シタール

私の家にはシタールがあった。

父と母が新婚旅行にインドに行って買ってきたものだ。

それは土産物ほど安くはないが高級な楽器ということもないほどのもので、誰が弾くわけでもなく放置されていたのであった。金属製の弦をはじくと、清らかな水のように爽やかな音が出た。

シタールを聴くと肩こりが治るということを中島らもが書いていた。シタールの奇妙な波長が私たちを癒すのだそうだが実際はよくわからない。

私の家のシタールは猫が本棚の上から落として壊れてしまった。母がどういうわけか引越しのあとに本棚の上にわざわざ押し込めたのだ。シタールが嫌いだったのか、というと、いや大切なものだと言う。私の母は良くも悪くも女らしくなく、なさけというものに乏しい。母も小さいころから祖母の愛情の足りなかった女性である。名古屋の中村の地主の家であったが、曽祖母は早くに亡くなり祖母は義母に育てられた。試験の点は100点しか認められなかった。女性としては最初期に大学生となったことが祖母の誇りだった。そんな祖母だったから、私の母に対して温かい母の優しさなどはなかった。

金があっても人は幸せにならぬものである。

しかし金がなければ幸せにすらなれぬ。私はシタールを買うことを考えた。このところひどく肩が凝っていた。相変わらず私は異性の愛情という高級品は得られずにいた。私は一種の不感症であり、人の優しさを感じられず、つねに不安に脅かされている。だんだんと肩が重くなり、満足な人生を歩む同期の研修医のなかで、私はまたいつものように僻めしくなってきた。

シタールはそのあたりでおいそれと売っていないらしいことが分かった。

十字屋はシタールを売っていないことがインターネットの検索から了解された。

民族楽器を扱う店が寺町にあり、そこに置いてあると分かったので私は向かうことにした。

車を走らせながら私は父と母のインド旅行を想った。仏跡を見て廻る旅は楽しかったのだろうか。もし私たちの身の上がつつがなく過ぎていたなら、私はどんな人間になっていただろうか。人生は一切皆苦という実感が私の中にある。父は幼い頃から育児放棄され、就職先をひきはがされ、実家の商売を追われ、奈良の旧市内にあらぬうわさをばら撒かれ、透析と心筋梗塞に苦しんだ。父もまた一切皆苦であった。父方の祖父も小さいころから船場の丁稚にされたから、また愛情のない男であった。そうした苦海の連続の先に私がいて、そうした苦海のことばかりしか考えられない。私があらゆる人から注がれている愛情に気がつけば私は救われるのであろうか。イエズスやマリアは私を愛してくれているのであろうか。私に情緒と感受性があれば私は助かるのであろうか。

私のくだらない運転は三条駅に着いた。

三条駅前はほのかに暖かく、もう世の中は春なのだ。病院の中にいるうちに季節が分からなくなってしまった。たいした仕事もしていないのに、私は外のことがわからなくなっている。

寺町の楽器屋は明るかった。

男女の二人づれが音楽的なことを話しながら楽器を買っていく。

アジアが好きそうな女がアジア的な小楽器を買っていく。

私はまぬけなあほ面をさらしながらシタールを見ている。

「触ってみますか」とシヴァ神のように髪の長い男性店員が言ってくれた。

私は久しぶりにシタールを手に取った。なれない赤ん坊を抱くようにぎこちない私の手はシタールの首と丸胴を持ち、木の手触りが私に物質的な実感を与えた。

「シタールのピックはね、金属で指につけるのです」

と男性店員は言い、私は鳥のくちばしをふちどったような銀色の爪を指に挟めて、シタールの弦を弾いてみた。

あの日の音ではなかった。まだ家族が落ち着いて暮らしていたあの日の音では…

シタールは11万円ほどするらしかった。婚活だ何だと出費の多い月だったから私は購入をあきらめた。

私は部屋の中でシタールの音をインターネットで聴いている。肩こりが治る気はしないが気分は悪くない。

私がさまざまな、くだらない、つまらない思い込みや記憶や自らの歪んだ人格から逃れて、なにか意味のあるものを創り出せる日は来るのだろうか。それとももう過去のさまざまな事柄のために私の脳は萎縮してしまって、私は今生では祈りながら苦しみの無くなることを願いながら暮らすしかないのであろうか。それとも、もともとなにか意味のあることをする才能に欠けているだけであろうか。

能力がないなら無いで、享楽的に生きたいのに、私はそうしたことすらできない。

私はお金がもしずいぶん貯まったら、きれいなシタールを買うことを夢想している。

空谷子しるす

ぼけ、再び

道すがらボケの赤をみとめ、思わず立ち止まった。
20年ほど前に、やはりぼくを釘付けにしたボケ。
その出会いの唐突さに世界が少し揺れた。

一週前までは刺すような冷たい外気があった。
暖かくなった春の日差しに包まれると記憶がゆらゆらと、
ふと解離から覚める。

回診で寝て過ごす高齢者達にボケのことやユキヤナギも咲きそうなことを報告してみた。
みな認知症をもっている。
ある者は年相応に、ある者はすっかりいろんなものがわからなくなっている。

ボケがもし古い記憶としてあるならば、その索引性でもって何かを手繰りよせられないか。
歌を歌ってもらって手拍子をとるなどすると活気づく場面はこれまでにも経験している。

5人中3人は普段と変わらぬ無表情を維持した。
1人はほんまか、ととぼけていた。
同室の誰かが笑っているのが聞こえた。
おそらく、ぼけ、という音に惹かれたのだろう。
味をしめたぼくは追撃を試みる。
ぼけてますね、なんて失礼言ってるわけじゃないですからね、ぼけてるのはみんな同じですからね
ぼけを見たぼくがぼけた。
予想通り、同室の誰かの笑い声が大きくなった。

もう1人は泣きつつ笑った。
彼女にサクラとボケはどちらが好きですかと問うと、
知らん、
と返答があった。

知らん、
という快活な響きは我が家の3歳男児を思い出させた。
彼は好きなことを自分で訴えられるようになった。
しかし好きな理由を問うと、
知らん、
と明快に答え、爽やかな風が吹く。
彼も3歳で正しくツッコミを入れられるようになった。
順調に言葉の海を楽しんでいる。

両者は認知機能としてはどちらも十分ではないという点で共通している。
片や上り坂に、片や下り坂にいる。
機能が十分でない場合に日常生活の自立がままならず、サポートが必要となる。
それは高齢者であっても小児であっても同じだということが、両者を診ているとよく分かる。
機能が十分でないことに対する他者によるサポートが必要である。
しかし、医師(親)という他者の主体性が、ケアを受ける者の主体性を凌駕してはいけない。
いや、時に避けがたいこともある、がしかし。
機能、イメージ、他者の喪失とその外傷に関わることがライフワークとなるだろう。
物心ついたときから私のまなざしはなぜかそこに向かっている。

随分前に妻と議論したことがある。
花が咲いていると、君はだーれ?なんていうの?
と聞きたくなる。
君は気にならないのかい。
美しいと感じることが大事なのであって、花の名を知ることは重要だと思わない。
じゃあ君は、好きな人の名前が気にならないのかい。

花の名を知ることは、花に気をかけ、愛するということだ(寺尾紗穂)

いまわのきわの方針についての意思表示が重要であるとよく言われる。
ACPのP、planningは現在進行形であって、動名詞ではないなどと。
心肺停止時に延命処置をするかどうか以外に、
好きな歌や、好きな花など意思表示しておくとよいかもしれない
好きな食べ物でも、好きな馬でもいいだろう。

僕がボケた暁には、
真っ赤なボケが咲いたよ、だとか、
ハクモクレンが妖しくも美しいよ、だとか
サルスベリは雨に濡れるとやっぱり色っぽいね、
などと話しかけて頂きたい。

素寒

小児科

2月は小児科だった。

当院に産婦人科はなく、NICUはあるけれどそれほど忙しくない。

一日外来に張り付いて、ときどき診察や小児採血をやらせてもらった。

川崎病の子が来た。

よく泣く子であった。アンパンマンのドキンちゃんが好きで、ちいさなドキンちゃんの人形を「キンちゃん」と呼び離さない。

4日間の発熱があり、眼球結膜の充血、手足の硬性浮腫、体幹部の皮疹、苺舌(私は初めて苺舌というものを見た)と典型的な徴候を認めて川崎病と診断された。

ただちに彼は入院となった。

彼の母は彼をなでながら言った。

「◯◯ちゃんはいろんな目に合うなあ」

母親は彼を慈しみの目で見た。

「ぜんぶお母ちゃんが代わってやれたらええんやけどな」

幸い一回のIVIgで熱も下がり、血小板も大して増えなかった。冠動脈も拡張しなかった。

よく泣く子だったが元気になって帰っていった。しかしどうやらすっかり病院に懲りたようで、外来に来るたび泣いている。優しい子である。

兄がたまたま電話してきたのである。

電話の用件は彼の異動についてであった。その話が済むと、話題は私の仕事に及んだ。

「川崎病の子を診させてもらったんだよね。僕は指導医にくっついていただけだけど…」

と、私は川崎病の子を診て、幸い彼が元気になって帰っていったことを話した。

すると彼は妙に嘆息して言った。

「お前自分で気づいていないかもしれないけどな」

仕事で疲れた兄は急に身を乗り出したようだった。

「川崎病の話をしているとなんかいい感じだぞ。おかげで元気もらったわ」

私はよくわからないことを言われたので、そうか、それはよかったとのみ返した。

彼は妙に機嫌が良くなり、またなにかあったら話せよ、おれも話すからと言って電話を切った。

兄はときどき妙なことを言う男である。

勘にすぐれ、能楽を好む。

兄は私の言葉に何を感じたのかはわからない。

ただ、私は外来に張り付きながら、猫ひっかき病疑いやら手足口病疑いやらの子たちを見ながら、

なんとなくこうしたことはたしかに意味のあることかもしれないと思った。

私はドン・ボスコ師の本を改めて読み返す気になった。

小児神経の先生が南方熊楠の熱心なファンであったことも私の気に入った。

空谷子しるす