専攻医

もはや私は立場上初期研修医ではなくなった。

某大学のなかで私は小児科医として勤め始めた。

「○○先生と同じことができるようにならないといけないんだからね」

「患者のことは全て把握しないといけない」

と、病棟医長は仰る。

私は少しでも自分が成長すること、患者の害にならないことだけを考えている。

専門医の資格がとれるかどうかはわからない。明日のことを思い煩うなと聖書にある。私はその通りにしようと思う。

大学病院は極めて複雑な病態の方々ばかりである。今の自分にはわからないことが多い。

自分がどう言われたとしても、患者の害にならないために動きたいと思う。

ようやく一週間たち、体は重たい。

うまくいくことを祈る。

空谷子しるす

英彦山

英彦山は大分の山にして修験の霊場である。

私は引越し、行政手続き、古巣の病院への挨拶回り、彼女を私の親に引き合わせたりして、枯れた。実家、新しい居住地、近江湖東をなんども車で往復し、引越しは赤帽の気さくなオッチャンを手伝って荷物を運んだ。

疲れが高まると体が駄目だと言い始める。

私はしばらく停止した。貴重な予定を停止して不義理を行った。

そうする内に体が動くようになったので、私は英彦山に参ることに決めた。

英彦山は古くからの修験の山であり正勝吾勝勝速日命を祀る。

小倉から日田彦山線に乗る。香春岳の一の峰がセメント採取により消滅している。香春岳もまた古くからの信仰の山である。人の営みは山を削る。

添田駅に着いたら代行バスに乗る。日田彦山線は災害のために中途で断線し、この夏から鉄路に代わってBRTになるのだ。

彦山駅からは交通手段が絶無に近い。

駅から山に向かって歩く。アスファルトを歩くと車がつぎつぎと私を避ける。歩道の無い道を歩く。春の空はおだやかで日が暖かい。遠くに見えるのが英彦山だ。桜の白色が山のあちこちに見える。

旧参道に入ると一気に石段の道になり、一段一段を超えていく。山に登るのは、私の場合はどうしても山に助けてもらわねば登れるものではない。ハアハアと肩で息をしながらそれでも足が前に進むのは、山の神の許しがなければできることではない。参道にはミツマタの花が咲きこぼれている。淡く黄色い花がたくさんこぼれているのはとても可愛らしい。

ながながと伸びた斜度のきつい石段を超えきれば英彦山神宮の朱色の巨きな社殿だ。山は水が湧き、風がやわらかで空が近い。

私は祈った。いろいろなことを祈った。素朴な人の願いはただちに叶わないが、しかし祈ることで人の思惑と全然関係なく良いものとなりうる。人の望む形と同じではないが良いものとなりうる。

私は感謝してお山を去る。

遠足のこどもらがキャッキャとはしゃいでいる。

桜が咲いて里に山の神が降りて来ている。

今年もつつがなくありますように。

空谷子しるす

星田

星田神社と星田妙見宮は大阪は交野の土地にある古社であり、饒速日命を祀る社である。

初期研修が修了した。個人的にはできることは全てやった。一人でルンバールができるようになった。他にもいろいろとできるようになった。できないままのことも多く残った。

星田妙見宮は小高い丘の上にある。その丘は馬蹄型にえぐれた谷がある。これは隕石が墜落した跡なのだ。弘仁7年、弘法大師が交野の獅子窟にて修行の折、北斗七星にわかに三つにわかれ地上に降った。ひとつは今の降星山光林寺のあたり、ひとつは星の森、そして最後がこの妙見宮の丘に墜落して爆散した。

星田の名が示す通りこの土地は空と関わりがある。

天皇の一族に先駆けて高天原から降りたのは饒速日命である。彼は巨大な乗り物である天磐舟に乗って、生駒山麓北端の哮が峰に降り立った。その岩は今も磐舟神社とて大切に祀られている。その磐舟神社のあたりから流れる川が天野川といい、この星田の地を潤して淀川に合流している。

天野川というからには七夕の伝承もあって、

星田妙見宮は織女、天野川を挟んで対岸の天田神社には牽牛を祀るという。星田妙見宮の山頂には巨岩があり、これを織女石(たなばたせき)と言う。

この星田の地は他の土地と同じくとても古い。祖先のまた祖先から延々と人が暮らしてきた土地である。

人はどこから来てどこへ行くのか知らない。

春日大社の元宮司の葉室頼昭氏は、自らがむなしうなったら神霊の仲間入りをし、人々の助けとなることを思っていた。

私も自分がそうなればいいなと思う。

空谷子しるす

老師講話③

子宮は他者のための唯一の臓器
閉経していて、手術でとらないといけないということなら、神様に返したらいい。

あわれみはヘブライ語でラハミームという。
ラハミームはレーハムの複数形
レーハムは子宮のこと。
つまり、ラハミームは子宮の集まったところ
子宮は他者を拒まないところ。どんな人でも受け入れる。命を与える、育む。
レイプという悲劇的なときでも拒まない。それくらいすごいところ。
その子宮が集まったところ、それをユダヤ人はラハミームと表現する。
聖書の世界はヘブライ語からギリシャ語に翻訳されているが、
ラハミームをギリシャ語に翻訳するとスプラングニゾマイ(σπλαγχνίζομαι)となる。
スプラングニゾマイは、はらわたがちぎれる思い。それくらい憐れみの感情を持つ。
それくらい可哀想に思う。上から目線ではない。
その臓器を返す。
手術で子宮をとらないといけないのであれば、神様に返すと考えればよい。

以前、骨肉腫で足を切断した人が、それを神様に返すと言っていた。
失うのではなく返す。
手術でとらなあかんではなく、それを神様に返すととる。
ほんまにそうやなあと思った。
そう考え方を変えると生き方が積極的になるでしょ。

命は神様に委ねましょう
体は医学に委ねましょう
あなたは生きることに専念しましょう
私は病人にはそのように言ってる。

命はどう逆立ちしたって自分の自由にできへんやん。

いやカトリックにはご聖水がありますから。
ルルドの水やら。
そんなんアホじゃ。

老師講話②

姦淫はダメです
伝統的なプロテスタントの信者はすぐにそう言う。
だって罪でしょ、と。
聖書は罪を犯したといっぱい書いてる。
それに捉われて視野が非常に狭くなっている。
そんなんキリスト教ちゃう。
神様は人間を非完全なものとしてつくったんですよ。
だから、非完全でいいんです。だから宗教がいるんです。
もっと宗教から、親から離れないと。

老師講話①

聖書は文字通りにとったらあかんねん
イエス・キリストが盲目の治した話が聖書にある(ヨハネによる福音書 第9章)。
あれは奇跡だというが、奇跡でもなんでもないと私は考えている。
眼が実際に見えるようになったのではなく、心の眼が開いたということや。それで感動して、見えるようになったと騒いだわけや。
そういうことやねん。人生開眼っていう方向にならなあかんねん。
俺の人生これでいいんや、と。
無理にがんばらなくっちゃと思うと、たつもんもたたん。
50歳まで生きられるなら、それでええやん。
それを喜ばなくっちゃ。

骨流し

長崎、坂の町。
港に山が迫っており、斜面にもわずかな平地にもところせしと建物がひしめき合っている。

8時半に京都を発ち、博多と乗り継ぎ、長崎に降りた。
リレーかもめ号は深い紺青が格調高い。かもめ号は打って変わって、上品な白を基調とした列車であった。
5時間の移動に、娘は疲弊した様子であった。
この子は疲れは知らぬが、退屈を内省に使うことはまだ知らぬ。
終末期の患者同様、退屈は強い苦痛をもたらす。

港が近いからか、雨が近いからやや蒸し暑かった。
特急の発着する駅構内の美しさと対照的に街の雑居ビルは色褪せて汚かった。

26聖人のレリーフは長崎駅にすぐに迫った坂の途上にあった。
街にはところどころに防空壕があった。
しかし、その防空壕はどれも小さいもので、多数を収容できるものではない。
投下されたとき、防空壕内に避難していた人たちのうち、助かったのは奥にいた人たちだけであったようだ。
平和公園には平和を希求する願いをこめて各国からモニュメントが寄贈されている。中国からのそれには、時折心なきいたずらがされるという。

我々は、骨をまきにここまできた。
戦争末期、幼かった骨の持ち主は兄弟でよくU川にうなぎをとりにきていた。
その日も兄はうなぎの仕掛けに行き、彼は姉と防空壕に避難していた。
姉は用事があると家に向かった。
まさにその時、かの無慈悲な爆弾が投下された。
両親、兄、姉は一瞬で吹き飛んだ。
U川は水を求める人で地獄と化した。
彼は世界でただ1人取り残された。
手に職を身につけ、彼は大阪に出た。
ある人物が貸した金を返さないことにカッとして殺めてしまった。
余生を四国の刑務所で過ごすこととなる。

長らくあるシスターが彼と文通をしていたが、そのシスターは高齢となり、Y神父に託した。
彼が獄中で病死した時、身元引き受け人であった神父が呼ばれることとなった。
教誨師としてではない。一般人としてである。
神父は所属する地区以外の教誨師にはなれない。

彼の哀れな生い立ち、Y神父は彼の骨を彼の遊んだ川に撒いてやろう、そう思い立ったのだ。
それではお供します。娘も伴います。
という段取りになった。

我々はM夫妻に案内されまずJ学校の聖母像の前で祈りを捧げた。
私は祈りに馴染みはあるが、クリスチャンではない。
ましてや初めて司祭の祈りに参加した娘は周囲をおもんぱかりながら、殊勝に手を合わせていた。
聖母像には、原爆でなくなった生徒や教員の遺品が納められているという。

その後、U川に赴いた。
昨日の雨のため普段なら対岸へと渡れる小石群は半ば水流の中であった。
U川の川幅は非常に狭い。
市内にはこのような川が二つしかないという。
よって、雨が急に降ると一挙に増水し、氾濫しやすい。
「殉教、原爆、水害とこの土地は3つの大きな災難に見舞われたんです」と案内人は言った。
M夫人の祖父の家は浦上天主堂の真ん前にあったが、これも一瞬で灰燼に帰した。
その浦上天主堂の真下には、爆風で吹き飛ばされた鐘楼の一部が武骨に突き刺さっていた。

幸い晴れた。
1週間前までは予報は雨であった。
しかし、晴れた。
対岸にはサクラやユキヤナギが咲いていた。
対岸を色で染めていたわけではない。寂しい灰色の背景に、一つ、二つと寂しそうに咲いていた。
川の中には一つの石があった。
ちょうど大人1人が立てる程度の面積の石が、岸から一歩の距離にあった。
Y神父はその石に定め、川上の人となった。
銀の十字架を一つ落としてから、白いさらさらの骨をまいた。
わずかに白濁した流れは、やがて透明となり、それは川と一つとなった。
その後小雨が降り始め、我々が稲佐山にたどり着いた時には本降りとなった。

M夫妻は望んだが子が得られなかった。
M夫人は若くして持病を持ち、維持透析をしている。

我々は、生まれる土地、時代、親、性別、何も選べなかったんです。
でもな、ホイヴェルス神父という人が、究極的必然性はない、と言いましてん。
とY神父はよく言う。

両者は矛盾する概念ではない。
前者は過去のことを、後者は未来のことに言及している。
自由意志のことでももちろんない。
自由意志はおそらく自力の別称だろう。
自由意志が存在しないほどに自力というものはしょぼい。
自力のしょぼさを自覚せぬ人間の自力をうんぬんする妄言には辟易する。
グランゴワールは自由意志をうっちゃって、奇跡御殿に達した。
自力と他力のバランスを目指さねばならぬ。
ああ、バランス!
あの聡明なキルケゴールも達することができなかったあのバランスよ。

せっかくなので翌日は原爆資料館を訪れようかと思ったが、娘が怖がるのでやめた。
私はなんでも覚えちゃうから、と苦しそうにしていた。
爆弾が怖いとなかなか寝付かなかった。
夜半、雷鳴におどろかれぬる。

8日目

素直なことは私の美徳だと思っている。そういうことは、普通、自分では言わない。だから、多くの素直で、かつよき人は、他人に評されるだけだ。だが、私は他人からも言われるうえに、このように自分でも、言っちゃうのである。

例えば、昨日WAIS-Ⅳ(知能検査)を行ったが、「長広舌」という言葉の意味を問われた。病気のせいではなく、私はこの言葉の意味を知らなかったので、「知りません」と答えた。ここがポイントではない。セラピストは少し意外そうにしながらも、「あとで検索してみて下さいね」とアドバイスしてくれた。今朝起きた時、この言葉を思い出した私は、スマートホンで検索し、結果を日記に貼り付けた。この、ちゃんと調べたのが素直ポイントである。まあ、大方の現代日本でネットに日常的に触れている人にとってはもう当たり前過ぎる話であり、言われなくてもやるのだと思うが、これを言われて思い出したうえでやっている、そう思うことで、私は自分が言われたことをそのとおりにやっていると、自分のことを捉えるのである。これは素質でもあるし教育の結果でもあり、技術の進歩の影響であるとも思われる。ネットは広大だわ・・・。

もうひとつ。私はいまレベチラセタム1000mg/日を内服していて、恐らくその副作用とは思うが、軽い倦怠感がつきまとっている。悪性腫瘍の終末期の患者さんの強い(しかし見当識は保たれている)倦怠感や、心不全終末期の会話もままならない程の苦しみとは比べるべくもない、もう塵芥に等しい軽微なものだが、なかなか本調子、といかない。昨日は主治医から予後の説明などがあったのだが、それの影響なのか、いつからか、少なくとも今日は、どうも気分も上がらない。看護師がラウンド時に調子を訪ねてくださるので、正直に答える。すると、「今日は予定もなくて、許可もでていますし、院内を散策されてはどうでしょうか」とアドバイスしてくれた。なので私は今、こうしてローソンで記事を書いているのである。これがワンポイント。あと看護師さん可愛かったです。

最後に、日曜日に素寒さんとお電話した際に、落語でもどうだいという話になり、桂米朝の地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)を勧められた。素寒さんのご家庭でも聞かれているようである。私は素直に、すすめに従って今日の午後はこの高座を楽しもうと思っている。

なお地獄八景は大変長い噺で、演者の体力を消耗するもので、米朝自身晩年は演じていない。これは同じく比較的長い噺である「百年目」も同様で、米朝は古典落語(上方落語-関西の伝統芸能としての落語)復興・発展の祖という立場からも、これらの作品には特に思い入れが強かったようである(根拠は、テープについているライナーノーツと、米朝のインタビューの本など・・・実家のどこかに眠っているはずです)。私自身は、祖父の趣味で家にあった米朝と枝雀のテープを、小学校に上がる少し前〜中学年頃まで(今ともうと、意識的に音楽を聞くようになるころまでだろうか、小学校5-6年生頃だ。)聞いて寝ていた。地獄八景は、尺としては長いのであるが、小噺の寄せ集め、という趣もあり、子供でも楽しむことができる。あと、どこの図書館や児童館にもおいてある絵本のシリーズに「吉四六(きっちょむ)さん」というのがあるが、これのひとつに、とてもよくにた地獄の噺(たとえば、クライマックスの大鬼に飲み込まれるシーン等が有名だろうか)が載っている。そういうのを読んだ私は、幼心に、童話や面白話などは、どこにでも似たような話があるものなのだと思ったが、ユングあたりが興味をもったのもそういう所なのかも知れないと思うものである。さて、今、聞き直す前に、ひとつ遊びのために、噺の筋を思い出して書き出してみようとおもう。まず枕ではとにかく長い噺であまりやりまへんのや・・・という言い訳がなされる。男がサバを食べて死ぬところから噺が始める(つまり、恐らくだが、アナフィラキシーショックではじまる物語なのである。笑。いやアニサキスかもしれないけど・・・)「おぉぉーーい」道を先ゆく知り合いを追いかけ、声をかける。道楽を尽くしたため人生最後の道楽としてふぐを食べきた大金持ちの若旦那が通り過ぎる。三途の川の渡しは前は婆がやっていたが、金が足りないから婆はソープランドでも働いている。「閻」魔様のお「触れ」で物の値段が上がって困ることをエンフレという。川を渡った後は念仏を宗旨ごとの店で買うが、よい念仏は80万円もする(地獄の沙汰も金次第でんなあ)。川端康成、太宰治、三島由紀夫の講演が予定されている(テーマは「自殺について」、ああーこれは聞かなあかんわ)。閻魔様の登場。(テープだとここでB面になる) お裁きがあるが、一芸があるものは地獄ゆきを免れる。4人の重罪人は大鬼に食べられてしまうが、4人のうち一人は医者で、腹のなかの腹痛を起こす場所を引っ張ることで鬼が苦しむ。下げは、大鬼が「こうなったら閻魔様あんたを飲まなあかん」「どうしてじゃ」「大王(大黄)のんで、下してしまうねや」

随分端折りました・・・切りがないですね。これ、ダイオウというのが、現在でも高齢者の方々ご愛用の緩下剤であるセンノシド(センナ)のことですが、それを分かってないと、全然わからないオチなんですよね。幼い私は流石に分からなくて、親にきいて教えてもらった覚えがあります。まあという感じで、今日は過ごしていきたいと思います。お昼ごはんの時間になってしまいました。(H)

7日目

今日は疲れていて早めに寝ようと思います。手術は6月初旬になりそうです。フォローアップは生涯となります。上手くことが運んだとしてとして今の時代の成績で、私の寿命は50-60代くらいまでらしいです。ながーいおつきあい、と考えるか、平均余命から考えれば短いと考えるか。あと今の私にはパートナーがいません。あと、どうやって働いていくか、生きていくか。Stievie Wonderが2000年頃のLondon Live(よくYoutubeに違法アップロードされてる、DVDのやつです、私も持ってますが。たしかりんぶんでも一度、滋賀県でみんなで見た覚えがありますが)、ラスト曲 (たしかUsだったと思います。話それますけどマイナー曲をラストに持ってくる感覚って、アジア人からするとやっぱり違和感ありますよね。((※Us自体がメジャースタートのサビマイナーという変な曲))日本の映画の曲、例えば寅さんとか、大概メジャーの和音で終わりますよね。まあどうでもいいですけど。) 

「Use your heart to love somebody」

っていうんですね。このDVD、学生の頃に感銘をうけて、未だにその気持だけは持ち合わせてたいと、思うところなんですけど。さて誰かを愛することとは、具体的になにをして、何をしないことなのか?私にできることは???

6日目

本日は日曜日であり、朝一番に風呂に入らせてもらった。というか実はだいたい毎日一番に入っている。風呂は当日予約制の、早い者勝ちになっていて、大概8時過ぎまで毎日待っているのであるが、9時の枠がいつも空いているので、一番風呂を頂戴している。風呂と言ってもシャワーである。病院の一人用のシャワー室はいずこも同じ企業の製品なのだろうか、かつて勤務していた病院の、当直シャワー室と同じ形をしている。

発病してから色々な人と喋り、連絡をとっている。今回、退院後手術までにはしばらくの時間が、ありそうである。今日は、3年間合わなかった人と、退院後に合うことになった。とても嬉しい。このちっぽけな人生で、私は多くの素晴らしい人に出会えた。多くの人の期待を裏切り、残念な気持ちにさせ、驕り高ぶり振る舞ったけれども、そんな私を憐れみ、ささえれくれる、人のぬくもりに触れることができた人生だった。感謝してもしたりない、あたたかな世界だった。たとえ実存してなかったとしても、ナイスなファンタジーだったと思っている。勿論、右肩くらいしか痛くなくて食事も全量摂取しているから言えることだ。術後には、痛みのために、そうはいかないだろう。もしもデキサメサゾンを内服するようになれば、様々な生活上の制約が課されるだろう。全ては今、いまこのときの平安に、ただ感謝するのみである。(H)