覚書7

携帯電話に下書き保存されているテキストを読んでみると、ちっとも記憶にないことばかり書かれている。

私が書いたのか私のために誰かが書いてくれたのか、わからないが日付をみると何年も前に保存されているようで、ということは私は何年かしてようやく何やら書かれていることに気づいたことになる。

とても頭が冴えている日は、私は私が忘れていることを忘れていたことに気づいている。忘れている日はもうただ忘れているのだろう。

私は下書き保存されているテキストを一つずつノートに書き写していった。書かれたものの手つきはさまざまで、私が書いたようにもみえるがそうでないようにもみえるし見当がつかない、ただそれを写してみると私は確かに書いたに違いない!と思えたり、やはり気のせいかもしれないと思えたり、それをさっきもやったかもしれないと冴えている私は薄々気づいており、ページを戻ると同じテキストを3回ほど写したところであった。

テキストに私はと書いている私は、酒を飲むとデリヘルを呼んだ。彼は彼女を迎え入れて、ただ話を聞いていた。彼女は看護師になりたいという。目が明るくて、躊躇いがない。私はお札を何枚か取り出して彼女に手渡す。ある人はB型肝炎だという。彼女も看護師になりたいという。虚な目をしていた。舌は少しもつれている。私は話を聞いていた。お酒を飲んでいるといつのまにか90分が経っている。ベルがなり、私はお札を何枚か取り出し彼女に手渡す。指名するかしないかで金額がかわる。ランキングもありNo1だとそれなりの料金になる。私は、という私はNo1を指名してみる。

No1は確かにスタイルが良いとか器量が良いとか、そういうことでNo1ということには納得がゆく。私はしかしお酒を飲んでおり、彼女と90分何を話したのかほとんど、というかまったく覚えていない。話だけして帰ったことはあるのかと聞いたかもしれない。ただそういうこともあると言ったかそういうことは初めてだと答えたかは今の私にはわからない。

彼は何をしたかったのだろうか。彼女に触れないということをしたかったのだろうか。触れないという特別なことをしたかったのだろうか。彼は何を買ったのだろうか。金を捨てる行為を買ったのだろうか。

呼んだのに、眠ってしまったこともある。朝気づいたら何件も着信が入っていた。看護師を目指している彼女だった。それから会うことはもうなかった。

別の人を呼んだときは、酔ってはいたが部屋を開けることはできた。マッサージをしてあげようと酩酊状態でなければ言わないようなことを言い彼女の背中を指圧しているうちに眠気に勝てずにすぐ眠ってしまったらしい。私は財布を放り出し取って行ってくださいと告げた。彼女は最初から笑顔一つ見せず、ただ金を回収し去って行った。怯えたような目をしていた。

私はそれから数ヶ月後のテキストでは、百万遍を歩いている。交差点で信号待ちをしているフランス人のような女性の尻を一生懸命眺めていた。信号が青になれば私はフランス人の尻を追いかけた。貪るように私は尻を追いかけていた。途中で彼女が銀行に入れば私は前を歩きながら、後ろの尻を追いかけていた。尾行も前からするのだから、お尻だって前から追いかけることがあっていい。私は後ろのお尻を追いかけながら背中のリュックが重いので喫茶店に入りたいと思っていた。

交差点を過ぎたところに一軒、喫茶店があったが入ろうとすると、店員が近づいてきて、学生か否かと問うのでわからないと言えば怪しまれるだろうから、学生ではない、と私は言った。彼は申し訳なさそうに、このカフエは学生限定なんです、すみませんとそそくさと言った。こんなにすいてるのに学生限定にしているのはどういうわけかわからなかったが、限定ではしようがない。

店をあとにして、よたよたと歩いているとまたフランス人の尻が後ろから現れた。私はそれを一生懸命、そう見えないように追いかけた。

大学のキャンパスには銀杏の実がぱらぱらと落ち始めていた。やがてこの道は異臭が立ち込めることになるだろう。少し肌寒くなってきた。いつも通ったような道だった。

学生の頃によく立ち寄った古書店に入ってみると、当時は気にもとめてなかっただろう本が目に入ってくる。古書店巡りの醍醐味は絶版本との出会いにあるかもしれない。テキストの私は時間に追い立てられているようで、平積みの本まで物色する時間もないまま、『精神分裂病』という今は絶版になっている書籍を1000円で購入し店を出た。

地元の精神医学教室の教授は、「統合失調症というのはよくない」と学生向けの講義の中で言った。黒板に丸を描いて、それに斜線を引いてみせた。このように風船が裂けるように精神が分裂してしまうのが分裂病なのだという。ブロイラーの言った分裂病は精神の分裂ではなく、連合弛緩のように連想が分裂するということで分裂というのは単に統辞法の問題を指摘しているに過ぎないと聞いたことがあったが、そのようなことを指摘する学生もなく彼は「分裂病は治らないですね」と続けた。私は治癒した例を一例しか経験したことがない、と臆面もなくのたまっていた。

かれこれ18年くらい前に住んでいたキャンパス前のアパートは今でも外観はほぼ当時のままのように見えた。暗証番号の入力が必要な玄関の前にぼうっと立ち尽くしていると中から人が出てきた。不審者と思われないように私は慌ててアパートを離れたが、アパートから出てきた男性も私と同じほうへ歩いてくる。車道を横断し、私は何食わぬ顔で男性の前を歩いていた。私が行きたい方角とは反対になってしまったが今更方向転換して不審に思われてもいけないと思いそのまま私は歩き続けた。やがて男性は私を追い越してコンビニへ入って行った。なにやらATMの操作をしているようだった。ぷりぷりとしたお尻の男性だった。だからどうというわけではないが。私は一生懸命お尻を見ていたに違いない。

男性がコンビニに入って機械に気を取られているうちに私はそっと踵を返した。

街路に彼岸花が咲き始めた。コオロギやスズムシも鳴き始めている。大学には当たり前のように常に学生がいて、同じような風景が20年近く変わらず続いていたのだろうか。石垣のカフェはとうの昔に撤去されたようだったが。

秘密基地への憧れは常にある。秘密のアジト、アジールである。木や石でできた頼りない階段を昇り、暖簾をかき分けて入る暗く小さな部屋といえるかどうかわからないが小さなひと区画に、いつもいるような人がいて、ただ10年経とうが20年経とうが昨日のことのように迎え入れてくれる、そういう人たちや場所はどこにあるだろうか。

私の一日と持たない記憶が鮮明なうちに、鮮明と思っているうちにも薄れているだろう不確かなものをそのまま残して、書き留めているうちに、記憶を持たない喫茶店のマスターのことを不意に想った。彼には記憶がないが、彼自身がその店の記憶であり年輪だった。

場所の記憶は大地への信頼だろう。私の記憶などどうでもよい。