患者さんのことなど5

その人は指導医の外来に来ていた人であって、大動脈弁置換後にワルファリンを服用していたのであったがINRが伸びすぎたのであった。あと何故かよくわからない低ナトリウム血症があった。そして今回の入院原因は肺炎なのであった。

肺炎は抗菌薬によりただちに軽快した。

低ナトリウムも正体不明ながら持ち直した。

INRもだんだん調整できてきた。

しかしながら、この人は、4年前から全身が痛むらしいのだ。すでに膠原病内科にも受診済みだ。CEAとMMP-3が高値である以外は全て陰性だ。上部内視鏡、下部内視鏡、全身CTも異常はない。頭部MRIでも脳炎のような所見はない。本人は全身が痛いというが苦悶の表情はない。そもそも仮面様顔貌というのか、表情自体が乏しい。筋剛直もない。四肢に把握痛もない。Xpでも骨折はなさそうだ。かつて脊柱に圧迫骨折の歴があり、いくつか派手に潰れてはいるが、それは4年前よりもっと前の話だ。

病床を尋ねると決まったことを言う。

「しんどさはかわらないね。」

痛みに対してNSAIDsやトラムセットを用いたが何の効果もなさそうだ。最終的に線維筋痛症も疑ってアメリカリウマチ学会の予備診断基準に従いスコアをつけた。合計で33点になり、診断基準は満たしそうであった。

サインバルタを用いたらすこし飯を食べるようになった。

飯の摂取は日に日によくなったが、本人は変わらないようだった。「かわらないね」を無表情で言うだけだ。「全身が痛い」

それでも飯を食うようになったのは嬉しく思ったものだ。そうは言っても治療方針を組み立てるのは私ではなく全て指導医な訳で、私はなにもしていないから、私がどうこう悩むのはどうでもよいことだった。しかしそれでも私なりにあれこれ考えて、苦しむ患者の前に行き、自らの無能にさいなまれていたのは事実であった。

私は阿保である。

悩まぬことを悩む一人相撲をして、くたびれ果ててロクに勉強もしない。

私は何をやっているのかと思いながら毎日病棟に向かう。

私より賢い研修医なら彼を救うかあるいは指導医とうまく連携できるのだと思う。

患者は退院していった。最終的に飯は10割食べていた。

そして数日後、CPAとなって救急に運ばれてきて、そのまま逝ってしまった。

救急隊は誤嚥で窒息したのが原因かと言った。車の中で残渣がかなり吸引できたらしい。しかし救急外来ではあまり引けなかった。自己心拍は戻ったが、翌日明朝またCPAになって逝った。

彼が運ばれてきたとき、私は半休を取って病院にいなかったから、翌日に彼の亡くなったのを知ったのであった。この病院は研修医を休日に呼び出すことは無い。

空谷子しるす

循環器

ある研修医は言った。

「気にしすぎなんだよ。『すみません』で流していけばいいじゃない」

またある研修医は言った。

「できるようになったことに目を向けた方が楽しいですよ」

循環器は6,7月の2か月だった。

指導医にひたすら金魚の糞をするという状態であって、カルテのことや採血、カテーテル治療のシース組みなどを教わった。教わったのであったが、物分かりの悪い私は何度も同じしくじりをした。

私は相変わらず病棟に行って患者方の話を聞く。

驚くべきことに、この6,7月は「ふつうの心不全」や「ふつうの不整脈」は来ず、私が見たのは正体不明の重症肺炎、正体不明の全身疼痛と低ナトリウム、プロテインS欠乏症などであった。

私は無能感にかられる。

私はたしかに疲れている。

来月からの消化器内科はより大変らしいから、これは仕方ないことである。

空谷子しるす

患者さんのことなど4

「兄はな、学校に通っている時に汽車に乗ってたんやけどな」

「はい」

「むかしは汽車に人間が乗り切らんので、連結部にぶらさがっていた」

「はい」

「それで兄が通学のときに、連結部にぶらさがっていたら」

「はい」

「すべり落ちて、足が車輪に挟まれたんよ」

「なんと」

「親切な人がいて、兄の傷ついた脚を、履いてた足駄でてこの原理で固定して」

「はい」

「それからリヤカーに乗せて、病院に行ったんよ」

「はい」

「駅からずっと、兄の血が点々と病院までついてね」

「はい」

「私はそのころ××の女学校に通っていたから、知らせを受けて、兄は死ぬんかと思って」

「はい」

「あわてて病院に行った。当時私の家に疎開していたいとこが学校まで来て知らせてくれたんやけど」

「はい」

「病院に行ったら、合羽をひろげた上に兄の脚があって、血の海なんよ」

「はい」

「毎日学校が終わったら、ご飯のお櫃を背負って、防空頭巾を携えて見舞いに行った」

「はい」

「するとB29が飛んできて、私は田んぼのなかに伏せるんよ」

「はい」

「上から見たら丸見えやったろうけどね。田舎やから、爆弾も落とさんと、そのままいってしまう」

「はい」

「そのころは私も少女やからね」

「はい」

「兄を見舞いながら、私は将来看護師になると思ったりもした」

「はい」

「兄が治ったら治ったで、ああ憎たらしい人やとか思って、ふふふ、看護師になろうと思わんくなって」

「ふふ」

「そうやって暮らしてきたから、それは普通のこととは違いますわなあ」

空谷子しるす

患者さんのことなど3

その方は緑膿菌肺炎であった。

若い時はタバコを吸っており、COPDと気管支拡張症が基礎疾患にあった。

朝、訪床すると、ぜいぜいいいながら寝台に腰掛けておられることがしばしばであった。

「話してると楽になるわ」

しばらく対話をしていると、たしかに落ち着くようだった。

「ありがとう」

話を聞くだけで病がよくなるなら安上がりでよいことだ。こちらだって、注射も、採血も、内服の計画もできんろくでなしなのだから、話くらいしかできんのだから、ありがたいことだ。

彼は宮大工であった。

「いままでに、そうやなあ…」

過去を思い出す彼の目は病室の中空を見る。

「大通寺の台所、竹生島の三重塔、石山寺、岩船寺なんか扱ったワ…。」

「それはすごい」

「そうやなあ。ありがたいことや…」

彼の左手の親指は短く変形している。

なにか事故によるのだろうか。

「石山寺でナ、あすこに縁側とか、渡り廊下があるやろ、昼休みにそこで昼寝すんねんな」

天下の昼休みである。

私は石山寺の、木漏れ日のなかで昼寝する男たちを想像した。

それは天下一の昼寝に違いなかった。

「趣味のないもんには、しかたないけどナ…」

彼は馬場秋星の「浅井三代小谷城物語」という本(絶版のようだ)を読んでいた。

「浅井の墓には行った?」

彼はそう尋ねたが、私は残念ながらまだ参らない。

「小谷山も、いろいろ面白いんよ」

彼はさまざまな寺の話をしてくれた。

岐阜、京都、近江、奈良…彼は休みのたびに寺に詣で、家族、こどもらを観光に連れ出し、みずからは寺をじっくりと見ていたようなのだ。

「大工仕事が平日、忙しいからゆうて」

と彼は苦笑した。

「こどもらは休みの日はオトウチャンに遊びに連れて行ってもらおうと思ってるしナ。家で寝てばかりいるわけにはいかへんナ。家族サービスせんとな…」

彼の緑膿菌は、抗菌薬によりだんだんとよくなった。しかし酸素の管は、外せぬままだ。

「こんなんなって、なさけないなあ」

酸素がなければ彼の酸素化は確保できず、息がくるしいのだ。

在宅酸素の機械は、大きすぎるというので彼は拒絶した。

「先生…」

「なんですか」

「長命寺は行ったことがある?」

「いえ、まだ…」

「いい寺よ」

彼はそう言ってニカッと笑った。

「いっぺん行ってみ」

長命寺は近江八幡にある古刹だ。

日本第一の長命で有名な、武内宿禰ゆかりの寺なのだ。

私は母をともない、長命寺へ登った。

よく晴れていた。八百八段を登り切ると、小さな涅槃のような境外の地が待っている。

私は境内のロハ台に座り、大きな本堂をつくづくと眺めた。

俗世には要求が山ほどある。

その切実な要求を「救う」寺が長命寺である。

それはつまり、俗世のどんな悩みも、仏の前にお願いしてよい寺ということだ。

仏門は超俗のものゆえ、欲から離れよなどとは言わぬお寺ということだ。

自分は、そうした古刹を、数少ないがいくつか知っている。

多くの人が、そうした寺に、かそけき切実な思いを抱えて石段を登ってくる…。

静かな山のなかに梵鐘が低く遠く響いている。

宮大工の彼は、この本堂をどう見たのであったろうか。

休みごとに寺に参じ、祈りをささげた彼は、なおらぬ肺の病と共に生きている。

やまいとはなんであろうか。

私は、短絡的には考えぬ。

私は、祈ることをあらゆる意味と段階において諦めることはない。

空谷子しるす

患者さんのことなど2

その女性はⅡ型糖尿病の教育入院であった。

かかりつけの病院で高血糖を指摘され、紹介されて来られたのだ。

「ブラジルでは、じぶんで血糖値をはかる器具を買って、じぶんではかります」

その方は日系ブラジル人であった。

ずいぶん前に日本人と結婚され、日本にきた。

「ブラジルにはカトリックとエヴァンジェリストが半々です」

ご高齢のブラジル人にカトリックが多く、若い年代にエヴァンジェリストが多いとのことであった。

彼女はカトリックであり、エヴァンジェリストはあまり得意でないようだった。

カトリックは貧しい人とお金持ち、エヴァンジェリストは貧しい人が多いとのことで、いわゆる教会への寄付は、カトリックでは「あの」馴染み深い皮袋に、いくらいれても、いれなくても自由だ。しかしエヴァンジェリストは、給与の1割を収めねばならんらしい。

それは酷なはなしである。

「娘の彼氏、ファベーラの人なんだけど」

ファベーラとはブラジルのなかで貧しくて危険な区画と私は理解している。

「ファベーラ、危なくないです?」

彼女は首を振った。

「ファベーラの人と友達の人、大丈夫。その人といっしょに行けば危なくない。」

でも、と彼女はいたずらぽく笑った。

「わたしはちょっとこわいね。ひとりではいかない」

彼女は、結婚する相手は心だと言った。

「男の人、よく、若いとか、顔で結婚する。よくないね。ブラジル、30代で結婚はふつうよ。」

「そうなんだ」

「私も、だんなさんすごい優しい人!」

そういう彼女の顔は明るく、太陽のようである。

「だから、あせらない、あせらないよ」

悪いことには子供のようであり、考え方については大人のようであれ、とは聖パウロのことばである(コリ1 14:20)。

人間のつきあい、人間のつきあい、

これはもう「赤心」をもって、こどものように、大人のように、臨むしかあるまい、と思った。

空谷子しるす

患者さんのことなど 1

その方は肺炎と心不全を患っておられた。

大正うまれであって、戦争を経験されたようなのである。

「ようなのである」とは、本人が認知症なので、また発声がいささか不明瞭なので、はなしがよくわからぬのである。

「南方で航空隊やったんよ」

と、その方は仰った。

「兵長やったんや。飛行機の整備をやっていた。二等兵から兵長になるのは、並のことやないんよ」

私は旧日本軍のしくみに明るくないが、一兵卒が兵長になるのは、たしかに大抵のことでないように思われた。

15歳でバルブ工場につとめたらしいのだ。

バルブの中の溝を、手作業で削っていたらしい。

その技術力が上官にかわれたのかもしれない。

水道管やバルブは、私の研修地の名産である。

「あたらしいバルブを、開発せなあかん」

彼の「あたらしい」ことへの情熱は強かった。

「ふるいものと、あたらしいもの、そのいれかわりが難しい」

先のいくさから、とにもかくにも日本は変わったし、世界は変わったのであった。

べつに欲しいといったわけでもないのに携帯電話が出た。パソコン、タブレット、スマートフォンに、そうした高価なものがなくては生きていけぬ習いとなった。

バルブも、今は彼の言うような古典的な削り出しでは作らなくなったようだ。

「この◯◯(患者さんの名前)がいたということを忘れないでください」

彼は歯のない顔で笑った。

そうして彼は私の手を取った。

「えい!えい!」

彼は私の手に、みずからの手を勢いよくなんども重ねた。

それはなにか、かたちにならぬものを渡そうとしているかのようだった。

しかし、それがなんだったのかは、いまだにわからぬままだ。

空谷子しるす

呼吸器内科

「コモンな症例がなくてごめんね」

と、呼吸器内科の部長先生は私に仰ったのだ。

2年前からつづく世界的な悪疫は日本の田舎の研修医にも波及している。

呼吸器内科の先生方は主にコロナを診ることになり、他科の診れそうな疾患は他科に分担されることとなった。

しかもどういうわけか、先月はそれなりに来ていた胸水や気胸といったありふれた疾患も、この5月は全く来なかった。

私は賜った患者の方々を見にいっては、呼吸数や心拍数をとって、著変がないことをたしかめ、カルテを散漫に見て、業務上には存在意義のないカルテを書いて、

はなしがしたい患者さんがあれば、

行ってお話を伺っていた。

私はなにをやっているのであろうか。

相変わらず、薬の指示も、静脈のルートとりも、定期処方の継続すら、できぬままである。

入職前に上の先生から聞いたことがある。

「CVを何本いれたとか、挿管を何回やったとかは、たいした問題ちゃうんやで」

また六ヶ所村の松岡先生は仰ったのである。

「ハイパー病院とか行っても、行っただけになる人が多い。行った先で何をするかなんだ」

行った先で、ちからの及ぶかぎりはやるつもりでいたのである。

いまも常にやれる限りのちからは尽くしている。他人がどう思おうが、天地神明に照らして嘘偽りのないことである。

しかし、なんぼ初期研修の、手技のいくつかをやるとか、仕事がすこしできるようになったとかが、先達の仰るように大したことでなかったとしても、

私はやはり無能ではないかという思いが強くなる。

肺音を毎日聞く。

副雑音なしとカルテにかく。

同日の昼頃のカルテにて、オーベンが、捻髪音ありと書く。

夕にきけば、吸気終末に、わずかに捻髪音をきくようである。

私はいまどうなっているのか?

無能の駄目研修医なのか?なにかやり方を変えねばならないのか?

それともこのままちからを尽くしてゆくので大丈夫なのか?

なにかができるようになった訳でないまま呼吸器内科が過ぎていく。

空谷子しるす

糖尿病内科

4月から始まった研修は糖尿病内科からであった。

オーベンは早口であった。

オーベンというのは指導医という意味の業界用語であり、obenとはドイツ語にて「上に」という意味らしく、研修に入ってはじめて聞いた。じつに化石じみた言葉だ。一体、ドイツ語というのは、森鴎外のように権威的でえらそうに聞こえるから嫌いだ。カタカナ語やアルファベットの略語はなんだかわからぬからきらいだ。

オーベンは早口であった。

早口であったが、怒ったりはしなかった。

「あの、先生、ね、メトホルミンですね、下痢をおこすことはありますが、メトホルミンイコール下痢という図式がね、先生のなかで固定されてはね、それは気の毒と思いますから…」

2型の糖尿病、教育入院の方がはなはだ下痢をしておられたのであった。

ビグアナイド系の薬がときどき消化器症状をもたらすというのははじめて知ったが、一日に十遍以上も下痢をするのは困った。その下痢は結局、メトホルミンを減量したらひいていったのではあったが、よくわからぬことだ。

まったくよくわからぬことばかりだ。

薬の指示も、輸液の指示も、まだするを得ぬ。

なにかが起きても、それが何故のことか、見当がつかぬ。

医師免許がきたら少しはモテるかと思うたが、別段モテはせぬ。

しかし持病の胃食道逆流症ばかりは、

就職したがため、給金が入るようになって、

差し当たり飢え死にの心配がなくなったから、

すこしましになった。

空谷子しるす