老師講話④

ブッダが愛から離れろというが、キリスト教は愛に近づけという。その愛とはなにか)

キリストさんの愛はあはれ。
これは、日本語にはないが、沖縄には「ちむぐりさ」という言葉があり、それに近いらしい。その人をみていて、自分の腸がちぎれそうなほどに同情してしまう、そういう様。
御大切やな。

ゆるす、ということの難しさ
菊池寛が二つの小説を書いた
『怨讐の彼方に』と『ある抗議書』
対照的なストーリー。これを彼は同じ時期に書いた。
教誨師をしていると被害者家族から同じことを聞く。
加害者は回心したとして、被害者家族は一生苦しむ。救われない。オウムの時もそう。

しゅうくんのお父さんのテーマは救いだった。
この人が救われるのはどうしたらいいのか、と深く問うていた。
私としては、最終的に許すということがないと難しいな、と思う。
どうしてもあいつのせいで、と思ってしまう。

ダビデ王は人の死をカウントした、それを神様に怒られた
東日本大地震での何人が死んだとあったが、それぞれに切実さがある
宅急便の荷物にも一つずつに切実さがある


あんたも京都でやっていくって決めたんやろ
よかったやん洛外で。洛中は大変やで。
北白川でも洛外やからな。
そら近隣には気遣わなあかん。
盆の終わりと年の暮れにちょっとしたものを送るんや。
お中元とお歳暮や
いつも騒がしくしてすみませんと。
その時にな、どこでも買えるようなものはあかんねん
苦労してここまで行って買いました、というのでないとあかん。時に洋菓子にしてみたりな。
そういうことをしとかんとあかん。

でもな、気遣ってばかりでもあかん。
あんた元々大阪やろ。大阪人がやるように、ごめんやす、ごめんやすって言いながら通ったらええねん。気にせんでええねん。
あんたはその土地で根ざしてやってかなあかんねんやろ。
したたかにやらなあかん。
そらそうやん。何言うてますのん。

老師講話③

子宮は他者のための唯一の臓器
閉経していて、手術でとらないといけないということなら、神様に返したらいい。

あわれみはヘブライ語でラハミームという。
ラハミームはレーハムの複数形
レーハムは子宮のこと。
つまり、ラハミームは子宮の集まったところ
子宮は他者を拒まないところ。どんな人でも受け入れる。命を与える、育む。
レイプという悲劇的なときでも拒まない。それくらいすごいところ。
その子宮が集まったところ、それをユダヤ人はラハミームと表現する。
聖書の世界はヘブライ語からギリシャ語に翻訳されているが、
ラハミームをギリシャ語に翻訳するとスプラングニゾマイ(σπλαγχνίζομαι)となる。
スプラングニゾマイは、はらわたがちぎれる思い。それくらい憐れみの感情を持つ。
それくらい可哀想に思う。上から目線ではない。
その臓器を返す。
手術で子宮をとらないといけないのであれば、神様に返すと考えればよい。

以前、骨肉腫で足を切断した人が、それを神様に返すと言っていた。
失うのではなく返す。
手術でとらなあかんではなく、それを神様に返すととる。
ほんまにそうやなあと思った。
そう考え方を変えると生き方が積極的になるでしょ。

命は神様に委ねましょう
体は医学に委ねましょう
あなたは生きることに専念しましょう
私は病人にはそのように言ってる。

命はどう逆立ちしたって自分の自由にできへんやん。

いやカトリックにはご聖水がありますから。
ルルドの水やら。
そんなんアホじゃ。

老師講話②

姦淫はダメです
伝統的なプロテスタントの信者はすぐにそう言う。
だって罪でしょ、と。
聖書は罪を犯したといっぱい書いてる。
それに捉われて視野が非常に狭くなっている。
そんなんキリスト教ちゃう。
神様は人間を非完全なものとしてつくったんですよ。
だから、非完全でいいんです。だから宗教がいるんです。
もっと宗教から、親から離れないと。

老師講話①

聖書は文字通りにとったらあかんねん
イエス・キリストが盲目の治した話が聖書にある(ヨハネによる福音書 第9章)。
あれは奇跡だというが、奇跡でもなんでもないと私は考えている。
眼が実際に見えるようになったのではなく、心の眼が開いたということや。それで感動して、見えるようになったと騒いだわけや。
そういうことやねん。人生開眼っていう方向にならなあかんねん。
俺の人生これでいいんや、と。
無理にがんばらなくっちゃと思うと、たつもんもたたん。
50歳まで生きられるなら、それでええやん。
それを喜ばなくっちゃ。

骨流し

長崎、坂の町。
港に山が迫っており、斜面にもわずかな平地にもところせしと建物がひしめき合っている。

8時半に京都を発ち、博多と乗り継ぎ、長崎に降りた。
リレーかもめ号は深い紺青が格調高い。かもめ号は打って変わって、上品な白を基調とした列車であった。
5時間の移動に、娘は疲弊した様子であった。
この子は疲れは知らぬが、退屈を内省に使うことはまだ知らぬ。
終末期の患者同様、退屈は強い苦痛をもたらす。

港が近いからか、雨が近いからやや蒸し暑かった。
特急の発着する駅構内の美しさと対照的に街の雑居ビルは色褪せて汚かった。

26聖人のレリーフは長崎駅にすぐに迫った坂の途上にあった。
街にはところどころに防空壕があった。
しかし、その防空壕はどれも小さいもので、多数を収容できるものではない。
投下されたとき、防空壕内に避難していた人たちのうち、助かったのは奥にいた人たちだけであったようだ。
平和公園には平和を希求する願いをこめて各国からモニュメントが寄贈されている。中国からのそれには、時折心なきいたずらがされるという。

我々は、骨をまきにここまできた。
戦争末期、幼かった骨の持ち主は兄弟でよくU川にうなぎをとりにきていた。
その日も兄はうなぎの仕掛けに行き、彼は姉と防空壕に避難していた。
姉は用事があると家に向かった。
まさにその時、かの無慈悲な爆弾が投下された。
両親、兄、姉は一瞬で吹き飛んだ。
U川は水を求める人で地獄と化した。
彼は世界でただ1人取り残された。
手に職を身につけ、彼は大阪に出た。
ある人物が貸した金を返さないことにカッとして殺めてしまった。
余生を四国の刑務所で過ごすこととなる。

長らくあるシスターが彼と文通をしていたが、そのシスターは高齢となり、Y神父に託した。
彼が獄中で病死した時、身元引き受け人であった神父が呼ばれることとなった。
教誨師としてではない。一般人としてである。
神父は所属する地区以外の教誨師にはなれない。

彼の哀れな生い立ち、Y神父は彼の骨を彼の遊んだ川に撒いてやろう、そう思い立ったのだ。
それではお供します。娘も伴います。
という段取りになった。

我々はM夫妻に案内されまずJ学校の聖母像の前で祈りを捧げた。
私は祈りに馴染みはあるが、クリスチャンではない。
ましてや初めて司祭の祈りに参加した娘は周囲をおもんぱかりながら、殊勝に手を合わせていた。
聖母像には、原爆でなくなった生徒や教員の遺品が納められているという。

その後、U川に赴いた。
昨日の雨のため普段なら対岸へと渡れる小石群は半ば水流の中であった。
U川の川幅は非常に狭い。
市内にはこのような川が二つしかないという。
よって、雨が急に降ると一挙に増水し、氾濫しやすい。
「殉教、原爆、水害とこの土地は3つの大きな災難に見舞われたんです」と案内人は言った。
M夫人の祖父の家は浦上天主堂の真ん前にあったが、これも一瞬で灰燼に帰した。
その浦上天主堂の真下には、爆風で吹き飛ばされた鐘楼の一部が武骨に突き刺さっていた。

幸い晴れた。
1週間前までは予報は雨であった。
しかし、晴れた。
対岸にはサクラやユキヤナギが咲いていた。
対岸を色で染めていたわけではない。寂しい灰色の背景に、一つ、二つと寂しそうに咲いていた。
川の中には一つの石があった。
ちょうど大人1人が立てる程度の面積の石が、岸から一歩の距離にあった。
Y神父はその石に定め、川上の人となった。
銀の十字架を一つ落としてから、白いさらさらの骨をまいた。
わずかに白濁した流れは、やがて透明となり、それは川と一つとなった。
その後小雨が降り始め、我々が稲佐山にたどり着いた時には本降りとなった。

M夫妻は望んだが子が得られなかった。
M夫人は若くして持病を持ち、維持透析をしている。

我々は、生まれる土地、時代、親、性別、何も選べなかったんです。
でもな、ホイヴェルス神父という人が、究極的必然性はない、と言いましてん。
とY神父はよく言う。

両者は矛盾する概念ではない。
前者は過去のことを、後者は未来のことに言及している。
自由意志のことでももちろんない。
自由意志はおそらく自力の別称だろう。
自由意志が存在しないほどに自力というものはしょぼい。
自力のしょぼさを自覚せぬ人間の自力をうんぬんする妄言には辟易する。
グランゴワールは自由意志をうっちゃって、奇跡御殿に達した。
自力と他力のバランスを目指さねばならぬ。
ああ、バランス!
あの聡明なキルケゴールも達することができなかったあのバランスよ。

せっかくなので翌日は原爆資料館を訪れようかと思ったが、娘が怖がるのでやめた。
私はなんでも覚えちゃうから、と苦しそうにしていた。
爆弾が怖いとなかなか寝付かなかった。
夜半、雷鳴におどろかれぬる。

「その時」がきた。
逆転につぐ逆転、混沌に混沌を重ね言語に絶する膨大のなエネルギーが天から降り注いだ。
見慣れていたはずのぐるぐる回るその回転に、私も取り込まれ、よもや誰が正気を保っていたろうか。
厳しい高山の、気象は激しく変わり、森林限界を超えた先の、鋭く切り立った稜線を、際どくも歩いた。
そして、頂上にたどり着いた!
その頂点では、驚くべきことに存在の全てが私を包んだ。
気が触れたのではない。
虚言でも妄言でもない。
私は彼とよくsailingした湖、よく晴れた空の光に照らされた湖を見ながら、解放された彼と対話した。
私の存在における、私の人生史のアンバランスがたちどころに顕在化した。
私はこれまでのアンバランスに和解を試みた。
彼は早くも私に力を与える存在となった。
ありありと見える、聞こえる。

まだ言語にできない。
しばし温める。


帰宅し手を洗っていると娘が話しかけてきた
「今日は大変だったでしょ~」
「え・・・なんで分かるの?そう、お父さんは今日大変だったんよ」
正しく虚を突かれた私は、1秒泣いた。
「分かるに決まってるでしょう~』
「そうなのね・・・お父さん、今日頑張ったんよ」
「そんなこと分かってるよ!頑張ったってこと!」
茶目っ気たっぷりにまたどうして・・・
「お父さん、泣いてるの」

妻は娘に何も伝えていなかった。
このように問われるのは初めてだった。
遅く帰ったわけではない。
分かるのだろうか、この子には。

明らかに変わった。
彼は今や「その時」を知っているのだろうか。

これまで一貫して不屈の人であった。
黙って今の戦いに耐えていた。
マラソン走者が黙々と走り、時折遠くを見やる。
ゴールはまだ遠い。

しかし、どうだろう。先日は違った。
ほとんど構音ができないながらも、しきりと感謝の意を表現しようとしていた。
加えて、「大好きです」と。
彼はこれまでも、事態が極まると、そんな風に茶目っ気たっぷりに振舞うことがあった。
事態をうっちゃってしまって、後は寝て待て、酒を飲んで待て、というような。
頑なな彼が他者に委ねて<わたし>を開放する時。
アタラックスPの頻回使用で嘔気が緩和された影響もあるとは思う。
しかし、より正確には、彼は「その時」を知るに至ったのではなかろうか。
<わたし>を包み込む「その時」を知り、他者に向かって<わたし>を開いているのではなかろうか。

友としてそれは幸いのことのように思う。
死が?
実のところ私はそればかり祈っていた。
死を?

家族によると、私に全て任せると言っているようだ。
この全幅の信頼は、逆説的に私を打ちのめす。
ああ、私に何かできたらいいのに。
私に技術さえあれば、この信頼をもって、彼を治癒せしめ・・・

私は治療する者としてまなざされていた。
私は巧みに、治療する者としてまなざされる分だけ治療する者であった。
しかし、一貫して私は祈る者として存していた。
機は熟した。
私は治療を撤退する治療者としてまなざされている。

これは奇跡に違いない。
いな、彼の死が奇跡だなどとばかげた話だ。
いな、死は奇跡だ。
生が奇跡なら、生の原因であるところの死も奇跡だ。
私はそこに、祈る者として存する場を、辛くも得た。

「その時」は近い

癌性髄膜炎
なんとも酷い病だ。
そばで見るに、おそらくは、ひどい二日酔いのような頭痛と嘔気が続いているのだろう。
我が子の泣き声ですら、時に痛みを増す原因となっているようだ。

1週間以上前から少し話すだけで息は切れていた。
それでもまだわずかにリビングで食事はできていた。
ここ数日は臥床が続いている。食事は何もとれない。
今日はトイレにも行けなくなっていた。

2日前はまだ笑う余裕があった。
僕は彼に偉大なお説教をした。
僕「お前が弱音を吐かずに一人で戦ってるのは、よう分かってる。言いたいこと色々あるやろうに。こらえて戦ってるんやな。きついな。大丈夫大丈夫。何があっても大丈夫なんや。大いなるものにゆだねてごらん。」
N「Iさん、松岡修造みたいですね。ありがとうございます。Iさんのちんぽこに拝んどきます」
僕「俺のちんぽこにか?けったいな奴やな。ええけど。ちゃんと賽銭置いてけよ」
病床に笑いの花が咲いていた。
(ちなみに、Nは松岡修造と言って僕をバカにしているのではないことを付言しておく。彼は病床で松岡修造の言葉をよく聞いているのだ。)

今日は呼びかけにごくわずかに応じるのみだった。
表情はとても穏やかだった。
点滴は減らされさなければならない。

終末期のスピリチュアルペインだと?
死の苦しみに寄りそうだと?
誰が寄り添ってほしいと言った?
彼の懊悩を医療化しようというのか?
彼が孤独に死ぬ権利を奪うというのか?