老師講話③

子宮は他者のための唯一の臓器
閉経していて、手術でとらないといけないということなら、神様に返したらいい。

あわれみはヘブライ語でラハミームという。
ラハミームはレーハムの複数形
レーハムは子宮のこと。
つまり、ラハミームは子宮の集まったところ
子宮は他者を拒まないところ。どんな人でも受け入れる。命を与える、育む。
レイプという悲劇的なときでも拒まない。それくらいすごいところ。
その子宮が集まったところ、それをユダヤ人はラハミームと表現する。
聖書の世界はヘブライ語からギリシャ語に翻訳されているが、
ラハミームをギリシャ語に翻訳するとスプラングニゾマイ(σπλαγχνίζομαι)となる。
スプラングニゾマイは、はらわたがちぎれる思い。それくらい憐れみの感情を持つ。
それくらい可哀想に思う。上から目線ではない。
その臓器を返す。
手術で子宮をとらないといけないのであれば、神様に返すと考えればよい。

以前、骨肉腫で足を切断した人が、それを神様に返すと言っていた。
失うのではなく返す。
手術でとらなあかんではなく、それを神様に返すととる。
ほんまにそうやなあと思った。
そう考え方を変えると生き方が積極的になるでしょ。

命は神様に委ねましょう
体は医学に委ねましょう
あなたは生きることに専念しましょう
私は病人にはそのように言ってる。

命はどう逆立ちしたって自分の自由にできへんやん。

いやカトリックにはご聖水がありますから。
ルルドの水やら。
そんなんアホじゃ。

老師講話②

姦淫はダメです
伝統的なプロテスタントの信者はすぐにそう言う。
だって罪でしょ、と。
聖書は罪を犯したといっぱい書いてる。
それに捉われて視野が非常に狭くなっている。
そんなんキリスト教ちゃう。
神様は人間を非完全なものとしてつくったんですよ。
だから、非完全でいいんです。だから宗教がいるんです。
もっと宗教から、親から離れないと。

老師講話①

聖書は文字通りにとったらあかんねん
イエス・キリストが盲目の治した話が聖書にある(ヨハネによる福音書 第9章)。
あれは奇跡だというが、奇跡でもなんでもないと私は考えている。
眼が実際に見えるようになったのではなく、心の眼が開いたということや。それで感動して、見えるようになったと騒いだわけや。
そういうことやねん。人生開眼っていう方向にならなあかんねん。
俺の人生これでいいんや、と。
無理にがんばらなくっちゃと思うと、たつもんもたたん。
50歳まで生きられるなら、それでええやん。
それを喜ばなくっちゃ。

骨流し

長崎、坂の町。
港に山が迫っており、斜面にもわずかな平地にもところせしと建物がひしめき合っている。

8時半に京都を発ち、博多と乗り継ぎ、長崎に降りた。
リレーかもめ号は深い紺青が格調高い。かもめ号は打って変わって、上品な白を基調とした列車であった。
5時間の移動に、娘は疲弊した様子であった。
この子は疲れは知らぬが、退屈を内省に使うことはまだ知らぬ。
終末期の患者同様、退屈は強い苦痛をもたらす。

港が近いからか、雨が近いからやや蒸し暑かった。
特急の発着する駅構内の美しさと対照的に街の雑居ビルは色褪せて汚かった。

26聖人のレリーフは長崎駅にすぐに迫った坂の途上にあった。
街にはところどころに防空壕があった。
しかし、その防空壕はどれも小さいもので、多数を収容できるものではない。
投下されたとき、防空壕内に避難していた人たちのうち、助かったのは奥にいた人たちだけであったようだ。
平和公園には平和を希求する願いをこめて各国からモニュメントが寄贈されている。中国からのそれには、時折心なきいたずらがされるという。

我々は、骨をまきにここまできた。
戦争末期、幼かった骨の持ち主は兄弟でよくU川にうなぎをとりにきていた。
その日も兄はうなぎの仕掛けに行き、彼は姉と防空壕に避難していた。
姉は用事があると家に向かった。
まさにその時、かの無慈悲な爆弾が投下された。
両親、兄、姉は一瞬で吹き飛んだ。
U川は水を求める人で地獄と化した。
彼は世界でただ1人取り残された。
手に職を身につけ、彼は大阪に出た。
ある人物が貸した金を返さないことにカッとして殺めてしまった。
余生を四国の刑務所で過ごすこととなる。

長らくあるシスターが彼と文通をしていたが、そのシスターは高齢となり、Y神父に託した。
彼が獄中で病死した時、身元引き受け人であった神父が呼ばれることとなった。
教誨師としてではない。一般人としてである。
神父は所属する地区以外の教誨師にはなれない。

彼の哀れな生い立ち、Y神父は彼の骨を彼の遊んだ川に撒いてやろう、そう思い立ったのだ。
それではお供します。娘も伴います。
という段取りになった。

我々はM夫妻に案内されまずJ学校の聖母像の前で祈りを捧げた。
私は祈りに馴染みはあるが、クリスチャンではない。
ましてや初めて司祭の祈りに参加した娘は周囲をおもんぱかりながら、殊勝に手を合わせていた。
聖母像には、原爆でなくなった生徒や教員の遺品が納められているという。

その後、U川に赴いた。
昨日の雨のため普段なら対岸へと渡れる小石群は半ば水流の中であった。
U川の川幅は非常に狭い。
市内にはこのような川が二つしかないという。
よって、雨が急に降ると一挙に増水し、氾濫しやすい。
「殉教、原爆、水害とこの土地は3つの大きな災難に見舞われたんです」と案内人は言った。
M夫人の祖父の家は浦上天主堂の真ん前にあったが、これも一瞬で灰燼に帰した。
その浦上天主堂の真下には、爆風で吹き飛ばされた鐘楼の一部が武骨に突き刺さっていた。

幸い晴れた。
1週間前までは予報は雨であった。
しかし、晴れた。
対岸にはサクラやユキヤナギが咲いていた。
対岸を色で染めていたわけではない。寂しい灰色の背景に、一つ、二つと寂しそうに咲いていた。
川の中には一つの石があった。
ちょうど大人1人が立てる程度の面積の石が、岸から一歩の距離にあった。
Y神父はその石に定め、川上の人となった。
銀の十字架を一つ落としてから、白いさらさらの骨をまいた。
わずかに白濁した流れは、やがて透明となり、それは川と一つとなった。
その後小雨が降り始め、我々が稲佐山にたどり着いた時には本降りとなった。

M夫妻は望んだが子が得られなかった。
M夫人は若くして持病を持ち、維持透析をしている。

我々は、生まれる土地、時代、親、性別、何も選べなかったんです。
でもな、ホイヴェルス神父という人が、究極的必然性はない、と言いましてん。
とY神父はよく言う。

両者は矛盾する概念ではない。
前者は過去のことを、後者は未来のことに言及している。
自由意志のことでももちろんない。
自由意志はおそらく自力の別称だろう。
自由意志が存在しないほどに自力というものはしょぼい。
自力のしょぼさを自覚せぬ人間の自力をうんぬんする妄言には辟易する。
グランゴワールは自由意志をうっちゃって、奇跡御殿に達した。
自力と他力のバランスを目指さねばならぬ。
ああ、バランス!
あの聡明なキルケゴールも達することができなかったあのバランスよ。

せっかくなので翌日は原爆資料館を訪れようかと思ったが、娘が怖がるのでやめた。
私はなんでも覚えちゃうから、と苦しそうにしていた。
爆弾が怖いとなかなか寝付かなかった。
夜半、雷鳴におどろかれぬる。

8日目

素直なことは私の美徳だと思っている。そういうことは、普通、自分では言わない。だから、多くの素直で、かつよき人は、他人に評されるだけだ。だが、私は他人からも言われるうえに、このように自分でも、言っちゃうのである。

例えば、昨日WAIS-Ⅳ(知能検査)を行ったが、「長広舌」という言葉の意味を問われた。病気のせいではなく、私はこの言葉の意味を知らなかったので、「知りません」と答えた。ここがポイントではない。セラピストは少し意外そうにしながらも、「あとで検索してみて下さいね」とアドバイスしてくれた。今朝起きた時、この言葉を思い出した私は、スマートホンで検索し、結果を日記に貼り付けた。この、ちゃんと調べたのが素直ポイントである。まあ、大方の現代日本でネットに日常的に触れている人にとってはもう当たり前過ぎる話であり、言われなくてもやるのだと思うが、これを言われて思い出したうえでやっている、そう思うことで、私は自分が言われたことをそのとおりにやっていると、自分のことを捉えるのである。これは素質でもあるし教育の結果でもあり、技術の進歩の影響であるとも思われる。ネットは広大だわ・・・。

もうひとつ。私はいまレベチラセタム1000mg/日を内服していて、恐らくその副作用とは思うが、軽い倦怠感がつきまとっている。悪性腫瘍の終末期の患者さんの強い(しかし見当識は保たれている)倦怠感や、心不全終末期の会話もままならない程の苦しみとは比べるべくもない、もう塵芥に等しい軽微なものだが、なかなか本調子、といかない。昨日は主治医から予後の説明などがあったのだが、それの影響なのか、いつからか、少なくとも今日は、どうも気分も上がらない。看護師がラウンド時に調子を訪ねてくださるので、正直に答える。すると、「今日は予定もなくて、許可もでていますし、院内を散策されてはどうでしょうか」とアドバイスしてくれた。なので私は今、こうしてローソンで記事を書いているのである。これがワンポイント。あと看護師さん可愛かったです。

最後に、日曜日に素寒さんとお電話した際に、落語でもどうだいという話になり、桂米朝の地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)を勧められた。素寒さんのご家庭でも聞かれているようである。私は素直に、すすめに従って今日の午後はこの高座を楽しもうと思っている。

なお地獄八景は大変長い噺で、演者の体力を消耗するもので、米朝自身晩年は演じていない。これは同じく比較的長い噺である「百年目」も同様で、米朝は古典落語(上方落語-関西の伝統芸能としての落語)復興・発展の祖という立場からも、これらの作品には特に思い入れが強かったようである(根拠は、テープについているライナーノーツと、米朝のインタビューの本など・・・実家のどこかに眠っているはずです)。私自身は、祖父の趣味で家にあった米朝と枝雀のテープを、小学校に上がる少し前〜中学年頃まで(今ともうと、意識的に音楽を聞くようになるころまでだろうか、小学校5-6年生頃だ。)聞いて寝ていた。地獄八景は、尺としては長いのであるが、小噺の寄せ集め、という趣もあり、子供でも楽しむことができる。あと、どこの図書館や児童館にもおいてある絵本のシリーズに「吉四六(きっちょむ)さん」というのがあるが、これのひとつに、とてもよくにた地獄の噺(たとえば、クライマックスの大鬼に飲み込まれるシーン等が有名だろうか)が載っている。そういうのを読んだ私は、幼心に、童話や面白話などは、どこにでも似たような話があるものなのだと思ったが、ユングあたりが興味をもったのもそういう所なのかも知れないと思うものである。さて、今、聞き直す前に、ひとつ遊びのために、噺の筋を思い出して書き出してみようとおもう。まず枕ではとにかく長い噺であまりやりまへんのや・・・という言い訳がなされる。男がサバを食べて死ぬところから噺が始める(つまり、恐らくだが、アナフィラキシーショックではじまる物語なのである。笑。いやアニサキスかもしれないけど・・・)「おぉぉーーい」道を先ゆく知り合いを追いかけ、声をかける。道楽を尽くしたため人生最後の道楽としてふぐを食べきた大金持ちの若旦那が通り過ぎる。三途の川の渡しは前は婆がやっていたが、金が足りないから婆はソープランドでも働いている。「閻」魔様のお「触れ」で物の値段が上がって困ることをエンフレという。川を渡った後は念仏を宗旨ごとの店で買うが、よい念仏は80万円もする(地獄の沙汰も金次第でんなあ)。川端康成、太宰治、三島由紀夫の講演が予定されている(テーマは「自殺について」、ああーこれは聞かなあかんわ)。閻魔様の登場。(テープだとここでB面になる) お裁きがあるが、一芸があるものは地獄ゆきを免れる。4人の重罪人は大鬼に食べられてしまうが、4人のうち一人は医者で、腹のなかの腹痛を起こす場所を引っ張ることで鬼が苦しむ。下げは、大鬼が「こうなったら閻魔様あんたを飲まなあかん」「どうしてじゃ」「大王(大黄)のんで、下してしまうねや」

随分端折りました・・・切りがないですね。これ、ダイオウというのが、現在でも高齢者の方々ご愛用の緩下剤であるセンノシド(センナ)のことですが、それを分かってないと、全然わからないオチなんですよね。幼い私は流石に分からなくて、親にきいて教えてもらった覚えがあります。まあという感じで、今日は過ごしていきたいと思います。お昼ごはんの時間になってしまいました。(H)

7日目

今日は疲れていて早めに寝ようと思います。手術は6月初旬になりそうです。フォローアップは生涯となります。上手くことが運んだとしてとして今の時代の成績で、私の寿命は50-60代くらいまでらしいです。ながーいおつきあい、と考えるか、平均余命から考えれば短いと考えるか。あと今の私にはパートナーがいません。あと、どうやって働いていくか、生きていくか。Stievie Wonderが2000年頃のLondon Live(よくYoutubeに違法アップロードされてる、DVDのやつです、私も持ってますが。たしかりんぶんでも一度、滋賀県でみんなで見た覚えがありますが)、ラスト曲 (たしかUsだったと思います。話それますけどマイナー曲をラストに持ってくる感覚って、アジア人からするとやっぱり違和感ありますよね。((※Us自体がメジャースタートのサビマイナーという変な曲))日本の映画の曲、例えば寅さんとか、大概メジャーの和音で終わりますよね。まあどうでもいいですけど。) 

「Use your heart to love somebody」

っていうんですね。このDVD、学生の頃に感銘をうけて、未だにその気持だけは持ち合わせてたいと、思うところなんですけど。さて誰かを愛することとは、具体的になにをして、何をしないことなのか?私にできることは???

6日目

本日は日曜日であり、朝一番に風呂に入らせてもらった。というか実はだいたい毎日一番に入っている。風呂は当日予約制の、早い者勝ちになっていて、大概8時過ぎまで毎日待っているのであるが、9時の枠がいつも空いているので、一番風呂を頂戴している。風呂と言ってもシャワーである。病院の一人用のシャワー室はいずこも同じ企業の製品なのだろうか、かつて勤務していた病院の、当直シャワー室と同じ形をしている。

発病してから色々な人と喋り、連絡をとっている。今回、退院後手術までにはしばらくの時間が、ありそうである。今日は、3年間合わなかった人と、退院後に合うことになった。とても嬉しい。このちっぽけな人生で、私は多くの素晴らしい人に出会えた。多くの人の期待を裏切り、残念な気持ちにさせ、驕り高ぶり振る舞ったけれども、そんな私を憐れみ、ささえれくれる、人のぬくもりに触れることができた人生だった。感謝してもしたりない、あたたかな世界だった。たとえ実存してなかったとしても、ナイスなファンタジーだったと思っている。勿論、右肩くらいしか痛くなくて食事も全量摂取しているから言えることだ。術後には、痛みのために、そうはいかないだろう。もしもデキサメサゾンを内服するようになれば、様々な生活上の制約が課されるだろう。全ては今、いまこのときの平安に、ただ感謝するのみである。(H)

5日目

H: fMRIについて教えて下さい

ChatGPT: fMRIとは、機能的磁気共鳴画像法(Functional Magnetic Resonance Imaging)の略称で、脳の神経活動を非侵襲的に測定する方法です。fMRIでは、脳の血流量が増加することで、脳活動が起こる部位の周辺の酸素消費量が増加します。この酸素消費量の増加に伴い、脳血流量が増加するため、fMRIは脳の活動部位を間接的に検出することができます。fMRIでは、磁気共鳴画像法を用いて脳の構造を画像化し、同時に脳の神経活動を測定することができます。被験者は、脳の機能を刺激する課題を実行しながら、MRIスキャナーの中に入っている間、脳活動を測定します。脳の活動部位には酸素が供給されるため、脳血流量が増加し、それによってfMRI信号が検出されます。fMRIは、脳の特定の機能領域の活動を非侵襲的に測定することができるため、神経科学や心理学などの分野で広く使用されています。また、脳神経科学研究や臨床診断において、脳の活動部位を特定するための有用なツールとしても活用されています。

H: fMRIで心の中のことを覗かれてしまいますか

ChatGPT: fMRIは、脳の神経活動を非侵襲的に測定する方法であり、心の中のことを直接覗き込むことはできません。fMRIは、脳の活動部位を間接的に検出することができるため、脳がどのように反応しているかを推測することができますが、直接的に心の中を読み取ることはできません。fMRIの測定結果は、被験者の脳の活動に基づくものであり、脳内で何が起こっているかを解釈することができますが、それが必ずしも被験者の意識や感情を正確に反映するわけではありません。また、fMRIによって得られる情報は、被験者のプライバシーを侵害することはありません。ただし、脳の活動を測定するためには、被験者がMRIスキャナーの中に入り、一定時間静止する必要があります。そのため、fMRIを実施する際には、被験者のプライバシーを保護するために、適切な倫理規定が存在し、被験者の同意を得て行われます。

第4日目

今日は痙攣発作後状態(Post-ictal state)について調べたりしていたらついつい遅くなってしまい疲れたので眠ろうとおもいますが、やはり色々な人に相談などしているわけですが、病気しているとはいえ一番暇人なのですから、忙しい人にメールしたりやり取りしてもらって申し訳ないなという気持ちにはなります。

第3日

母:あなたは祈っていないし、聖書を読んでいない、そのような態度が果たして許されるだろうか、勿論出来ない人がしなくても何も問題はない、しかし、できるのにやらないのはおかしい、それは思い上がった態度だ、私は10年間教会を離れていたが、父のことと(新)宗教、淀キリのホスピスで教会員との再びの出会い、交通事故による罪の自覚というエピソードがあって深く懺悔し、神の元に戻された、そしてそこから、本当に祝福された日々を過ごすことができている、求めようとする下僕に対しては主人は与えようとするはず、祈りたくないのか、聖書を求めたくないのか。もしも今、時間が与えられたのなら、それは離れていた神様との時間に充てるべきではないのか。

私:確かにある時期から祈りや聖書の通読が私の日常から消えていった、私は、神様はすべてをご存知であり赦されている、そして私は神様がすべてを成功や良い方向に導かれるとは考えない、また祈りの程度や有無によって、その希望の実現・現実の結果が影響されるとは、考えていない、やはりすべて我々の目の前におきていることは神様が働かれた結果であって、神様の働きの結果僕が術中死することだってあり得ると考えられるし、だからといってその後に祈りが足りなかったから、とは考えたくはない、それから、私は祈りたくなかったり聖書を読みたくなかったり拒むような気持ちがあるのではなく、祈りが非科学的で無意味な行為だといっているのでもない、僕たちはともに祈り合うことで、祈らないときにはえられない感情を共有している、私はあらためて、祈り読む時間にしたほうがいいかと思う、ただつまるところ、そういう行為を私がとっているかどうか、他人には分かりようがない、なのだから母が私の行為を信頼できるかどうか、といったことの問題でもあるようにおもっている、私はこれを私が18歳くらいのころから母との間に問題として横たわっていると感じてきたが、今日の日までここまで大きく取り上げてこなかった、だがこうして指摘されることで非情に辛く感じることも事実であり、伝えることと行動を変化させることが必要であるように感じたため、伝えることとした

母:そのように神様のことを考えているとは知らなかった、悪いことがおきているのはサタンが働くからであろう、ただもうあなたには後がなく、言わば刃を突きつけられている状態なのに、神様がなんでも救ってくださるからなにをしても、祈らなくてもいい、という態度では許されない、祈るかどうかはあなた自身の問題であるため私にはわからないけれど、とるべき態度は唯一つであるようにおもう、牧師にも相談をしてはどうか

私:私の考えを伝えることができてよかった、また(何度もきかされた話も多かったが)母の考えをきくことができよかった、通読と祈り、そして牧師との相談はあらためておこない、このときを与えられたことの意味を神様にもとめていきたいとおもう。