誤診と信心

とうとう私は当直中に重大な誤診をした。絞扼性イレウスを見逃した。

80歳の男性は腹痛に苦しみ、前日朝から排便がないと訴えていた。私は便秘を疑ったが年齢が高いから、なにかで閉塞していたら嫌だなと思い単純CTを施行した。

画像を見た上で私は回腸の明らかな壁肥厚と横行結腸の狭小に気づかなかった。

男性の看護師が一言「造影CTの準備できていますよ」とだけ言った意味が理解できなかった。

他の患者対応に取り紛れている中で指導医が彼を外科に紹介した。

私一人なら彼は死んでいた。

私はこの経験で自分を責める真似はせず、ただの現象に還元しようと思っている。つまり「こういう画像が絞扼性イレウス」という一症例に還元しようと思っている。

しかし無意識は私を苛んでいる。特に私は周りが私を無能だと思うだろうことに恐怖を感じる。看護師が、上級医が、研修医が私を見下すことを恐れる。

私は北陸の妙好人のようなひとすじの信心の世界に憧れる。雪の冬の晴れた日に潤い冷たくわずかな気流が鼻を抜けるような感覚を感じる。小テレジアのようなひとすじの信心に憧れる。暗い部屋の中に光が差し込むようなひんやりとして温かい感覚に憧れる。

ただ信じる、ただ耐えることはとても難しい。私は疲れ、なぜ昨日はあんなにどの症例でも頭が動かなかったろうと疑問を持つ。等身大の私の実力だと思う。「もっと鍛える」必要はある。自力。自力の伸長。

他力に全てを任せるというのは自力の伸長を放棄することとは違う。

いわば自分の意識や素地が他力のことしか考えぬので、客観的には遅鈍ながら自力にてわずかに努力している。その努力の遅鈍なことはしばしば責められる。しかし、客観的な努力の向上すら、実は弱い者にとっては一切を他力に親しんだ方が良好である。頭の中には他力しか目に見えておらず、安心の境にあるのみなのに、客観的にはそちらのほうが仕事はしている。

ピオ神父は「不安や焦りは沢山の仕事をするように見えて実は何もしない。まず祈り、安心しなさい」と言った。これは真実である。

「夜と霧」の中で、歌を歌う人間や神に信心する人間がかえって生き残ったという話を読んだ気がした。

私は大きな危機があると、苦しみ悶え母や兄に恨み言を喚き散らした後、安全弁のように北陸の妙好人や小テレジア、ピオ神父のイメージが訪れる。

浄土教と、カトリックと、神道と、あるいは他の一筋の信心とが、互いに異なりながらどこかで同じものになることを期待している。

空谷子しるす

「誤診と信心」への4件のフィードバック

  1. 大変な症例でしたね。
    昔から、患者を3人殺してから一人前の医者になる、などという恐ろしい格言がありますが、失敗から学ぶという側面はありますね(と美化してはいけないんでしょうが)
    今は先輩医者とのチームでやっているけど、いずれは自分がトップ、という危機感が当然ありますよね。

    最近、浄土宗に関心を寄せていますが、
    妙好人のことは知りませんでした。
    他力にうっちゃる、という突き抜けた感じがあるんでしょうね。
    うっちゃり方は様々だと思いますが、うっちゃることを三昧というんでしょうか。
    うっちゃるって難しいです

    春日も拝読しました。
    力強く爽やかで美しい文章ですね。心に爽やかな風が吹いた気が致します。

    1. 念仏三昧を拝読しまして、ふと妙好人のことを思い出したのでした。
      他力にうっちゃる。教養も与えられなかった、剛毅で素朴な精神を有した農の人間が、欲や悪より信心に喜びを見いだす。彼に生きる力あり。その上で他力に全任せにするというこの清々しさはどうでしょうか。うっちゃることは三昧です。しかしそこに自意識がない。「自分は委ねて安心だ」という、選民意識や卑怯な感じの自意識がない。本当に委ねている。
      うっちゃることはごみを不法投棄するように神仏にわがままを押しつけてしらんふりするのでなく、一文一銭に至るまで全て委ねることなのかもしれません。
      こんな難しいことはありません。

      春日も読んでくださりありがとうございます。
      春日明神の神威はまことに奇特なものと思います。ナギの木が生い茂る原生林は爽やかな空気が流れています。少しでもその感じがお伝えできたなら僕の大きな成功です。

      空谷子

      1. 僕の文章と共鳴して下さったんですね。
        嬉しいことです。

        サリヴァンという中井久夫が尊敬していた精神科医は、病気はもっと悪い事態 からその個体を守っているのではないか、と言っていたようですね。こないだの僕の文章と重なります。おそらくもっと悪い事態は自由だと思います。
        浄土宗の僧侶たちは、念仏病を処方して自由の苦しみから大衆を救っていたんでしょうか。
        病気を処方して自由から救うって、人間ってどうしようもないですね。

        一遍の伝記を数日前から読み始めたのですが、
        彼も妻子を捨ててますね、
        妻子も頭を丸めて修行についてきたのはなんともユーモラスです(しかし壮絶だったでしょうが)
        僕にしても、しがらみがバカらしくなってきて西行さんや彼のように捨てたくなってくる気も時にするんですが、
        しがらみを捨てたとて捨てられるものではないです。
        しがらみあってこその自由ですから。

        他力にうっちゃればうっちゃるほど、自力が自ずと高まるんじゃないでしょうか。
        その点、僕はまだまだダメです。

        1. サリヴァン先生の仰ることは示唆に富んでいると思います。
          完全な自由というものは人を破壊するように思われます。金もない、飯もない、作柄もどうなるかわからない、その上で求めるものすらなければ人は生きてはいけません。自由が好きという言葉は、しっかりした現実がある人間の余裕のある言葉か、金あるいは宗教や精神的にしっかりした現実があるがひどい搾取をされている人間の言葉だと思います。現実が惨憺な人間に自由がもたらされたら死ぬしかありません。

          一遍の伝記はまだ未読です。妻子も出家したのですね。
          しがらみというのは嫌になるものだと思います。「自由」というものを欲しがるときもあります。
          しがらみが自由を生むのかどうかはわかりません。しかし人の自然はしがらみを壊したくなる時があります。しがらみを求めたくなる時があります。自分の自然はあてにならない。僕は祈ります。

          聖パウロのいわく「私は弱いときこそ強い」ということかもしれません。他力の助けが我が身を通じれば強くもなりましょう。
          聖パウロはキリスト教を作った。つまり西欧社会の全てを作りましたが、実際彼に出会った人間は風采が上がらない彼の姿に幻滅したといいます。
          他力が我が身を通じるとき、人からは自力が強いように見えるかもしれません。一切は実際は他力なのかなと思います。

          空谷子

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