石徹白

石徹白は美濃の奥にして霊峰白山の入り口である。

美濃禅定道と申し、越前、加賀、美濃にまたがる白山に美濃側より至る信心の道である。

山間の道を川に遡って歩くと道なりにはいくつか白山信仰の社や寺が点在して、そこを越えて石徹白の集落に至り、山に踏み込めばまずは別山の峰、そこから尾根を白山の御前峰へと辿っていく。

石徹白は白山のふところである。

白山中居神社なる古社あり。もともと石徹白には縄文初期の有舌尖頭器の出土あり。上古の昔より人の住みたれば神への崇敬は以来途切れることなく続いている。

日は高く青空一片の翳り無し。

山々に囲まれた大きな手のひらのような土地に田畑が広がり、高原の別天地だ。

白山中居神社の区域に至る道路はしめ縄が張られ、車がくぐると見事な一の鳥居の姿が見える。

青銅の鳥居の見事さは類い稀にて、黒く渋くくすんだ本体の継ぎ目にところどころ緑青が青く閃くのは清水に光が照り映えて深い青が見えるような心地がする。一の鳥居をくぐれば次には大杉の二本並ぶのが見える。これが二の鳥居かと思われ、その間を人々は砂利踏みながら進むわけだ。

そうすると清冽の川の音が耳に近くなり、沢に降りるとビロードのような滑らかな水面の川の向こう側に巨きな拝殿が見える。風雪に磨かれて白に褪せた匂やかな木の拝殿が、人々の信心で積み重ねられた堅固な石垣の上に立っている。

川には石とコンクリートで固めたしっかりした橋がかかり、人の二人すれ違うばかりの幅を歩いて渡る。渡って石段を登れば白山中居神社の拝殿、さらに石段があってその上に本殿がまします。大岩の磐境がある。かつて縄文の昔よりこの磐境でまつりが行われたと言う。

白山の神様はまことに優しく美しい。

私は比咩神様の承認を頂いた。

まことに如何に下界にて人離れ、侮蔑されるといえども白山の神様の心持ちを頂くことを忘れなければ生きることは遥かにたやすい。問題は私が弱いためにこの心持ちを忘れることにある。人の承認を大切なものと誤認するところにある。私がいかに身体、頭、心が弱くとも、神様から承認されているなら問題は無いのである。

常に「私と神様」「あの人と神様」なのであって、人の間の毀誉褒貶などは神様からの承認の前には意味のないことだ。

私は定期的にやはり白山に、登れずともお会いしたく思った。

冬タイヤにそろそろ変えようと思った。

空谷子しるす

冨波

冨波というのは近江の野洲の土地でいくつか5世紀頃の古墳がある。

冨波に思い入れがある訳ではない。祇王の伝説がこの辺りにある。8号線を車で走ると妓王の文字を良く見る。祇王というのは清盛の白拍子である。寵愛を受けたが後に清盛の心が離れて出家した。今も祇王寺が京都奧嵯峨に残る。

その祇王の出身がこの辺りで、祇王が清盛に訴えたから祇王井川と童子川という水路ができたというのだ。伝説にいわく当時には野洲の地は水不足であった。祇王は清盛に故郷の渇水を助けることを願いそれがために水路が開鑿せられたというのだ。

水路開鑿の折に水が行き詰まり工事が蹉跌した。すると謎の童子あらわれ「我の引く縄の後を掘れ」というから言う通りにしたら水路が通じた。それで水路の上流は祇王井川、下流を童子川という。水路は野洲川から日野川の間を走っているがそんなことはどうでもいい。

近隣に菅原神社や屋棟神社あり。屋棟神社は昔は妙見宮といった。やや離れたところに見星寺あり。由緒はわからない。見星というのは釈迦が十二月一日から座禅三昧に入って八日目、暁に流星を見て大悟徹底されたことを見星悟道と申すことに端を発する。というのは大分の見星禅寺の由緒に書いてあった。

この土地には古くから星の信仰があったのかもしらん。妙見宮は北極星の信仰である。菅原神社があるのも雷神信仰がもともとあってそこに道真公の信仰が重なったのかもしらん。そもそも京都の北野天満宮も彼の地に雷神信仰がもともとあったという話をどこかで聞いた気がする。雷神信仰や星の信仰は渡来の人々の信仰だ。天満宮のある所は渡来の人々の土地であるかもしれない。大阪の服部天満宮は道真公以前より秦氏の信仰の土地であった。日本にも常陸の大甕神社のようにごく稀に星の信仰もある。しかし星神は日本の神社には稀なことである。雷神は日本には武甕雷命、鴨別雷命などおわします。

なんとはなしに祇王の伝説に心が惹かれてあれこれ調べていると様々なことを思う。本当のことは何もわからん。

縄文の人々が国津神なのか弥生の人々が天津神なのかもわからん。

しかしいずれかの国のいずれかの人の言うような縄文と弥生とどちらが優で劣ということはない。いずれもただなんだかよくわからぬ神の道というものに沿うことを思う。卑しむべきは人の欲や悪である。尊ぶべきは赤心である。外と内とにその違いは何もない。

空谷子しるす

小児科3

退院サマリーを非常に細部まで指導を頂戴した。書き直したが一部に見落としがあり、指導医が「二度目だよね」と怒りを滲ませたのは仕方ない。

指導医によってスタンスがちがう。

私はいい加減こうしたことに慣れないといけないが、生来の粗忽のせいなのかよく手抜かりがある。

担当していたこどもたちは幸いなことにみんな元気になり退院した。私は深く神様に感謝する。

しかし指導医から叱られたり(それがありがたいことはわかっている)一年目から嫌がられたりすると落ち込む。私は弱い人間である。褒められたり気にかけられたりしたい。

私は白山のことを考えた。

白山は日本を代表する霊山のひとつであり美濃と越前と加賀にまたがる。

生まれ変わりの山でもある。白山の神は菊理媛命と申し、伊奘諾命が冥府より戻ったときに現れた神である。

白山はとても特別な山で私は大好きな山だ。一番の山だと思う。

東の山々、美濃の山々が気にかかるので、何とはなしに色々地図で調べていたら美濃禅定道に行き合った。

白山に登るのは休みが取れない。しかし禅定道の社に参るのはあるいは可能かもしれない。

私はいつも答えを期待している。なにかこうしたらよいという方に導かれることを期待している。また、今後の苦しみが避けられることを期待している。仏に手を合わせる時は、キリスト教的に言えば煉獄にあるだろう私の先祖が救われることを期待して灯明を上げる。

私は知らず知らずのうちに白山の神に助けられてきている。登るたびに大きな慰めを得る。その気分のまま、下界で暮らし続けられたらいいなといつも思う。しかし私の心は揺れ動く。

私は週末、天気が許せば美濃禅定道に向かいたく思った。

空谷子しるす

備忘録1

いま考えごとをしてたでしょ
と女は言った。
あなたは何かしら手でいじってないと気が済まないのね
とも言った。

おそらくは軽い意識障害なのだろう。
時間と場所が分からなくなることはない。
我を忘れる程度でしかない。

忘れたことも忘れているに違いない。
こうして書き留めているいことも、いつからの習慣だったか思い出せない。
忘れたことを忘れないように、それを覚えている内に書き留めた最初のものなのか、8番目のものなのか、それも忘れてしまっている。

こうなると困ったことに、外界からの影響を受けやすくなる。
他者の感情が勝手に入ってくる。
他者の感情が分かるということでもあるのだが。

とりたてて騒ぐことでもない。
人間であれば誰にでも起こることだろう。
程度問題にすぎない。
テクニカルなことを言えば、自我境界をゆるめるということである。
右派はそれが苦手で、空間に遊びがなく緊張が強い。
左寄りな私は、その辺りがかなりルースになっている。
私という連続を疑うことはもちろんないが、時に不連続を自由に楽しむ遊びがある。

時に度を過ぎると、ろくでもないことをしでかすこともある。
射精を知らぬ幼少期の私は、時に女に尿を引っ掛けて恍惚としていた。
あるいはビルの上からジッポライターに灯した火を落としてドギマギとしていた。

人と話す時、
私の関心は、いつの間にやら、相手の主体の構成へと向かうようだった
相手の、その主体へ、その一なる切痕へ、一なる穴に吸い寄せられるように我が溶けていく
その時私は、私という連続性を保守しつつも時に不連続にジャンプし渾然としていく
私はそのように幾多の女と、それに劣らずたくさんの男と交わった。

あなたはただ女と寝たいんでしょ。
私は、一人の男に愛されたいの。
そう言った女は最初の女だったかもしれないし、8番目の女かもしれない。

そうやってあなたは誰とでも意気投合するのね
とも言った。
あるいは別の女だったかもしれない。

多賀2

昨日は土曜日であった。午前中病棟に行くと部長先生がおり、彼の患者を共に診察して色んなことを教わっていたら午前が過ぎた。

私は自慰をすべきか否か悩んでいた。中学2年に精通して以来、自慰をすると自分が醜く、さまざまな能力が低下し、他者からもますます嫌われるような思いがしてきた。

南方熊楠いわく、南水漫遊という本に鉄眼なる高僧あり。雪中庵にて閑居しておれば一人の見目麗しい婦人来たりて宿を乞う。鉄眼若き丈夫なれば己の煩悩の火がつくをおそれて婦人に宿を貸すを渋ったが外は大雪だ。婦人は人の妾なれば本妻に妬まれて追い出され郷里に帰る途中の大雪なり。婦人このままでは野垂れ死すべしとて鉄眼に涙ながらに訴える、鉄眼もとより心清ければこの婦人の命救わざる能わず、やむを得ず婦人と一晩同じ屋根の下にいることになった。婦人命拾いしたりといえどもやはり若い男と同じ屋にいること不安でならず、床より鉄眼の様子伺えば鉄眼あろうことか己の屹立したる男根に自ら灸を据えて必死に仏念じては耐え居たり。夜が明け女出でて、本妻死にたる上に改めて自らが本妻になったる後夫にかの雪の夜の顛末語る。夫、大きに感心して鉄眼探し出し寄進することひとかたならず、寺が建ち一切経を出す手助けとなったと。

性欲を一生がまんしたら私も少しは立派な人間になれるだろうか。鉄眼のような立派な人間になれるだろうか。私の陰茎は勃たないのに性欲だけは多少ある。

貝原益軒の養生訓にいわく30代の男は8日にいっぺん射精すべしと。

貝原益軒が正しいのかどうかわからない。射精をがまんするのはむしろ体に悪いのか。

真剣に考えていたら腹が減った。卵と牛乳が尽きていたからコンビニに向かった。

外に出ると空は青く空気は澄んでいた。私はお多賀さんに参りたくなった。

夕に近くなりお多賀さんは閉門まぢかであった。

秋の夕の傾いた日に照らされてお多賀さんの檜皮はいよいよ美しい。

多賀の杜には人はまだいささか居り。女子中学生の群れがみくじを見せ合ってきゃあきゃあ騒いでいる。大型観光バスで来た高齢者たちが写真を撮っている。夫婦づれが並んで歩いている。

私は小あゆの煮付けと一合の酒を買って帰った。

結局その日私は自慰をした。筒井康隆がやってしまった後の背徳感があるから自慰はいいというようなことを書いていた気がする。筒井康隆の言うことはいつもよくわからない。

自慰をした私は日曜の当直を無事に乗り切れるだろうか。

自分のやれることをやり神様の御助けを期待するしかない。

空谷子しるす

春日

春日若宮社が20年目の式年造替を果たし、そのしめくくりに境内に白砂をまく「お砂持ち」を行うと聞いたから母と赴いた。

お砂持ちには一般人の参加もさせてもらえるので、春日大社の駐車場に車を停めて若宮に向かう。

母は先週の椿大神社の神山入道が岳登山中に転倒し、大腿内側に打撲を負っていた。整形外科によれば著明な骨折認めず、脳外科によればいまだ頭蓋内に著明な血腫なし。しかし歩くと痛みを伴う。20年ぶりの行事だから無理をおしても行きたいようだった。

春日の空は晴れていた。

風もなくやわらかな光が御蓋山の原生林に差し込んでいる。

藤の老木が伸びて、化石のような力強い体躯を見せている。

私たちは手渡されたちいさな袋に灰白色の砂礫を詰めに詰めて、改まった若宮社に案内される。

朱。というものがある。赤い塗料だが、まことの朱はこの春日大社の本殿と若宮社にしか塗られない。日本の中でここだけの朱塗りである。

まことの朱は上等の紅しょうがのような色調で、しかも深くて淡い。香りたつようなその赤色は邪気を払う。

私たちは新しい若宮社のまわりに砂を撒いた。

陽は暖かく、世は改まりいよいよ力を増す。

空谷子しるす

誤診と信心

とうとう私は当直中に重大な誤診をした。絞扼性イレウスを見逃した。

80歳の男性は腹痛に苦しみ、前日朝から排便がないと訴えていた。私は便秘を疑ったが年齢が高いから、なにかで閉塞していたら嫌だなと思い単純CTを施行した。

画像を見た上で私は回腸の明らかな壁肥厚と横行結腸の狭小に気づかなかった。

男性の看護師が一言「造影CTの準備できていますよ」とだけ言った意味が理解できなかった。

他の患者対応に取り紛れている中で指導医が彼を外科に紹介した。

私一人なら彼は死んでいた。

私はこの経験で自分を責める真似はせず、ただの現象に還元しようと思っている。つまり「こういう画像が絞扼性イレウス」という一症例に還元しようと思っている。

しかし無意識は私を苛んでいる。特に私は周りが私を無能だと思うだろうことに恐怖を感じる。看護師が、上級医が、研修医が私を見下すことを恐れる。

私は北陸の妙好人のようなひとすじの信心の世界に憧れる。雪の冬の晴れた日に潤い冷たくわずかな気流が鼻を抜けるような感覚を感じる。小テレジアのようなひとすじの信心に憧れる。暗い部屋の中に光が差し込むようなひんやりとして温かい感覚に憧れる。

ただ信じる、ただ耐えることはとても難しい。私は疲れ、なぜ昨日はあんなにどの症例でも頭が動かなかったろうと疑問を持つ。等身大の私の実力だと思う。「もっと鍛える」必要はある。自力。自力の伸長。

他力に全てを任せるというのは自力の伸長を放棄することとは違う。

いわば自分の意識や素地が他力のことしか考えぬので、客観的には遅鈍ながら自力にてわずかに努力している。その努力の遅鈍なことはしばしば責められる。しかし、客観的な努力の向上すら、実は弱い者にとっては一切を他力に親しんだ方が良好である。頭の中には他力しか目に見えておらず、安心の境にあるのみなのに、客観的にはそちらのほうが仕事はしている。

ピオ神父は「不安や焦りは沢山の仕事をするように見えて実は何もしない。まず祈り、安心しなさい」と言った。これは真実である。

「夜と霧」の中で、歌を歌う人間や神に信心する人間がかえって生き残ったという話を読んだ気がした。

私は大きな危機があると、苦しみ悶え母や兄に恨み言を喚き散らした後、安全弁のように北陸の妙好人や小テレジア、ピオ神父のイメージが訪れる。

浄土教と、カトリックと、神道と、あるいは他の一筋の信心とが、互いに異なりながらどこかで同じものになることを期待している。

空谷子しるす

そんなこと言ってたら、あかなめから電話くるよ

6歳娘が、だだをこねる3歳息子をたしなめる
娘:そんなこと言ってたら、あかなめから電話くるよ
息子:ママ、こないよね?

母親が、風呂に入らない3歳息子に教え諭す
母親:お風呂入らないと、あかなめがきて舐め回すんだからね
息子:ママ、あかなめ来ないよね?
母親:お風呂に入ったらこないよ

3歳息子が母親におねだりする
息子:ママ、あかなめやって
母親:あかなめ-、なめなめ-
息子、娘:きゃー

やはり子どもには異界の言葉がなじむらしい

念仏三昧、症状三昧、つまり享楽

ある末期癌の高齢者は、沈静して欲しいと強く強く訴えた。
彼には多くの末期癌患者がもつ身体の痛みや呼吸困難がなかった。
じっとしていると不安で仕方がないから眠らせてくれと。
彼の訴えは我が国で禁止されている安楽死の希望ではなかった。
しかし沈静であっても、死期が迫っている状況でなければ実施できない、と我が国(の緩和医療学会の)の倫理は判断する。
私は何を思ったか「息が苦しい人も、痛みでしんどい人もいる中で、あなたは随分と気楽なはずですよ」と応じたが、病者には何も響かなかった。
振り返って反省するとともに、なるほど、症状がなければある種の苦痛が顕在化するのか、と気がついた。

ある思春期の少年は、コロナワクチンを接種後にさまざまな症状が出現し、学校に行きづらくなった。
元々周囲の刺激に対して過敏で、緊張・不安が高まりやすい性質であったのだろう。
その少年が、よく眠れた日は頭が働いて様々に考えて不安になってしまうから苦痛だ、と訴えた。眠れなかった日のぼんやりした感じの方がむしろ不安が少ないと。

私はかつて大学生であった頃に庭づくりのアルバイトをしていた。
春先に小振りのモモやサクラを皆で掘り起こし、運んで植えて見栄えを整えていた。
夏には北山杉に水やりをしていた。
今思えば優雅な日々であった。
様々な人間がアルバイトにきていた。
その中に、前職は警備員だったという寡黙な青年がいた。
その青年は、肉体労働と警備職を比較して次のように述べた。
警備員の仕事はきつかった。ぼーっと立っているだけで仕事になるから、あれこれ考えなくてもいいようなことを考えてしまう。その点、こうやって体を動かしていると時間を忘れるからありがたい。

緩和ケア医の岸本は、子どものみならず、がん患者もまた異界に接する言う。
従って、子どもだけでなく、がん患者においても言葉にならない、イメージを大切にしなければならない、と。

岸本の文章を読みながら、これら違うライフステージにいる、三者の訴えは全て同じことを指していることに思い至った。
彼らは皆、異界に触れたのである。
子どもや病者のみならず、人間が自由というものに接すれば、その時すでに異界が口を開けており、半分片足が入っている。
異界の歩き方を知らなければ、緊張を緩和できず、不安を惹起させるらしい。

我々は症状をもつことで、自由の緊張を、不自由を緩和しているのだろうか。享楽しているのだろうか。
異界を歩くには症状があったほうがいい。
埋没できる症状が一つはあった方がいい。
ガイドブックにはそう記載しなければならない。

症状なき者が異界の歩き方を知らずに不安と向き合うと、現代医学は貧しいことに病気にしてしまう。
全般性不安障害などさぞ使いやすかろう。
余分な名前だけ与えて緊張を緩和せぬ貧しさよ!

鎌倉初期に浄土門の念仏が普及したのは、そういう消息だろう。
念仏という日々の症状をもつ方が渡世によい。
念仏は症状であり享楽である。
統合失調症者の幻聴、一なる声は念仏かもしれぬ。
念仏がなくなれば寂しかろう。
われわれがここにしょっちゅうあれこれ書きつけるのも、症状であり、排泄である。
親鸞は念仏の行よりも信心の信に重きを置いた。
量ではなく、質であると。
一念、多念の差異など瑣末なことである。
親鸞は教義にこだわりこの点を見逃した。
臨床はすべからく、苦しむ者の具体的な困りごとに添わねばならぬ。
具体的な困りごとを差し置いて抽象をうんぬんするなど、エロスを解さぬむっつりスケベに任せておけばよい。

さて、かくいう私はいかなる症状を、いかなる享楽を処方しようか。
念仏を処方することは、この時代には困難である。
未熟者の私にはまだ答えがでない。
従って人様を批判できたものではない。

日々の緊張を緩和するにはいかんせん。
人々がセルフマッサージ、ストレッチができるような具体的手法はなかろうか。
やはり、緊張の緩和=笑いという枝雀の直観に魅了される。
ボケ、ツッコミ、笑いという舞台を現前せしめることが私の具体的な臨床アートである。
それは一つの運動で、緊張をほぐすマッサージとも言える。
思えば私はボケ病、ツッコミ病である。
常にボケようと頭が働き、常に何かにツッコんでいる。それを享楽している。
私が連続しているという信念に、保守に、ツッコミを絶えず入れようとしている。
緊張に笑いを。
この病を広げることが、宗教なき世の私の手練手管となるだろうか。


小児科2

「僕が1、2年目のときは君なんかよりずっとくそ真面目だったよ」と指導医は言うのだ。

彼は20年目以上の医師であり神戸中央市民病院で初期研修をした人である。

黎明期の神戸中央市民のような卓越した病院で研修をしたならば間違いなく私は屑だろう。

喘息の患者が来て入院することになった。

「僕がやるか、君が全部やるかどうする」と言われ、

当たり前だが無能の私より有能の指導医がやった方が患者には好ましいのだから私は正直に「自信がない」と言った。

指導医は「2年目だろう」と言い呆れた。

しかしあるとき病棟でカルテを書いていると消化器内科のNo.2の先生が隣に来た。

「小児科で主治医になってるじゃないか。すごいな」と言われた。

なぜ彼が専門と関係ない小児科のことを知っているのかわからなかったが嬉しかった。その患者が何もやることのない退院待ちだとしても嬉しさを感じた。

誰だって自分を馬鹿だと思いたくない。

「いっときだって自分を馬鹿だと思っていられるか」と志ん生の『火焔太鼓』の主人は言う。

しかし明らかに私より同期や一年目の方が優秀であり、小児科指導医は彼らをよく褒め、私のことは褒めない。

こんな汚い無様な男が35歳の初期研修医なのだ。人から褒められないとかけなされるとかで精神の平衡を失う。小学生のような幼稚さを固持している。こんな醜いことがあるか。「大人の男」になれていない醜い中年男性というものはこの世で最も唾棄すべき存在だ。一体いままで何をしてきたのだと言われたら、わずかに生きていたとしか言いようがない。大量の言い訳はできる。背負わなくてもいい労苦ばかりだった。私に関係のない災難は大量に降ってきた。脆弱な体躯の私にそれらを跳ね返す力は無かった。しかし世の中は目に見えることが全てだ。私はこの世に生きている必要がない。無能の醜い中年男性だ。私のしてきた苦労だって、平均的な男性なら必ず克服できただろう。つまるところ私は生きるのに必要な資質がない。

私はよい医者になりたい。

しかし無能であればよい医者にはなれない。

私はどうしたらよいのか。35年生きてまだ無能の私はさらに無能として憎まれながら進むしかないか。

私はとても醜い。

空谷子しるす