小児科2

「僕が1、2年目のときは君なんかよりずっとくそ真面目だったよ」と指導医は言うのだ。

彼は20年目以上の医師であり神戸中央市民病院で初期研修をした人である。

黎明期の神戸中央市民のような卓越した病院で研修をしたならば間違いなく私は屑だろう。

喘息の患者が来て入院することになった。

「僕がやるか、君が全部やるかどうする」と言われ、

当たり前だが無能の私より有能の指導医がやった方が患者には好ましいのだから私は正直に「自信がない」と言った。

指導医は「2年目だろう」と言い呆れた。

しかしあるとき病棟でカルテを書いていると消化器内科のNo.2の先生が隣に来た。

「小児科で主治医になってるじゃないか。すごいな」と言われた。

なぜ彼が専門と関係ない小児科のことを知っているのかわからなかったが嬉しかった。その患者が何もやることのない退院待ちだとしても嬉しさを感じた。

誰だって自分を馬鹿だと思いたくない。

「いっときだって自分を馬鹿だと思っていられるか」と志ん生の『火焔太鼓』の主人は言う。

しかし明らかに私より同期や一年目の方が優秀であり、小児科指導医は彼らをよく褒め、私のことは褒めない。

こんな汚い無様な男が35歳の初期研修医なのだ。人から褒められないとかけなされるとかで精神の平衡を失う。小学生のような幼稚さを固持している。こんな醜いことがあるか。「大人の男」になれていない醜い中年男性というものはこの世で最も唾棄すべき存在だ。一体いままで何をしてきたのだと言われたら、わずかに生きていたとしか言いようがない。大量の言い訳はできる。背負わなくてもいい労苦ばかりだった。私に関係のない災難は大量に降ってきた。脆弱な体躯の私にそれらを跳ね返す力は無かった。しかし世の中は目に見えることが全てだ。私はこの世に生きている必要がない。無能の醜い中年男性だ。私のしてきた苦労だって、平均的な男性なら必ず克服できただろう。つまるところ私は生きるのに必要な資質がない。

私はよい医者になりたい。

しかし無能であればよい医者にはなれない。

私はどうしたらよいのか。35年生きてまだ無能の私はさらに無能として憎まれながら進むしかないか。

私はとても醜い。

空谷子しるす

三輪

よく三輪に参る。

細かいことはよく知らないし改めて調べることも何となく今は憚られるから書けない。

三輪の大神は大物主命と申し上げて大国主命の別名と伝わる。三輪の大神神社は本殿を持たない日本最古の神社にして山を直接奉る宮である。

三輪山の麓には磐座が多くある。岩に山の神が宿るのか岩そのものが神なのかよくわからないが岩を祀る。

三輪の山もとには金屋という土地がある。金属加工者の渡来人たちが住まいしたと思う。また海柘榴市という日本最古の市場がある。さまざまな人が往来した。出雲という土地も山もとにあり。出雲のはらからが住まいしたか。すぐ北には穴師兵主社あり。相撲の起源の地であり著名な渡来人たる秦氏の祖、弓月君ゆかりの古社なり。

なんとはなしに日本はさまざまな人々が入り乱れて国を作ってきたように思う。

奈良の都には中国、朝鮮はもとよりペルシャやインドから人が来ていたようだった。

破斯清道という奈良時代の官吏はペルシャ人だという説があるし奈良の大仏を開眼したのは菩提僊那というインド僧であった。

縄文時代の人々の交通は日本中に及び、各地の出土物は入り混じっている。

延喜式内社の中には八丈島の神社がある。上古の昔にどうやって人々は八丈島に渡ったのであろうか。

私はものを知らないし頭が悪いからきちんと話すを得ないが、どうも私には日本の昔はいわゆる「犬神家」みたいな閉鎖的な空間には思えぬ。

丹生川上神社上社の旧社地はダムの底だがそこには縄文中期の祭祀遺跡がある。宮の平遺跡と申す。奈良南部の深遠な山中にまで縄文人は入り込んでいた。何を思って古代に人々がこんな深山に入り込んだのか分からない。なにか外敵に追われてこんな山中にまで逃げたのであろうか。怨敵の残虐はよく人を奔らしむ。しかしよくここまで入ったものだと思う。外敵に追われたとか元の村の人口が増え過ぎて口減らしのため追われたとかいうには山の中が過ぎると私は思う。

十津川村には上古の昔からの社である玉置神社がある。べつに縄文遺跡が出たわけではないがそもそもこんな山の中になぜ極めて由緒の深い古社があるのかわからない。

なんだかよくわからぬが人は霊威を感じて動くこともあろう。姫路に広峰神社という社がある。牛頭天王を祀り元八坂を名乗る。吉備真備が遣唐使から帰る途中に広峰山に霊威を感じて社の創建を奏上した。

縄文の人々も霊威を感じて深山に入った気がしてならない。また交易で日本各地を移動していた。同時に種々の人々がさまざまな土地から日本の洲々に入った気がしてならぬ。

神仏の道に沿うことが何より大事であり、神仏の道に沿うたならば異なる風はむしろ淀みを清めることと思う。

偏狭、村八分、奇妙な実力競争主義、根性、つまらぬ血族主義などはいかにも日本古来の在り方ではあるまい。それらは日本人以外の諸民族においても有害な思想であろう。万民これを棄つべしと私は思う。

マーク・テーウェンなるオスロ大学の先生は2017年vol.45-2の「現代思想」に神道をテーマとして寄稿している。いわく「『神道』が根源的な『和』への回帰というユートピア的構造をまとって現れた」とある。テーウェン先生の言葉はその通りかもしれない。“日本人”はある種の危機を感じると、無形式で無教義ゆえに可塑性があり、しかしながら一定の儀式的定式は認める確かさもある神道にすがり、ユートピア的な思想を紡ぎ始めるのかも知れない。

そうだと思う。私もある種の理想を神道から紡ごうとしている。私は明らかに非論理的で直観的だ。

ことばにすると間違うことがある。人をことばで恣意的に動かすというのは深刻な誤謬である。人は動かすことはできない。騙して動かしたように思っても必ず穢れ誤つ。思想はしばしば過ちの素になる。人は各々の直観で動くこともある。ことばが相手の知らない部分に響いて、その人間の意識しない内に自然に変わることはある。人は変わる。人を変えることは絶対的に不可能である。

ことばにするなら直観にもとづいてなるべく率直に成したい。

空谷子しるす

若狭

麻酔科の研修が終わった。

当院の麻酔科医師たちは破格に優しいが、麻酔の緊張感にいよいよ耐え難かったから研修が無事に終わったのはありがたかった。人間は確かなことはひとつもない。自分が入れた薬の動向を片時も目が離せない。それは私が低能の医者だからかもしれないがそんなことはどうでもよい。麻酔科の医師たちやオペ場の看護師たちに大変守られて私の研修は終わった。

若狭彦神社の上社と下社は若狭国一宮である。

鯖街道沿いにあり、上古の昔から往来があった。若狭神宮寺の由緒によればワカサというのは朝鮮語のワカソ(往き来)から来ているという。若狭神宮寺には印度から来たと伝わる僧実忠がかつており、彼が今に伝わる東大寺修二会を始めたという。前にも述べたが越前敦賀の名の由来も新羅の王子に端を発する。若狭も越前も大陸との往来が盛んであった。

若狭彦神社には彦火火出見命を上社に、豊玉姫を下社に祀る。彦火火出見命は神武帝の祖父であり、宮崎や鹿児島に多く祀る。若狭彦神社を下って海側に行くと常神半島があり、そのあたりには日向という地名があちこち残る。そのあたりの人々は祖先が日向国から来たと伝わるとインターネットで記事を見たが本当かはしらん。

台風が近づいていると聞いたが風は柔らかく水は清らかであった。

若狭彦神社の二社は不思議に巨きく、剛毅でありながらどこか優しげである。

二社のさらに上流に若狭神宮寺と鵜の瀬がある。

鵜の瀬というのは東大寺修二会の際にお水送りをする淵である。淵が水中洞窟となっており東大寺若狭井の水に通じているという。

東大寺の創建に関わった僧良弁はこの鵜の瀬の集落下根来の出身なのだと知る。

鵜の瀬の水は澄んでいて淵が青い。流れる川の水を眺めながら私はなぜ自身に気分の浮沈があるのかなと思った。

ひとすじに夢中になることができないのは何故なのであろうか。

自分のことはいよいよ分からない。なにかが分かるというのは幻想にすぎんのかもしれぬ。私は自らの認知機能の低下を疑うほど茫漠としている。叢雲が十重二十重に棚引き、山の上に蒼穹が雲間から見える。

私はいよいよ祈る。

空谷子しるす

筥崎 香椎

宇佐、石清水、筥崎の三つを称して日本三八幡宮と言うらしい。香椎は神功皇后の夫仲哀天皇の崩りましました地で古くから皇室の崇敬厚い。筥崎は応神天皇のへその緒を箱に入れて埋めたから筥崎と名前がついたという。

八幡神はいくさの神である。神功皇后の三韓征伐に端を発する。応神天皇、神功皇后、比売神の三神を一般には八幡神と申し、古くから仏教との習合が深い。応神天皇の代に弓月君という秦氏の祖先が日本に来た。歴史は複雑である。

昔のことを調べるのは楽しい。あたまが悪いのできちんと知識を整理できない。できないながらも神々をたずねるのは楽しい。

筥崎に至り、大きな楼門を仰ぐと心がのどやかになるようだ。

憎むべきは悪心である。尊ぶべきは赤心である。神様に祈れば私はましな人間になるのであろうか。

新幹線にて博多より関西へ帰る。

帰って病院に来ると相変わらず一部の研修医たちから挨拶もろくにされぬ。馬鹿にされている。

神社に詣でても仕方のないこともある。

空谷子しるす

宇佐

宇佐八幡宮は国東半島の付け根にある。神武の帝にゆかりがあり、もともとは宗像三女神が御許山に降臨したのが始まりともいい、八幡神が大神比義の前に顕われた土地である。

大きな参道沿いに「ねぎ焼き」を売っていた。

「ねぎ焼きですよ。どうですか」と中年の女性が呼び込む。彼女ひとりで店を回している。

ねぎ焼きを食べながら宇佐とはどういう土地なのだろうとぼんやり考えた。

参拝は叶った。

八幡宮の広大な神域を後にして私は駅に向かって歩き始めた。

はるかに山々が聳える。かつては内陸深くまで海岸線があり、今に田畑に見えるところは恐らく全て海であったろう。

私は歩いた。台風が近づいているらしかったが雨も降らず、雲はむしろ次第に薄くなるようだった。

青い山を見ながら歩いていくと生きている気分になる。

世は揺れ動くようだが本当のところは動かない。

頭で考えるより(正しいことにあっては)素直に思ったほうが良いように思われた。

八幡神は不思議である。

空谷子しるす

鉄輪

鉄輪温泉と言うのは別府八湯の一にしていわゆる湯けむりの街として有名である。

貞観九年(西暦867年)に別府の高峰鶴見山爆裂せり。おそらくその噴火は辺りの野を焼き、火砕流、噴煙の類いが麓を焼きかつ埋めたのだろうと思われる。その惨状を治めたのが火男火賣神社の神だ。

由緒にいわく

「大音響とともに無数の岩石を吹き上げ、溶岩が流出して河川をなした。鳴動は三日間続き、人々は神の怒りであると恐れたが、これを止めたのが当社で読み上げたとされる『大般若経』であった。(中略)大般若経は九人の山伏に命じ三日間読み続けられたとされている。そしてこの時に出来たのが別府温泉であり、その守護神としても崇められている」(加藤兼司宮司「火男火賣神社由緒」)

この鶴見山の大爆発以後別府は今に至るまで人々の業苦を緩和している。噴火を鎮めた功績を讃えて火男火賣神社は延喜式の式内社に列せられている。大分県には式内社は6社しかないから朝廷からの認識の重さは並々ではない。さすが別府温泉だ。

台風が電車を止めたので別府に一日いることにした。

地獄めぐりをやってみようと思って鉄輪の方にバスで来たのだ。

鉄輪の近くに火男火賣神社が坐す。台風の強風が境内のイチイガシを大きく揺さぶる。空も海も青い。

私はなんだか湯に浸かってめしが食べたくなった。

「焼酎にかぼすを入れるとおいしいですよ」

と定食屋の女将が教えてくれた。

言う通りにするとたしかに爽やかでうまかった。

めしを食い、湯に入り、鉄輪の温泉街を歩くといろいろなことがぼんやりするようだった。

どうせ病院に戻ればまたはっきりしたことがたくさん出てくる。今はむしろ積極的にぼんやりしたい。

空谷子しるす

麻酔科

当院の麻酔科もまた破格に優しい。

質問攻めも無ければ侮辱の言葉も無い。その上で部長先生は私の研修が順調だと言う。私は矛盾に頭を悩ませる。不勉強なのはどの科でも同じだ。聞かれたことはほとんど全て知らない。なのにある科のある医師からは侮辱され、別の科の医師からは褒められる。

人間はいいかげんなものだ。

私は叱られたく無い。気分が滅入るからだ。叱られた方が勉強になると言う人がいる。本当に駄目な奴は叱られないから、叱られる内が花というのだ。しかし嫌なものは嫌だ。できるなら平穏に話をして欲しい。

青やかな稲穂は次第に早稲から始まる順に黄色に変わってきている。近江の田は収穫に向けて時間を刻んでいる。

私は相変わらずできる限りには懸命にやっている。アンプルを切り、バイアルから薬液を吸うのが多少うまくなった。挿管も筋弛緩がきまっているから割合に入るようだ。しかしこれを私の実力と言うわけにはいかない。麻酔のことは何もわからぬ。わかるということはない。2年目の医師にわかるほどしょうもない事柄が医業のはずがない。救急を恐れぬ優秀な研修医がいる。彼らは頭がどうかしている。私は自然が恐ろしくて仕方がない。2年しかやらないのに全てが分かるというのは絶望的な誤謬だ。

週頭に夏休みをもらえた。

病棟に患者がいないのだから今取っておきなさいと言うのだ。

病棟に患者がいると盆も暮れも休めないのでは医者は極めて不健全な職業だ。

しかし休んでパァッと遊びに行くというのも私には分からない。

学生時代は金と時間がなかったから遊ぶ間はなかった。賢い研修医たちは東北一周をしたり北アルプスにこもったり男と遊び回ったりしている。そんな遊び方は私は知らない。

結局どこかに祈りに行くことにした。遠くの中々行けぬところへ。それは江戸時代の伊勢参りをする町人と同じ精神性なのかと一瞬疑ったが、彼らは私よりよほど「参詣以外の付随物」が主目的であったろう。私は参詣に行くために行く。そのためにいささか銭湯に浸かるくらいの楽しみは許されようと思っている。

空谷子しるす

精神科3

精神科はつくづく厭なところだ。患者の方々の話を聞くときの疲労感がすごい。しかも私は技術も知識も無く、勉強する気力も無く、ただ今この時を体験してなにがしかでも残ればそれでいいと思っている。それ以上に気張るのは私には不可能だ。自身の心身の容量では不可能だ。

私がいなくても病棟は続いていく。今日明るい彼らが明日は不機嫌になったり暴れたりめしを食わなくなったりする。自然と同じだが医療者はそうも言ってはおれず対応を迫られる。私は幸いだったのは指導医はガチガチの理論派ではなく、矛盾を知る人間だったことだ。人にはそれぞれいいところがある。そのいいところを見ていきたい。指導医は良い意味でよいかげんだったので私はこそこそ逃げ回るを得、結果的に生き延びた。

人間は善人であり悪人であるを地で行くのが精神科だったように思う。それは人間の自然だが、彼らはさまざまな理由でわがままなのでそれが余計顕著に見える。

ものごとが移りゆく。

エビデンスを重視する先生がいて、「私は不安だから勉強する」と言った。なにかしていないと不安で勉強するのだそうだ。

幼少のころおそらくASDであり、親から注意されることが多かった。学校では周囲から浮いて、「勝たねばならない」と思って勉強に打ち込んだ。それで医学部に来た。いまでもちゃんと臨床やれていると思わないから勉強を沢山する。

「そうしないとすぐに堕落するよ」と彼は言うのだ。

脳波の指導をしてくれると言ったが、私は脳波を読む努力をする体力が尽きていた。

「そんなものだよ。とりまぎれて読めないことはよくある。しかし医者はそうしてすぐダメになるから気をつけなさい」

天地神明にかけて私は私にできる最善は私なりに尽くしている。

「自分なりのやり方」ではなく優秀な人のやり方をまねろとひろゆき氏が動画で言っていた。でもできんものはできんから仕方がない。

私が祈らなければ到底前に進むことも生きることもできんのはそれだ。人のまねもできぬ、自力も乏しいとあれば祈るしかない。

それが正解かどうかは私が死んだ後に誰かが判断してくれたらいい。

空谷子しるす

椿

ああもう嫌だなあめんどくさいなあと精神科病院の控え室でひたすらサボり、スマホの動画やら坂口博信の新作ゲームfantasianばかりやっているのは自己嫌悪に陥るが潰れて死ぬよりマシだと開き直っている。

病棟の患者はめしを食べるようになったが別の患者に肝障害が出た。黄疸もないし腹部症状もない。薬剤性を疑う。患者の飲んでいる薬を調べる必要がある。しかし自分が必死こいて調べんでも指導医の方が自分より遥かに知識も技術もあるから、自分が切迫して調べんでも患者の安危に関わらんから適当にやってやれと思う。

私はバカにされても仕方ない生き方をしているがバカにされると腹を立てる。

椿大神社と書いて「つばきおおかみやしろ」と申すのは伊勢国一宮の古社である。松下幸之助や岸信介の崇敬も厚かった。そのうんぬんは別にして猿田彦大神の総本社であり、倭姫命が伊勢の神宮を建てたのと同じ時にこの社の創建にも関わったと聞く。詳しくはよく知らん。なにしろ鈴鹿の山中には磐座が散在していて、いつから信仰の土地だったのか誰も知る者がいないのだ。猿田彦大神とは何者だったのかは誰もわからない。もし明らかにしたければ日本のあちこちを掘り返して古いものを見つけるしかあるまい。

椿の炭は製鉄に用いたという。どうも若狭のほうにも椿という地名があって製鉄に関わる。鈴鹿というのもスズというのは金属のことを指すという見方もあるらしい。も少し北の員弁の方に行けば多度大社という古社があり、ここは製鉄の神様を祀る。鈴鹿というのは大昔は製鉄をやっていてだいぶ勢力があったのかもしれない。

椿大神社の境内には奥さんの天鈿女命を祀る椿岸神社があり。きれいでかわいらしい丹塗りの社だ。夫婦和合というのは一つの神秘だ。他人が家族になるのはとても不思議のことで、だからキリスト教でも結婚の秘蹟と言うのだろう。

精神科の外来には全般性不安障害になった妻を甘やかす夫とその家族、仕事に行くと嘘ばかりついて適当にバックれた上にトレカやソシャゲに浪費癖のある夫、仕事でいじめられて弱った彼女をヤバいヤバいと盛り上げていく彼氏、さまざまな男女が来る。

三界の火宅だ。世の中は一切がめんどうくさい。外来もめんどうくさければ病棟もめんどうくさい。病棟の患者たちはいろいろな人がいるがたしかに基本的にはわがままで、彼らの話を聞いて私が心を悩ますのは下らなく思える。

なんでもいいが一番の問題は私が楽しくないことだ。大乗にせよ小乗にせよ仏教的には他人に構うのが間違いの元なのだ。自分のことだけ考えておればよいのだ。自分が楽しければなんでもいいのだ。他人にちょっかい出すのは無駄だからだ。

しかし人は人に左右される。釈迦の理屈はわかるけど目の前に他人がいたら心が動かされる。それが困るから修行でもなんでもして不動心を養おうというのだ。そんなバカな話があるか。世の中に不動心なんかあるものか。そんなものは神様しか持っていない。私はバカなりにズルく生きるしかないのだ。

椿大神社はいいお宮だった。私もやっかいなことから離れて神仙の世界に生きたい。しかし他人に罵倒されながら自分のバカさに死ぬまでのたうち回るのが私なのだから、それなりに生きて最後激烈に苦しみ抜いた挙句に死ぬ。そうしたらもしかしたらなにがしか報われるかもしれん。

空谷子しるす

多賀

多賀大社は近江にあって伊奘諾命を祀る古社である。古事記に「伊耶那岐大神は、淡海の多賀に坐す」とあり、少なくとも古事記の頃から伊奘諾命をお祀りしている。

朝から着古したスクラブを洗濯に出しに病院に行くと循環器内科医とすれ違う。会釈すると彼もわずかに会釈し目を反らす。

医局秘書の女性は看護師と話している。私は以前自分はなぜモテないのかと秘書の女性に問い詰めたのですっかり嫌われてしまった。しかしどうしようもない時は周りにぶちまけるしかない。自分が潰れて死ぬよりましだ。

スクラブを洗濯かごに放り込むと妙にお多賀さんにお参りしたくなった。天気予報は雨だったのに空は徐々に晴れてきていた。もともと昨日は椿大神社が気にかかっていたが片道一時間半もかかるから無理だと思っていた。日頃からお世話になっているお多賀さんにお参りするのはとても適切に思えてきた。

多賀というのは不思議な土地である。

近隣の深い山の中に三本杉なる霊木あり、上古の昔伊奘諾命伊邪那美命の二柱はこの杉に降臨給いたのが多賀の宮の始まりという。多賀の山の中は深い。惟喬親王の都より逃げ給い、この多賀の山中に隠れ杣人に仏具を模した木椀をろくろもて作ったるが日本の木工のはじめだ。木地師というのは所謂木工職人のことで実に日本中の木地師は多賀山中の木地師の本拠地から印可をもらわねば商売する能わずと。大君が畑という地名は実に惟喬親王を讃えた地名ならん。なお政所とあるも惟喬親王のゆかりならん。政所に惟喬親王の墳墓あり。さらには政所は日本最古級の茶の木あり。樹齢三百年を数え、その味きわめて素朴ながら不可思議に複雑なり。政所茶は大津の中川誠盛堂にて販売せらる。

さて多賀三社参りとていつの頃から人の言うならん、多賀胡宮大瀧の三社もて三社参りと申すはいかにも滋賀県の観光誘致の方便なるべしと思い定めつれどもこれまた稀有なるご神縁の機会なれば本日いかにも晴天にて風涼しく、青竜山が私を誘うようだ。

胡宮神社は伊奘諾命伊邪那美命二柱をお祀りする古社にて創建の由緒不明ながら上古の昔より崇敬せらるるお宮なり。かの東大寺を勧進したる重源もまたこの胡宮神社にありし敏満寺に合力の依頼を書状にしたためてあり。青竜山背後にあり。標高三百三十三米なり。これ昔は神体山、すなわち山自体が御神体であったことと思う。その証拠に山頂には磐座と小さな池あり。この池かつてはこの磐座参拝の前に身を清めるのに用いられたと伝わる。この池のあるによって龍神の山に住まいたることが連想されたことから青竜山の名が付いたかと思う。磐座は社殿を必要とする以前の信仰のなごりだ。岩に神様が降りてくるという信仰だったかと思う。山の中の巌にて神様をおろがみ祀った。山そのものが聖地のなり、ふもとから山を拝むこととなったのが神体山の信仰と私は理解している。胡宮の信仰は大変古いことがわかる。また麓には石仏谷と申して古くは十二世紀ほどの時代からのあまたの石仏、あまたの墳墓あり。今なお発掘調査せらる。敏満寺は天台宗の大寺にてもともとの創建は飛鳥時代の敏達帝の御代になされた。以後拡大続け城郭を擁するようになったが十六世紀織田信長に焼討にせられて寺院ことごとく灰燼に帰す。焼け残った礎石のたぐいを古井戸に投げ込まれたのが、平成のいつごろかに掘り出して胡宮神社の境内に積み上げてあり。これを焼石の塚と申す。胡宮神社は多賀大社と同じ御祭神にて延命長寿の霊験あらたかなりとぞ。

さて多賀三社参りの最後は犬上川上流に御鎮座せらるる大瀧神社にて、きびしい巌を縫うような清流の傍らに坐すお宮なり。

これは犬上氏の祖先稲依別命にゆかりあり。御祭神は高龗神、闇龗神にて京都貴船の貴船神社と同じ御祭神にして水の神様なり。これは川の上流、水源地だからこうした神様をお祀りするのだと思い、「水の神」だったから後の世に水の神様である高龗神闇龗神を祀るとしたのだろうと思う。犬上氏は今の豊郷町に犬上神社あり、これは犬上氏の祖神稲依別命をお祀りする。なお稲依別命は日本武尊の王子なり。日本武尊は瀬田川の建部大社に祀られてあり。近江に日本武尊の足跡多い。そういえば伊奘諾命は琵琶湖を渡って大津の三尾神社に至った。長等山を目指して淡海を渡った。これは多賀の地から淡海を渡ったものか。近江には伊奘諾命の足跡も多い。三尾神社は全国に珍しい「兎」を神使とする宮である。

さて話を大瀧の宮に戻そう。

稲依別命、犬上の土地に至ってこの地を治めんとしたとき悪しき大蛇が犬上川に住まうと聞いた。これを討つため愛犬小石丸と共に探索に出たが中々大蛇見つからず。七日七夜過ぎて稲依別命疲れたものか寝入っていたら小石丸盛んに吠え始めて止むことがない。怒った稲依別命一刀抜き払って小石丸の首切り落としたら首は地に落ちずして飛んで薮の中に入り、薮に潜み居た大蛇が首に噛みついてこれを絶命せしむ。小石丸は主人を守るため盛んに吠えたのだ。稲依別命は愛犬の忠義に感じ、またその命失ったを悲しみ、愛犬をこの地に弔い松の木を植えた。これ犬胴松という。いつの世に枯れたか知らぬが大瀧神社道路挟んだ向かいに犬胴松の木の乾いたものが今でも祀られてあり。小石丸の首は大瀧神社の脇、巌を縫う急流を覗くような場所に祀られてあり。

さてさらに適当なことを書けば、敏満寺焼討の際に不動明王を救出したのは佐々木隼人庄宰相と申す者にて、今の世に至るまで不動明王を清涼山不動院とて敏満寺の集落内に守り伝えている。あまり調べていないがこの隼人庄と言うからには昔この地には薩摩隼人が移住したものか。たしか奈良時代に国策として隼人をあちこちに移住させたことありと開聞岳ふもとの資料館で見た記憶あり、その一例といえば山城は田辺の棚倉彦神社の隼人舞を見よ。舞に用いる盾には隼人の用いる赤い渦巻き模様が今も描かれている。

さらには近隣に楢崎古墳あり。横穴式石室。古墳の様式はよく知らんが渡来系の影響ありと言われていて、考古学に知識とぼしく不勉強だからこれ以上はわからん。

日本史では所謂遣隋使に犬上御田鍬が行ったのは有名な話だ。それは小野妹子もまた渡来系氏族の出にして派遣された(近江は大津の小野に小野神社あり。小野氏は実に日本に最初に「おもち」を持ち込んだ大偉人が先祖だ。なお「おまんじゅう」を日本に最初に持ち込んだのは大和奈良、高天の交差点近くに坐す漢国神社、その境内にある林神社に祀られている人だ)のと同じで、犬上氏も渡来系氏族かあるいは渡来の文化に詳しい氏族だったのであろう。

さても多賀、犬上、豊郷の地は面白い土地よ。歴史は深く複雑である。

よし、人から蔑まれることあったとしてそれが渡来、薩摩隼人の故に古代疎まれたならば、そのよし今は蔑むにあたらず。蔑まれることは別に近代江戸幕府のフィクションではなく古代よりのことだが、古代に遡ってその理由蔑むにあたらぬことを弁えるのが大切と私は思う。思うのだがこれはいかにも浅学の私が断言すべきことではない。

精神科の指導医に乞われるままに豊郷、犬上の自分の知っていること話したら喜ばれ、

「今からでもその道に行ったらどう」

と言われたのは医師が向いてないと言うより古代を話す私が楽しげだったからであろう。

実に文学部、古代史の研究で生き残るほどの卓越した実力は我に無い。無いが、医師として、またご神縁にて、こういう日本の神々のことは実は世界中の万国民に有用な気が私はするからできる範囲にて考えたい。神様が与えて下さるなら至るだろう。

多賀三社参りはよいお参りだ。

空谷子しるす