ぼけ、再び

道すがらボケの赤をみとめ、思わず立ち止まった。
20年ほど前に、やはりぼくを釘付けにしたボケ。
その出会いの唐突さに世界が少し揺れた。

一週前までは刺すような冷たい外気があった。
暖かくなった春の日差しに包まれると記憶がゆらゆらと、
ふと解離から覚める。

回診で寝て過ごす高齢者達にボケのことやユキヤナギも咲きそうなことを報告してみた。
みな認知症をもっている。
ある者は年相応に、ある者はすっかりいろんなものがわからなくなっている。

ボケがもし古い記憶としてあるならば、その索引性でもって何かを手繰りよせられないか。
歌を歌ってもらって手拍子をとるなどすると活気づく場面はこれまでにも経験している。

5人中3人は普段と変わらぬ無表情を維持した。
1人はほんまか、ととぼけていた。
同室の誰かが笑っているのが聞こえた。
おそらく、ぼけ、という音に惹かれたのだろう。
味をしめたぼくは追撃を試みる。
ぼけてますね、なんて失礼言ってるわけじゃないですからね、ぼけてるのはみんな同じですからね
ぼけを見たぼくがぼけた。
予想通り、同室の誰かの笑い声が大きくなった。

もう1人は泣きつつ笑った。
彼女にサクラとボケはどちらが好きですかと問うと、
知らん、
と返答があった。

知らん、
という快活な響きは我が家の3歳男児を思い出させた。
彼は好きなことを自分で訴えられるようになった。
しかし好きな理由を問うと、
知らん、
と明快に答え、爽やかな風が吹く。
彼も3歳で正しくツッコミを入れられるようになった。
順調に言葉の海を楽しんでいる。

両者は認知機能としてはどちらも十分ではないという点で共通している。
片や上り坂に、片や下り坂にいる。
機能が十分でない場合に日常生活の自立がままならず、サポートが必要となる。
それは高齢者であっても小児であっても同じだということが、両者を診ているとよく分かる。
機能が十分でないことに対する他者によるサポートが必要である。
しかし、医師(親)という他者の主体性が、ケアを受ける者の主体性を凌駕してはいけない。
いや、時に避けがたいこともある、がしかし。
機能、イメージ、他者の喪失とその外傷に関わることがライフワークとなるだろう。
物心ついたときから私のまなざしはなぜかそこに向かっている。

随分前に妻と議論したことがある。
花が咲いていると、君はだーれ?なんていうの?
と聞きたくなる。
君は気にならないのかい。
美しいと感じることが大事なのであって、花の名を知ることは重要だと思わない。
じゃあ君は、好きな人の名前が気にならないのかい。

花の名を知ることは、花に気をかけ、愛するということだ(寺尾紗穂)

いまわのきわの方針についての意思表示が重要であるとよく言われる。
ACPのP、planningは現在進行形であって、動名詞ではないなどと。
心肺停止時に延命処置をするかどうか以外に、
好きな歌や、好きな花など意思表示しておくとよいかもしれない
好きな食べ物でも、好きな馬でもいいだろう。

僕がボケた暁には、
真っ赤なボケが咲いたよ、だとか、
ハクモクレンが妖しくも美しいよ、だとか
サルスベリは雨に濡れるとやっぱり色っぽいね、
などと話しかけて頂きたい。

素寒

小児科

2月は小児科だった。

当院に産婦人科はなく、NICUはあるけれどそれほど忙しくない。

一日外来に張り付いて、ときどき診察や小児採血をやらせてもらった。

川崎病の子が来た。

よく泣く子であった。アンパンマンのドキンちゃんが好きで、ちいさなドキンちゃんの人形を「キンちゃん」と呼び離さない。

4日間の発熱があり、眼球結膜の充血、手足の硬性浮腫、体幹部の皮疹、苺舌(私は初めて苺舌というものを見た)と典型的な徴候を認めて川崎病と診断された。

ただちに彼は入院となった。

彼の母は彼をなでながら言った。

「◯◯ちゃんはいろんな目に合うなあ」

母親は彼を慈しみの目で見た。

「ぜんぶお母ちゃんが代わってやれたらええんやけどな」

幸い一回のIVIgで熱も下がり、血小板も大して増えなかった。冠動脈も拡張しなかった。

よく泣く子だったが元気になって帰っていった。しかしどうやらすっかり病院に懲りたようで、外来に来るたび泣いている。優しい子である。

兄がたまたま電話してきたのである。

電話の用件は彼の異動についてであった。その話が済むと、話題は私の仕事に及んだ。

「川崎病の子を診させてもらったんだよね。僕は指導医にくっついていただけだけど…」

と、私は川崎病の子を診て、幸い彼が元気になって帰っていったことを話した。

すると彼は妙に嘆息して言った。

「お前自分で気づいていないかもしれないけどな」

仕事で疲れた兄は急に身を乗り出したようだった。

「川崎病の話をしているとなんかいい感じだぞ。おかげで元気もらったわ」

私はよくわからないことを言われたので、そうか、それはよかったとのみ返した。

彼は妙に機嫌が良くなり、またなにかあったら話せよ、おれも話すからと言って電話を切った。

兄はときどき妙なことを言う男である。

勘にすぐれ、能楽を好む。

兄は私の言葉に何を感じたのかはわからない。

ただ、私は外来に張り付きながら、猫ひっかき病疑いやら手足口病疑いやらの子たちを見ながら、

なんとなくこうしたことはたしかに意味のあることかもしれないと思った。

私はドン・ボスコ師の本を改めて読み返す気になった。

小児神経の先生が南方熊楠の熱心なファンであったことも私の気に入った。

空谷子しるす

覚書2

 名前は忘れてしまったが、仮に山田さんとしておこう。その山田さんさんは私の手を引いて歩いていた。振り返り大丈夫?と言った。私は頷いた。しかし何度も躓いた。躓くたびに山田さんは振り向いて立ち止まった。そして私は頷いた。

 高いビルに挟まれた細い路地だった。ビルの隙間から雲が流れいく。手前では次々車が横切っている。座るところもないので、私たちは立ったまま休憩をした。だいぶ歩けるようになったと山田さんは言った。

 二足歩行になる前は私は四つ足で這っていたものだ。私は顔を上げるのもつらくてずっと地面を見ていた。砂利道よりも芝生が良い。雨の日よりも晴天が良い。土のにおいが好きだった。蟻が私の腕を時折間違えて登ってくる。そして間違えたことにも気がつかなかったかのようにいずれ同じ腕や別の腕から降りてくる、そして私よりも速く進んでいく。腕が疲れると、私は仰向けになり空を見上げた。子供たちがボールで遊んでいる声や音楽に合わせて踊りを踊っているらしい声が聞こえた。

 男が視界を遮った。私は体力を節約するために姿勢を変えず男が話し始めるのを待った。四つ足歩行は問題だという趣旨のことをどうやら言っていたらしい。私は話を長引かせないために、同意しますよという態度を示すつもりで微笑んだ。非難がましい目つきには慣れていた。そして男の助言の前には何もないことが明白だった。

 彼女を仮に山田さんと呼ぶとしよう。私が5日か1週間か、2週間か、横たわっていると、大丈夫ですか、としゃがみ込んで尋ねた。寒くもないし、暑くもないし、季節はいつだろうか。5月でも10月でもよいだろう。彼女が心配したのは寒さや暑さのことではなかったし、少なくとも私はそのような感覚に煩わされることなく横たわっていた。私は彼女の心配には同意いたしかねた。無為に見放され疲労を覚えた。これ以上の質問に晒されるくらいであれば、この場を彼女に明け渡そうと観念した。

 記憶違いがなければ、というよりほとんど記憶違いかもしれないが、私は四つ足をやめて二足歩行を始めた。逆だったかもしれないが大した問題ではないだろう。私は犬のように排泄すると汚れが少ないことを心得ていたので直立や座って用を足すことに戸惑いを覚えた。それでも慣れてくると最初からこうしていたような気がしてくるもので不便に感じていた頃の記憶も次第に薄れていく。

 しかし彼女は人の条件を満たすためにはもう少しうまくやらなければならないとでも言いたげだった。少し褒めてから、たとえば立ち上がる前に紙でお尻を拭くともっと上手にできるかもしれないとか、手を洗うときは石鹸をつけるとよいかもしれないとか、段階的に次の課題を提示することであるべき姿へ近づけようとしていた。私はどこまでも協力するわけにもいかないと思った。いずれにせよもうすぐ私の記憶は途絶えまた一からやり直しになるだろう。彼女は笑顔がいつも少し曇っていた。レポートの締め切りが迫っているのかもしれない。それでも申し訳ないがじゅうぶんに協力することはできなかった。

島行 

その島でパラサイトという映画をみた。
映画の中で父親は、計画を立てるから失敗するのだと、息子に教え諭した。
彼は決定論者ではないにしても、運命論者ではあった。

この島はかつて砕石で財をなし、バブル時には本土よりも地価が高騰していたという。
港は錆で覆われ、古びたビルが乱立していた。
この島をあの滑稽な父親がみれば、計画をたてるからこうなったのだとやはり言うだろうか。

その異様なビル群に惹かれ、家族で移住を決めた。
これから島を盛り上げ外国人も誘致するはずが、このコロナで頓挫した。
港でカフェを営む男はそう言って冷たく笑った。
再び計画は頓挫した。

今やこの島は、見せるという目的を欠いていた。
老婆が化粧を忘れるように、老いたこの島も化粧を忘れ、湿度の欠いた荒れた皮膚をそのままにしていた。
鉄錆に覆われるのは単にこのまちが老化したからだけではない。
この港には造船所が複数あり、古びた船がやってくることになっている。
しかし、それでも錆で覆われているこの港町の外観は、私のオリエンテーションを失わせるのに十分に異様な雰囲気を有していた。

港には古い戦艦が夢破れて港に突き刺さっているように見えた。
港のまうらにある診療所の窓からは少なくともそのように見えた。
実際には造船所にドック入りしているだけのことであったのだが。
造船所にあるあまたのクレーンもまたもれなく錆び付いており、それらが群れた蟹の妖怪を思わせた。
我々は鉄錆を見ながら酒盛りをし、翌日は神社に詣で、また酒盛りをした。
港だけでなく、島全体に化粧気がなかった。
神社に化粧気が無いことはもちろんかえってよかった。
島民に色気が出てきたときにこのよき神社はどのように化粧で汚されるのだろうかとも案じられた。
子供たちにとって、化粧の有無は問題でないようだった。彼らにとって重要なことは、礼拝で鈴を何度も鳴らすことであり、海岸の石を物色することであり、よーいどんで誰が早いかを決めることであり、途中で暖かいミルクティーを買うことであった。O氏は、子供たちに参拝の仕方と神様について教えていた。

この島のあらゆるものが斜陽であった。
かつての繁華街には人気はなかった。
子供を遊ばせながら出会った老婆は、皆出て行ってしまって何も無いとこぼしていた。
唯一ある小さなスーパーでは、長屋の熊さんが先日亡くなったことを話題にしていた。レジ前では90歳代と思われる老婆がその死を知らなかったことに落胆し、繰り返し嘆いていた。

フェリーの駅には隣の島の求人があった。
砕石の求人で、日当は1.2万円とあった。
神社から見たその島は、スプーンでえぐられたプリンのように、削られていた。
その島の人口は500で、商店はひとつもなく、家が点在しているという。
彼らの世界はどのようであるのか。この島は半地下で、その島は地下なのか。

カフェの男も、港町の老婆もある種の具体性を欠いていた。
夜半にふと、彼らはあやかしの類ではなかったかと思われた。

患者を数名診た。
1人は70代の高齢者で、高血圧が心配と隣人を伴って受診した。
本人も隣人も独居だった。普段から支えあっているという。
1人は嘔吐を伴う頭痛の中年者だった。

島の診察は難しい。
本土に送るべきか、経過観察可能かどうかを検査に頼らず病歴と診察から判断しなければならない。
都会の救命センターであれば若年者ではなく、初発の頭痛であれば、帰宅させる前に頭部CTを撮影しておくだろう。
救命センターでは検査機器があるのに検査をせず疾患を見逃すということが許され難い。島では夕方に受診した場合、本土への最終フェリーには乗れたとして島に帰るフェリーは無い、本土に泊まるところもない。
かくして救命センターの検査閾値は低くなり、島の診療所での検査閾値は非常に高くなる。
結局、心電図、簡易血糖に異常がないことを確認して観察することとしたが、祝日が終えるまでその患者の容態が変わりはしないか、ヤキモキした。

2日目の夜、やはり酒盛りをしながら、O氏とバラサイトをみた。
どのカットも並べれば写真展になりそうな美しい動画だった。
躍動感あふれるサスペンスに加えて、コメディの要素も多分にあった。
格差、学歴、計画、匂い
鑑賞後も象徴的なキーワードが頭に残った。

このコロナ禍に人々の移動は極端に制限されている。
私がこの島でアルバイトをするという計画は褒められたものではないだろう。
それがどのような島で、どのような診療所かということはまるで分からなかった。
賢い医者はそもそも選択しなかったろう。
しかし、私は選択、計画した。
給与目当てに?越境を試みた?進化を目指して?花が咲こうとした?
すると、島行の前日のPCRは陰性という結果となった(それ自体の感染を完全に否定するものではない)
前日にO氏に声をかけたところ、即座に同行するという返事を得た(それ自体が感染を拡散させる可能性があった)
これが理性的な動物のふるまいと言えるだろうか。

私は花が咲く必然性は信じたとしても、運命は信じない。計画も立てる。
しかし、その計画はいつも粗雑である。
粗雑な余地を残していると強弁しておく。
必要十分条件が揃ったとみるや事態をうっちゃってしまう。
そのようにした方がよいと計画するのではなく、うっちゃってしまう。
性癖がそのようになっている。

この斜陽の島で、この日O氏とバラサイトをみるということは、そうでなければならない必然の力が働いていたように思えた。

私は計画を立てつつも、計画の外にある。
自力でありつつも、他力に委ねて朗らかに笑う。
かくして私は偶然性を我が物としていく。
私の祈りの形はこのようなものかもしれない。
ナルホイヤといっても差し支えないだろう。

島行

本土からそんなに離れていないところに小さな島が浮かんでいて、そこに診療所があるけど週末医者がいないから働き手を探していたのだったが、たまさかI先生がそこに働きに行かれるとのことだったので私もついていくことにした。

島と言っても本土から40分くらいの船路である。

島は砕石で昔は潤っていたが、いまは寂れている。

港にはいくつも造船所のクレーンが生えている。

くたびれたドラム缶に火を焚いて、人が暖をとっている。

島には延喜式内の古社がましましていて、とてもよく祀られている。

島は幸いにして患者さんはほとんどこなかった。

私は一日、I先生のこどもたちと遊んでくらした。

彼らはなんでも面白がれる才能があった。磯辺から離れようとせず、みずたまりを木の枝でつつきまわしたりしてはしゃいでいた。もし磯だまりがあれば、なおさら彼らの心を弾ませたことだろう。

その島は、本土にちかいということもそうなのだが、どうにも島らしくなかった。

浜辺もなく、磯だまりもなく、漁船もあんまりなく、魚ではなく「のり」が特産品だった。

そして造船所のクレーンのむれが、さびついたサーカスの天幕張りみたいに、産業の鉄さびたにおいを撒き散らしている。

さび!この島はさびていた。海辺だからあちこちさびるのは仕方ないことだ。しかし時の流れや産業のうつりかわりが、この島をさびさせている。

そしてそのさびをどうにも憎めないのだ。

私とI先生はその晩「パラサイト 半地下の家族」をアマゾン・プライムで観た。

島で観たその映画は、映画としてとても極めて優れたものだった。そして島にとてもふさわしかった。

翌朝I先生たちと私は島を発つために港に出た。

島のこだかい丘に、まだ船には時間があるから登ることになった。

こどもたちは登ることそのものを楽しむことができる。

私は丘のうえから海を見た。

朝の日の光が海の上に反射してきらめいている。

ちいさな島のちいさな港が真下に見える。

本土の街から人を乗せに船がやってくる。

私たちも乗らなければならない。

島と私たちは、お互いの時間に戻っていく。

空谷子しるす

救急

救急の二か月が終わろうとしている。

ちかごろ余り眠れなくなった。

私は循環器内科医から侮蔑されているようだ。

他の研修医には優しい循環器内科医も私に対しては容赦ない。

私は自分が無能である意識をいよいよ確かめていく。

この二か月で分かったことは私は全く救急に向いていないということと、私は他の研修医よりも頭が悪いということだ。

人は得意なことで生きたほうがよい。

私はなにが得意なのだろうか。

以前診ていた患者さんがまた入院してきたので病棟まで会いにいった。

以前より弱った彼女は私のことを覚えていてくれた。

30分と短い時間を共有して私は病室から去ったが、「また来てくださいね」と彼女は言うのだ。

患者の人たちと話すのは私にとって一種のよろこびである。

しかし頭の悪い私は、ガイドラインやガンマ計算やさまざまな薬や指示のわからない私は、彼らを助ける術を持たない。

仲間である医療者たちの邪魔でしかない。

私はどうしたらいいかわからない。

空谷子しるす

覚書1

覚書1
 足の裏に忘れるなと書かれているマジックの文字をシャワーで洗い落としながら、忘れてしまったことを思い出そうとしていた。必死ではない、というのも私はその頃には忘れたことも忘れているのだから。左足を洗い、右足を洗い、左足を洗い、右足を洗い、左足を洗い、左足を洗い、左足を洗い、右足を洗い、右足を洗い、左足を洗い、左足を洗ったかもしれない。そしてまた左足を洗い、左足を洗い、右足を洗い、右足を洗い、右足を洗い、右足を洗ったかもしれない。 

 私は仕事の一つを思い出した気がして外へ出た。「どうして靴を履いてないの」と問う子供がおり、私はまた靴を探しにいくはめになった。 

 十分くらいだったか、二時間くらいだったか、車窓から田園風景が続いた。電車の子供がどうして靴を履いていないのかと問うた。どうせまた忘れたのだろう。私は彼に微笑みかけ、忘れてしまったんだと答えただろうか、それとも失くしたんだと答えただろうか、だから探しにいくのだと。 

 車窓には黒いスーツを着た男ののっぺりとした顔が映し出されていた。ネクタイはしていない。シャツも襟が乱れている。靴は履いていない。髭は生えていただろうか。今は、生えている。私は、と言ってよければ、私は河岸の芝に座り込んで、じゃらじゃらとした水の擦れる音を茫然と聞いていただろう。ある女性は目を見開いて川とは反対方向に電話を掲げて口の端を持ち上げていた。もう一人の女性は長い柄をつけて、より高く電話を持ち上げていた。光が粒となり川面を弾いているようだった。 

 もし仮に、と私は、と言ってよければ、私は、考える。私が会社員であるとすれば、どうだろうか、私はそれなりに優秀な会社員で、会社のために何かしらの成果を上げていた。書類を仕上げたり、会社員達の前で会社のためになるような何かしらのプロジェクトについてプレゼンをしたり、仲のそれなりに良い同僚や上司と米の汁を啜り合ったり、そうしているうちにある人と結婚して、子供が産まれたりした。 

 水面は次第に赤く滲んでいく。遠くで竹林の葉の擦れ合う音がする。私は鞄から書類を取り出し、確認するというより思い出すために、一字一句を読み上げる。企画書の類だろうか。それはこう述べる、夜明けを知るためには、夜を知らねばならないだろうか、そのためにはもう一度夜を知らねばならないだろうか、忘れる前に忘れるために、手を触れる必要があるだろうか、というのもそうでなければ忘れたことを私は思い出したふりさえもできなくなるだろう。第一に、手順を決めることである。もし私が、こう言ってよければ私が、靴下や靴を履き忘れるとすれば、それは特別なことではないのだ、それがあなたにとって初めてだとしてもそれはもう何度繰り返されたことか、私はと言ってよければ、私は、ただ、それを知らないだけであると知ることである。第二に、手順をその都度決めることである。常に決めることである。あなたが仕事を忘れたとしてもそれは大したことではない、もうずっとそうである、あなたはもうずっとそうである。たとえば、金木犀の香りがした、それがあなたの家の玄関に植えられており、借家となった今でもそれはそこにあるだろう。春になれば、青黒い毛虫がつくのだ。子供は気をつけよと祖母の声がするだろう。マニュアル式の軽自動車で君は学校の裏門まで送り届けられる。サッカーボールとサッカーシューズを持って、君は駆けていく。早く終われば良いと思った。運動は楽しいものではない。もちろんいつもではないが、練習の繰り返しは退屈で試合はひどく体を酷使する。 

 ひぐらしの時雨れる山をその子供が親とその兄弟と従兄弟と登っている。傘をさしている。山の喫茶店は薄明かりで照らされ、打ちつける雨音と静かなBGMが流れていただろうか。子供はグラスの水滴をなぞり、照明を反射する氷の表面を話を聞くともなしに聞きながら眺めていた。それは光の粒が彼を眺めているのだった。何度でも繰り返す。彼は何度も忘れている、忘れたことにも気づかずに、世紀の発見をしたと目を輝かしている、それは正しい、彼は確かに発見した、その都度忘れ、その都度新しい発見をした。君が覚えていようがいまいが、どうでもいい。 

 竹林の中には線路が横切っている。君は線路の前に立ち尽くしている。子供が駆けてくる。彼は私の前を通り過ぎてゆき、笑顔で振り返り、また前を向いて全速力で駆けてゆく。

患者さんのことなど7

「僕は青森で工場長していたんよ。もともとこのあたりの会社やったんけどね」

彼は下部内視鏡を受けるために入院し、その結果多量のポリープや癌らしき組織を認めた方だった。

喉が詰まると言うので上部内視鏡も行ったのであった。その結果大きな潰瘍性病変を認め、生検を行ったのであった。

それから全ての大腸ポリープを切除するため、引き続き入院となっていた。

「ちいさいころは満州でね。引き揚げて北海道に行ったけど身寄りがないので、東京のおばのところに行ったんよ…」

それからこの地の工場に就職し、さらに青森の工場長を任されるに至ったらしい。

「工場が長いからね」

と彼は言った。

「三交代勤務のしんどさはよくわかってるよ。看護師さんは大変や。僕らも夜間の故障があったら、朝が来ても直るまで帰れないからな…」

彼はたいへんな勉強家で、自らに行われた処置や投薬をことこまかに手帳に記録していた。

「若い時からのくせなんよ」

と彼は言った。

「一生勉強や。医者もそうやろ」

上部内視鏡の生検の結果、彼は進行食道癌であった。

主治医から病態の説明を受け、それから私がしばらくしてから彼の床に訪れた。

「食道癌…」

彼は泳ぐ目で宙を見た。

「問題は、どこが原発なのかということや。大腸か、食道か…」

彼はぽろぽろと泣いた。

「どこで手術を受けるのが良いのかな」

彼はいろいろ自ら調べた結果、他県の大学病院に手術を希望して行った。

空谷子しるす

患者さんのことなど6

その方はS状結腸癌の術後であった。

「若い頃は臨床検査技師やったんやけどね」

いまは認知症患者のケアマネージャーをしているらしい。

「認知症患者の人が、弄便て、便をいじらはるでしょう。あれは便器が手水に見えてはるんかなと思うんよ」

彼女の若い頃にはまだ廁の外には手水があった。

上からブリキの缶が吊るされていて水が入っていたり、水の入った陶器の器が置いてあったりしたのだ。その水を使って手を洗う。

「認知症患者の人たちもそういう年代やから、ぼっとん便所の世代やから、水の張ってあるところに便があると『手水に汚いものがある』と思うらしいんやね。それで掬って取り除かなあかんと思うんやと」

そんなものかなと思った。自分はブリキや陶器の手水はいまだ見たことがない。

「それで掬って、でも自分の手に汚いものがついているし、あわてて壁になすったり、どこかに隠したりするのよね。彼らも『なんとかしなあかん』と思ってるのよ。理性はあるんよ」

彼らの時代の考えや文化を知らねば認知症を知ることは難しいという。

「それにしてもネ」

ふと懸念の色が彼女の額にかかる。

「切り取った私の腸の病理、どうなってるんかなあ」

彼女は元々臨床検査技師だったから、そういうことが気になると言った。

「私もむかしは標本作ったりしていたけど、40年も前の話やからね」

彼女は寂しそうに微笑んだ。

「まだ結果はさすがに出んよね」

断端から腫瘍の細胞が出るか出ないかは、たしかにまだ時間のかかるようだった。

「そうよねえ」

困ったように微笑む彼女は窓の外の田ンぼや団地を眺めるのである。

外は良い天気だ。

「そうそう、孫が音楽やっていてね、演奏を動画にして贈ってくれたんよ…」

空谷子しるす