神道とケア

神道とケア

投稿者:空谷子2021/02/25

「神道とケアについて発表して下さいよ」とi先生が仰った時、私は奮い、考えた。

神道とケアという話についてそれまでどこかで結びついたらよい、生きながら考えていたらその内わかるだろうくらいに思っていたので、それをいざ人に話すとなればどうしても何らかの形にしないといけない。それは自分の能力では到底無理に思えた。どうすればよいのか見当もつかぬ。

そもそも神道に医療的概念があんまり無いのだ。全然無いと言ってもいい。日本仏教が悲田院や北山十八間戸といった医療・福祉を早くから実施し、弱者への慈悲を以て接していたことからすればその差は大きい。また儒教は儒教で国内政治の安定から失業者保護の活動や救貧政策を江戸時代に行なっていたように記憶している。大塩平八郎だって、あれも一種の陽明学的福祉精神の発露と言えるだろう(結局テロリストだが)。

それでは神道は一体何をしたか?

何もない。ちょっと調べるくらいでは全然出てこない。もちろん私の無能と不勉強が前提なのは大ありなのだが、そもそも経典がない神道ではその思想的側面を云々することが難しいというか不可能に近い。神道では神はロゴスでは無いのである。素朴に言えば、その土地に固有の「ただ存在する」神であるのだ。

神道を云々することはとても難しい。

しかし、小テレジアのように博覧強記でなくとも神を深く理解したので教会博士となった人もいる。ベルナデッタのように、ちっとも教養がないのに聖人となった者もいる。神を理解するということは言葉によらぬところである。神道は実践しかないから、ある意味でいちばん信仰に近い宗教かもしれぬ。

そうした意味では祈り、祈り、祈って、感得したところを適当に言語化するのが良さそうだ。言葉からまた言葉を紡ぐより、そのものに向かってそれを拙い言葉で表してしまう。人を恐れぬ大胆さだ。一体、人は人の間では正確であらねばならない。しかし神様から比べたら、人間の差など誤差にすらならぬ…

そんな傍若無人の振る舞いをせねば怖くて話すどころではなかった。しかし皆様、温かく聞いてくださり、しかもたくさん質問いただいたのでとても嬉しくかたじけないことにございます。ありがとうございます。

いよいよ神道とケアのことを考えていきたいと思いつつも、「祭りと癒し」の関係をはじめ、神道自体のことも(いわゆる「神道書」というものを読んだらむしろどんどん神道から離れていく気もします)勉強していきたい所存です。皆様どうもこの度は誠にありがとうございました。

崇める

子供を連れて近所の公園へ出かけた。自転車に乗りたいというので、ほぼ物置兼書斎と化した応接間に収納してあった折り畳み式の補助輪付自転車を周囲に無造作に積まれた段ボールを乗り越えて壁を傷つけないように玄関に運び出す、この作業だけで一苦労だった。子供はペダルを反対向きに漕いで、漕いだ気になっている。私は自転車の背にささっているハンドルを操作して子供を誘導する。ハンドルは馬鹿になっており、右はよいが左は目一杯回してもほんの少ししか方向を変えてくれない。子供は高速でペダルを反対向きに漕ぎ続けている。

一番近所の公園は遊具が工事中であり、遊具の周りがパイロンとバーで囲われている。諦めてもう一つ近所の公園へ行った。ここも滑り台が新しくなっていたがもう工事は終わっている。子供は滑り台が好きなので真っ先に滑るかと思ったら、砂場遊びから取りかかった。小山を作り水をかけると個物が浮かび出てきた。砂の塊かもしれないが動物の糞のようでもあり子供は喜んだ。そのあとは滑り台、ブランコ、シーソー、ウンテイを順にひとしきり利用して帰路についた。

NPO法人設立後初の総会の日であった。流行病のためZoomという遠隔通信のためのアプリケーションを利用し、特定の会場は設けなかった。予約時刻の設定が米国時間になっていたようで定刻に入室できないという自体が発生した。上手くいかないことを前提に30分前に練習時間を作っていたのでiさんが対処してくれた。

電波が悪いのかpcの性能の問題なのか通信は途切れ途切れだった。文字通り間が抜ける、ということが起こる。衣擦れや吐息、ちょっとした仕草等々は当然抜け落ちるが、事務的な話であれば特段の支障はないかもしれない。ただ普段に輪をかけて間抜けになるので話はしづらい。

oさんは神道とケアについて、レクチャーしてくれた。ケガレを排除するという伝統があり神道にはケアが馴染みにくいという。ただケガレという伝統も実は近年のものであり、ターンオーバーも速く、変容への親和性も高いといった指摘もあった。神と共に日々をありがたいと思うことが神道の重要な側面ではないかとoさんはいう。

なんでもかんでも崇めてしまうということには危うさもあるが端的に素敵なことでもあると思う。憑依された人は現代の日本における西洋医学的精神医学ではICDやDSMの手にかかれば、治療の標的となることは明らかであるが、それを医学的に囲い込むことなく崇めてしまう。問題を個人に属する事柄としてではなく、コミュニティの問題として対処していく、という開かれた方向性があるように感じる。

oさんの話を聞くたびに、中井久夫の治療文化論を読み返したくなりうずうずしてくる。それで子供が寝てからこっそり布団から抜け出し、読み返していた。

ひどく大雑把に言えば創造の病い、広くは個人症候群、治療文化の話が書かれている。大切なことは周囲が見放していないことである、というような文言がある。見放すとはどういうことか。問題をコミュニティから切り離し、当人だけの問題と見做すことではないか、関与を否定するということではないか、責任の所在を当人のみに帰属させるということではないか。自由と責任はフィクションの下で機能するが、フィクションのフィクション性を剥奪することはコミュニティとしての変容の拒絶に通じる。

ラカンは不安のセミネールの中で、不安をハイデガー的気遣いSorge、サルトル的真面目さ、フロイト的予期の三方向に分けて述べている。ケアは遡れば、ハイデガー的Sorgeに通じるだろう。死を想うことを神道は忌避するという。生と死や自由と責任、共同性と自律性、時間と空間といいかえてもよいかもしれないが、すべてフィクションだが真に受ける、ありがたく思う、崇め奉る、そうした土壌を神道というのだろうかと徒然に思った。フィクションのフィクション性を暴くということが、王様は裸であると叫ぶことだとしたらそれは大したことではない、というのもそんなこと皆初めから重々承知の上なのだから。フィクションを真に受ける、というのはだから倫理と言ってよいのではないか。裸の王様の大衆に問題があるとすれば、それは信じた振りしかできなくなっていることではないか。

本当に難しいのは疑うことではなく信じることである、というのは少女漫画のセリフからの引用である。

子供が布団の上で叫び出したので、書斎から戻らねばならない。

1歳になったばかりの次女は夜泣き、もうすぐ4歳になる長女は夜驚を起こす。子供は泣き叫び、宥めようとしても手を払いのけ体を押しのける。次女が生まれてから長女と私はリビングに布団を敷いて寝ているのだが、ままままと夜泣き叫びながら寝室のほうを指差している。次女の反対側に寝かせると静かになり寝息を立て始める。私もまた横になる。

「さよなら」を臨床医学に

「さよなら」を臨床医学に取り戻そう。
その責務がわれわれにある。

ある宗教学者は、死によって無に帰すのではなく、「死はお別れ」と認識するようになった途端、死の恐怖が和らいだ、と自らの闘病生活を振り返った。

別れる。
では、その人はどこに?

患者に具体的な信仰があれば、その信仰に合う彼岸を前提とすればよいだろう。
しかし、神無き現代において、我々医療者が彼岸について具体的に言及することは難しい。

具体的な神は無い。
しかし、something  greatは存するか。

死の表現は様々にある。
終焉、絶命、永眠、死没
などと単に終わりを告げるものもあるが、

逝去、他界、辞世、不帰
などと移動を示唆する表現も多い。

しかし、どこに?

「さよなら」は世界一美しい離別の言葉。
アン・リンドバーグがそう賞賛したというこの言葉は離別を直接的に示してない。
「左様であるならば」

我々は死別に際して、どこかへ移動することを漠と想起しながら、「左様ならば」とおおらかに生を総括し、死と向かう。

これら素朴な言葉の中に、われわれの死に対する素朴な感覚が伺える。

翻って、現代の臨床医学は、この別れの様態をどのように捉えているのか。
「呼吸音、心音、対光反射がない」
医師はこの3つのないをもって、死があると診断する。
カルテにも「~時~分、死の三兆をもって死亡確認した」とのみ記載する。
医学的な死の記述として、この一行のみが記録として求められる。
もちろん、その時家族の誰がどのように振る舞ったかを記載する場合もある。
しかし、必要十分な記載は、この一行である。

「ない」という死の三兆が「ある」。よって、死が「ある」。
ないがあるからある
考えるほどに思考が迷子になる。
悪い冗談のようにも思える。

しかし、この冗談ともとれるロジックを展開しなければならない、やむにやまれぬ事情がある。
主治医といえど、24時間側にいることはできない。
急性期病院において、一睡もできない当直勤務を終えた夜に担当患者が亡くなることもある。
弁明のようで心苦しいが、われわれの体力にも限界がある。
そのような激務を緩和するために、当直医が担当では無い患者の死亡診断を行う。
会ったこともない、すでに生体反応の途絶えた患者に、上記三つの無いでもって、死を宣言する。
このとき、死の3兆以外の何かを見出すことは不可能と言える。

しかし、だからと言って、死別を常に死の3兆で切り取るのみで済ませてよいわけではない。
と私は考える。

われわれは否定ではなく、肯定でももって死と向き合うことができるだろうか。
「さよなら」についての考察が、死の肯定性を捉えるヒントをくれるだろう。

「さよなら」を臨床医学に。