「さよなら」を臨床医学に

「さよなら」を臨床医学に取り戻そう。
その責務がわれわれにある。

ある宗教学者は、死によって無に帰すのではなく、「死はお別れ」と認識するようになった途端、死の恐怖が和らいだ、と自らの闘病生活を振り返った。

別れる。
では、その人はどこに?

患者に具体的な信仰があれば、その信仰に合う彼岸を前提とすればよいだろう。
しかし、神無き現代において、我々医療者が彼岸について具体的に言及することは難しい。

具体的な神は無い。
しかし、something  greatは存するか。

死の表現は様々にある。
終焉、絶命、永眠、死没
などと単に終わりを告げるものもあるが、

逝去、他界、辞世、不帰
などと移動を示唆する表現も多い。

しかし、どこに?

「さよなら」は世界一美しい離別の言葉。
アン・リンドバーグがそう賞賛したというこの言葉は離別を直接的に示してない。
「左様であるならば」

我々は死別に際して、どこかへ移動することを漠と想起しながら、「左様ならば」とおおらかに生を総括し、死と向かう。

これら素朴な言葉の中に、われわれの死に対する素朴な感覚が伺える。

翻って、現代の臨床医学は、この別れの様態をどのように捉えているのか。
「呼吸音、心音、対光反射がない」
医師はこの3つのないをもって、死があると診断する。
カルテにも「~時~分、死の三兆をもって死亡確認した」とのみ記載する。
医学的な死の記述として、この一行のみが記録として求められる。
もちろん、その時家族の誰がどのように振る舞ったかを記載する場合もある。
しかし、必要十分な記載は、この一行である。

「ない」という死の三兆が「ある」。よって、死が「ある」。
ないがあるからある
考えるほどに思考が迷子になる。
悪い冗談のようにも思える。

しかし、この冗談ともとれるロジックを展開しなければならない、やむにやまれぬ事情がある。
主治医といえど、24時間側にいることはできない。
急性期病院において、一睡もできない当直勤務を終えた夜に担当患者が亡くなることもある。
弁明のようで心苦しいが、われわれの体力にも限界がある。
そのような激務を緩和するために、当直医が担当では無い患者の死亡診断を行う。
会ったこともない、すでに生体反応の途絶えた患者に、上記三つの無いでもって、死を宣言する。
このとき、死の3兆以外の何かを見出すことは不可能と言える。

しかし、だからと言って、死別を常に死の3兆で切り取るのみで済ませてよいわけではない。
と私は考える。

われわれは否定ではなく、肯定でももって死と向き合うことができるだろうか。
「さよなら」についての考察が、死の肯定性を捉えるヒントをくれるだろう。

「さよなら」を臨床医学に。