな…」

彼の緑膿菌は、抗菌薬によりだんだんとよくなった。しかし酸素の管は、外せぬままだ。

「こんなんなって、なさけないなあ」

酸素がなければ彼の酸素化は確保できず、息がくるしいのだ。

在宅酸素の機械は、大きすぎるというので彼は拒絶した。

「先生…」

「なんですか」

「長命寺は行ったことがある?」

「いえ、まだ…」

「いい寺よ」

彼はそう言ってニカッと笑った。

「いっぺん行ってみ」

長命寺は近江八幡にある古刹だ。

日本第一の長命で有名な、武内宿禰ゆかりの寺なのだ。

私は母をともない、長命寺へ登った。

よく晴れていた。八百八段を登り切ると、小さな涅槃のような境外の地が待っている。

私は境内のロハ台に座り、大きな本堂をつくづくと眺めた。

俗世には要求が山ほどある。

その切実な要求を「救う」寺が長命寺である。

それはつまり、俗世のどんな悩みも、仏の前にお願いしてよい寺ということだ。

仏門は超俗のものゆえ、欲から離れよなどとは言わぬお寺ということだ。

自分は、そうした古刹を、数少ないがいくつか知っている。

多くの人が、そうした寺に、かそけき切実な思いを抱えて石段を登ってくる…。

静かな山のなかに梵鐘が低く遠く響いている。

宮大工の彼は、この本堂をどう見たのであったろうか。

休みごとに寺に参じ、祈りをささげた彼は、なおらぬ肺の病と共に生きている。

やまいとはなんであろうか。

私は、短絡的には考えぬ。

私は、祈ることをあらゆる意味と段階において諦めることはない。

空谷子しるす

患者さんのことなど2

その女性はⅡ型糖尿病の教育入院であった。

かかりつけの病院で高血糖を指摘され、紹介されて来られたのだ。

「ブラジルでは、じぶんで血糖値をはかる器具を買って、じぶんではかります」

その方は日系ブラジル人であった。

ずいぶん前に日本人と結婚され、日本にきた。

「ブラジルにはカトリックとエヴァンジェリストが半々です」

ご高齢のブラジル人にカトリックが多く、若い年代にエヴァンジェリストが多いとのことであった。

彼女はカトリックであり、エヴァンジェリストはあまり得意でないようだった。

カトリックは貧しい人とお金持ち、エヴァンジェリストは貧しい人が多いとのことで、いわゆる教会への寄付は、カトリックでは「あの」馴染み深い皮袋に、いくらいれても、いれなくても自由だ。しかしエヴァンジェリストは、給与の1割を収めねばならんらしい。

それは酷なはなしである。

「娘の彼氏、ファベーラの人なんだけど」

ファベーラとはブラジルのなかで貧しくて危険な区画と私は理解している。

「ファベーラ、危なくないです?」

彼女は首を振った。

「ファベーラの人と友達の人、大丈夫。その人といっしょに行けば危なくない。」

でも、と彼女はいたずらぽく笑った。

「わたしはちょっとこわいね。ひとりではいかない」

彼女は、結婚する相手は心だと言った。

「男の人、よく、若いとか、顔で結婚する。よくないね。ブラジル、30代で結婚はふつうよ。」

「そうなんだ」

「私も、だんなさんすごい優しい人!」

そういう彼女の顔は明るく、太陽のようである。

「だから、あせらない、あせらないよ」

悪いことには子供のようであり、考え方については大人のようであれ、とは聖パウロのことばである(コリ1 14:20)。

人間のつきあい、人間のつきあい、

これはもう「赤心」をもって、こどものように、大人のように、臨むしかあるまい、と思った。

空谷子しるす