覚書16

作者は読者に歓迎されるように書く。これはしかしおかしいのではないか。作者と読者に共通の一望監視方式が働いているのではないか? 

という言い方が大袈裟なら、教室の中で先生に褒められたいという生徒根性の延長なんじゃないか。

作者は自分にかすかに聞こえてくる声や音に呼応して書くのが、書く態度として最も誠実なのではないか。

(中略)小説家というのは、もともと何が書きたいか、はっきりとしたものを持っていたわけでなく、ただ書きたかっただけで、しかしそれでは何も書けないから、

キャリアのスタートにおいて、何かわりとはっきりしたことを書くわけだが、そのうちに書きたいこともなくなり、ただ「書きたい」という気持ちだけが残る。

(保坂和志「みすず」アンケート「2012年に読んだ5冊」)

正確さ緻密さを根拠にしているこの社会を批判するために、正確・緻密な論理を元にしたら、この社会を大本(おおもと)において認めることになってしまう。

(同書)

昔書き留めたメモが出てきて、読み返していた。本もそうで、昔読んだ本の書き込みも私が書いたのだろうが、全く書いた覚えがない。本は読んだ覚えさえない。いっさい覚えていない。

山口百恵の『蒼い時』を読み返したが、全然覚えていなかった。読み直したいという気持ちが湧いたとき、読んだときの印象だけが蘇る。それは読んでないのと一緒かというとそういうわけではないのだろう。印象として溶け込んでいる。

私の髪の先には悪魔がぶら下がっている。毛先から毛先へと移動していく。へらへら笑ながら、「今日はちょっと寒いなあ」。ジャンパーで彼を覆い、家族をのせて車を走らせる。

amazon primeで大島弓子『綿の国星』のアニメがみられるようになったと教えてもらい、空いた時間に少しずつみた。漫画でしか読んだことがなかったが、読んだ内容も忘れているので漫画とアニメの相違について云々することもできない。ただちびねこはちびねこだと思った。洋書の翻訳もそうだが、翻訳でも伝わるものは伝わる。翻訳でなくても伝わらないものは伝わらない。しかし伝わる人には伝わる。

子供をおろし、悪魔とお見送り。寒空を裸足に靴をはいて、しかしジャケットは着てかけていく。発表会だ。

子供は育つ。父親がどうしようもなくても。蒼い時を読み返していて、そういう意味でほっとした。

ボロキレ一枚まとって、公園をさまよう。夜。悪魔と。月は?雲がかかってみえない。ベンチに仰向けにねころび、ワインをラッパ飲みしては星をながめる。悪魔はもぞもぞうたた寝。元気だせよ。夜なんだから。

警官がきて、なにしてると問うた。「みての通り」「身分証明書は?」「なぜです」みせる理由がないと伝えた。「公園で寝ているのがなぜわるいのですか」「こんな時間に」などということを言った。こんな時間だからこそではないですか。店もあいていない、ホテルも泊めてくれない、夜があけるのを待っている。「家は?」ありますよ。家だっていつでも帰れるわけではない。さあ、寝かせてくれと私は警官に背を向けた。ベンチと体のあいだで砂がじゃりじゃりと音を立てた。

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