覚書6

女がいたのだが彼女はなんという名前だったのか私はつくづく記憶の弱いからよく覚えていない。

ブラジルの豆を挽いたコーヒーを飲んで彼女は言ったのだ。あなたはだからだめなのですね。

あなたはだからだめなのですね。私は街を歩きながら一体なにがだめなのだろうと考えたのだがそれが分からないから、夜明かしの店に入っては安酒を煽って考えるのだけどそれでもよくわからない。

みんな私のわきをすり抜けていく。誰もが何かを見ているようで見ていないのは、きっと酒か女のことを考えているのだ。店の並びは木綿と麻の服を売りつけるのは夏が近いからだ。みんなスマートフォンを見ている。みんなスマートフォンの中の夢を見ながら、でも今の目の前もどうして夢じゃないのか誰が言えるだろう?

夢なのか夢じゃないのか、私がいま人間なのか人間じゃないのか、人間と獣は足の数が違うだけなのか、わたしはわたしなのか他人なのか、そもそもその疑問じたいが形にはならないのか、なんだかだんだんわからなくなると尻のあたりがむず痒くなり、考えたくなくても考えてしまうから私は私を麻痺させる必要を感じた。それで私はまた夜明かしに入って安酒を煽ったのだけど塩味がするだけでなんの染み込みもしなかった。

私はまだ酔わない。

「ニーチェは釈迦の真似事だよ」とにやにやしていたのは市場の爺いだ。

傷んだ魚を売りながらにやにやする爺いは先生のつもりなのか。僕がどこにも行けないと思っているのか。酒を煽る僕を愚弄することは許さない。私は獣であっても私は人間だと思っている。その私を愚弄することを許さない。許さないけどどうしようもない。

お節介はやめ給え!君は僕に説教をするつもりなのか。きみは私よりも偉いかも知れないが、私のことをなにも知らないじゃないか。私を救うつもりもないのにめったなことは言わないでくれ。私はもう分かっているんだ。私は分かっていないことを十分分かっているんだ。

おんながくるくる舞っている。随分きれいだが全部水の中だから見えるものは曖昧で、僕も女も窒息するんじゃないかと思うが案外生きている。女は僕のために舞っている。どうかそのまま舞っていてくれ。僕の酔いが覚めるまでせめて舞っていてくれ。どこにも行けないように見えても、僕もあなたも進んでいるのだ。だからどうか見放さないでくれ。その証拠に全部水の中でも僕たちは生きている。生きていることだけは信じても文句は言わるまい。狭隘なビルの谷間にあっても、僕たちの命は確からしいと言ってください。

私はまがいものの夢から覚めた。

夢から覚めても酒は残っているから、夢が本当なのかそうで無いのか区別はつかなかった。

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