『病棟に頼らない地域精神医療論 精神障害者の生きる力をサポートする』

夢日記を自動で作成してしまう人工知能ができたら、私は夢を一生懸命思い出す努力をしなくて済むようになるだろうか。夢には飛躍がある。ツェズール(休止符)というらしい(中井久夫)。人工知能はツェズールをどう処理するだろうか。ツェズールのある夢が健全な夢である。悪夢にはツェズールがない。もし人工知能がその飛躍を取り繕い、休止符のない物語に仕立て上げるのであればそれは悪夢である。

病院ですることはたいてい人工知能で事足りる。機械的診断や機械的処方なら人工知能のほうが間違いが少なくて良いくらいだろう。眠れない?眠れる薬を出しましょう、増量しましょう、種類をかえましょう。声が聞こえる?幻聴を和らげるお薬を使いましょう、増やしましょう、もっと良い薬を試してみましょう。症状ベースで薬を出すことは人工知能の得意とするところだろう。精神科医はいらない。

本書の中で薬物療法の項があるが、薬物についてはほとんど語られない、むしろ訪問診療では病院で診療しているときも薬を処方しなくて済むことが多いという。環境調整やリハビリなどが第一の処方になるようだ。社会的処方という言葉もある。紙にどうしたら良いか書いて渡すことがある。これも処方と言えないこともない。その紙をかかりつけ医に見せたら、これが紹介状かと激昂した医者もいるとかいう。

私が子供の頃、祖父に何か言葉を書いてほしいとせがんだことがある。祖父は真実一路と紙切れに書いた。心に響いたかどうかは別として、ずっと覚えている、これも処方だろう。遠い未来に届けられる言葉もある。病棟に頼らない、地域を耕すとはどういうことか。まず、患者を地域へ移行させるのではなく、まず医療者から地域移行を図ること。ただ追い出して受け皿もないというのでは困る。患者が地域住民に慣れるのではなく、まず地域住民が患者に慣れる必要もある。

NPO法人は地域と医療を結ぶ架け橋になることができるかもしれない。健康カフェでも、不健康カフェでもとっかかりはなんでもいい。結び目を作っていく。医療とだけではない。教育も。子供との結び目も作りたい。教育はするだけではなく、されることも含んでいる。一方的ではなくSide by Side(横並びの関係)がよい。収益を回すことも考えたい。NPO法人で得た利益を衣食住が足りない人へまわせたらよい。YOUTUBEなどへ投稿した学習動画などから得られる広告費などは微々たるものだろうが、潔癖である必要はなく、自分たちのお小遣いとはしないようにだけ留意して必要なところへ再分配できるようにする。困った子供たちや大人のための寺子屋、駆け込み寺のような場所でもあってほしい。思春期の相談窓口でもあってほしい。そこへ訪問看護ステーションと医療法人も結びつける。親も子供もまとめてみる。住民として住民をみる。これは近所のおばさん、おじさんprojectと言ってもよいかもしれない。

何も神さままで引っ張り出してくる必要はない。ほどほどの超越していない他人こそ時の氏神となることがある。私は間抜けな近所のおじさんでよい。病棟に頼れなくなったことで症状がかえって軽くなったという。頼れないからこそ、ということがある。病院は精神医学化した患者を作る。患者を精神医学化せず、地域の住民として、おじさんとして、ちょっと偏ってはいるがものをある程度は知っているらしいおじさんとして結び目を作っていく。

私はどうしてもリゾームを想起してしまう。樹木のような縦の繋がりではなく、横の繋がりで、分野さえも横断する、それでいて土壌ごとに繋がり方は異なっていてよい、むしろ地域ごとに相応しい繋がりを模索すべきだろう。本書の中で言われる地域を耕すとはそのような根茎方式で地域の単位で適切な社会的紐帯、共同体を形成していくことではないか。決してトップダウンとはせず、かといってボトムアップにある地域で成功したモデルを他の地域でも適用していく、というわけではない。地域ごとの最適解、最も相応しい繋がりを、他所からみたらいびつにみえてもその地域によってはこれが一番落ち着くのだという場を形成していくこと、これが言うなれば地域ごとモデルとして現実的で実践的なスタイルなのではないか。

地域ごと、というのは小さく見えたとしても大きな価値観や倫理観の転換であると思う。これはまるごとアートの領分でもある。地域ぐるみで取り組む壮大なアートであろう。

休止符がない夢は悪夢であると言った。人工知能は夢や創作をある種の悪夢へ落とし込んでしまうかもしれない。地域ごとモデルに人工知能の入り込む余地はない。それはおじさんでもおばさんでも子供たちでもよいが私たち住民にしかできないことである。地域というアートを作るのは病院でも企業でもない、医者でもない、私たち住民の繋がりである。

本書は地域で精神医療や医療だけでなく、地域から文化の復興を考えているすべての人にとって参考になるだろう。少なくとも地域の医療にとって医者は中心的人物とはならないしなるべきでもないということが読めば実感できるだろう。病院での序列は忘れたほうがよい。ソーシャルワーカーが、薬剤師が、看護師が、作業療法士が、或いはその人の生活を最も打つことになるかもしれないし、本当は誰がというのではなく人がいつのまにかそのコミュニティの中で癒されているという在り方が最も良いのだろうと思う。困った時はお互い様というように。そこでは誰が誰に何をが消失している、それなのにいつの間にか良くなっている、或いはどうでもよくなっている、問題ごと消失している、ということがあってよいだろう。

ほうちょうをもった女

6歳手前の娘と

娘:ほうちょうをもった男が電車にいたんだって
父:ねえ、こわいねえ
娘:ほうちょうをもった女が電車にいたらどうする?
父:うーん、こわいねえ
娘:そんなわけないじゃん、女の子は優しいもの。そんなことしないよ。
父:え〜そうかなあ、こわい女もいっぱいいるんじゃない?
娘:え〜、ももちゃん、変な人にはついていかないもん

消化器内科

消化器内科といえば緊急にて食道静脈瘤破裂や憩室出血が来る科であるが当院はゆるやかであるから時間外に研修医が呼ばれることはない。

研修医のやることは内視鏡の設置、移乗介助、鎮静剤の静脈路確保、生検介助、ルゴール液散布やインジゴカルミン散布介助、雑務であり、しかれどもやるべきことが明確なのは私にはありがたかった。

病態はどれをとっても分かりきることはない。わからぬものをわからぬでは話が進まぬからガイドラインを覚えて治療方針を立てよと言われる。私は私なりに必死を尽くすが、私の能力は至らぬからやりきるを得ぬ。

私は患者の方々とよく話す。彼らは寂しいのかしらぬがよく話してくれる。当院の周囲がのどやかな土地柄であることもあろう。

患者方と話す。神社に行って祈る。くたびれて眠る。相変わらず女からは相手にされぬ。いままで一度も相手にされたことが無い。このまま一生独身かとも思う。鏡を見て、おのれの醜さを思う。また神社に行って祈る。私には祈ることしかできぬ。

学生実習で神経内科を回ったときにさまざまな神経難病を拝見したのである。

若くして発症した場合、世間的に言う青春を諦めざるをえぬことが多くある。

チャプレンのごとき活動をする浄土真宗の僧侶が話してくれたことがあった。

「神経難病の若い男の子がね、お坊さん、あんたはいくら話しても僕の気持ちはわからないだろうと言うんですよ。だってお坊さんは学校も行って、仕事もして、結婚もしてるじゃない。僕はなんにもできないんだよ。お坊さんは僕の気持ちは絶対にわからないよ」

箕面の老師は言ったのである。

「司祭が一生独身なんは、いろんな都合で結婚できない人らの気持ちがわかるようにということもあるんちゃうかな」

私は神経難病患者のようにやむにやまれぬ事情もない。司祭のように自ら貞潔を誓ったのでもない。ただ女に厭われるのであって、それはある意味では最も惨めな立場なのかも知れぬ。

実用、実用の病院のことどもがうまくいかぬ。私は知能が足らず医者に向いておらぬと思う。しかし飯を食うためにやれる限りのことをやり、やりたくないことは極めてやりたくないと思う。

出町柳の柳月堂でケーキを食いコーヒを飲みながらこの文をものしている。

背後で女子大生がよい男をひっかける算段をしている。

私は現代日本社会から結果的に疎外されている。

日蓮のごとく正しいがゆえに世が逆らうと思うべきか。

もはや努めて楽しいことを探し求める時期に来ている。

空谷子しるす

ある老師の話5

マキシミリアノ・コルベ神父はアウシュビッツで餓死刑に処せられたポーランド人である。彼は妻子あるユダヤ人の身代わりになったのだった。収容所から脱走者が出た際に無作為にて処刑者を10人選ぶこととなった。それで選ばれた者のひとりが妻子ある男で、まだ死にたくない、私には妻子がいるのだと泣き叫んだ。それでコルベ神父は彼の身代わりを申し出たのであった。申し出は許可され彼は他の者と幽閉され餓死刑となった。驚くべきはこの非人道的刑罰に処せられた者はたちまち発狂するのが常であったが、彼は狂うどころか最後まで同室の者らを優しく励まし、祈り、共に歌って過ごしたのである。2週間の後に部屋が開けられたとき彼と3名の囚人はまだ息があった。彼らはフェノールを注射されついに息を引き取ったと言う。

「でもな、コルベ神父ははじめはユダヤ人差別をしていたんやで」

と箕面の神父は言うのだ。

「それが晩年は変わった。みんな完璧やないんやな」

マキシミリアノ・コルベ神父は熱烈なカトリックであり聖母をきわめて大切にする人であった。カトリックに熱心であればこそユダヤ人を嫌うこともあり得ることだったのかもしれないが、義とされる人にユダヤもカトリックも関係無かったのであろう。

「神父は奥さんがいなくて寂しいということはありますか?」

カトリックの司祭らは妻帯は禁ぜられている。

マキシミリアノ・コルベ神父が長崎にいた折、新聞が彼らの禁欲に驚嘆する記事を書いたと記憶している。

「身を焦がす性欲は彼らに無いのであろうか」云々とあり、長崎の人間はコルベ神父たち“聖母の騎士”らの禁欲と快活さを不思議に感じたのであった。

キリスト者の禁欲は常に不思議の徳であり同時に危うさを我々に感じさせる。

2000年代初頭のカトリック聖職者らによる性犯罪の報は世界中に波及し教会に深傷を負わせた。

フランスのアベ・ピエール神父は彼自身の思想としてカトリック聖職者の妻帯を認める旨を著書に書いている。

「そら若い頃は寂しく思うこともあったけどなあ」

神父は何気なく言う。

「70越えたら逆に誰か別の人間がとなりで寝てたら邪魔くさいと思うてるわ」

神父はさまざまなものを乗り越えて来たのだろうが、外皮が鍛えられたのみならずその魂が全く改められたのであろうか。聖パウロの書簡にあるようにキリストによって次第に自らの内側がだんだん変わるということがあるものであろうか。

「2000年代初頭にカトリックの性犯罪が世界的に問題となりました」

と私は言った。

「なぜあんなことが起きたのでしょう?あれに限らずひどい事件や事故が世界中で起きています。なぜ神様は彼らを助けなかったのでしょう」

「なんでやろうなあ」

神父は動揺しない。

「それはわからん。言ってしまえば、それは『私と神様の関係』ではない。『彼らと神様』の間になにがあったのかはわからない。常に私は『私と神様の関係』を考えるしかあれへんな」

福音書にもあるようにキリストは地上に平和をもたらすために来たのではない。キリストは剣を投げ込むために来た。人々は社会的紐帯という幻想から分断され、個々人として神に向き合うのが真実のところであるようだ。それはいっそ「スッタニパータ」のような原始仏教と近くすらある。神道の姿でもあるのではないかと私は思っているが私の考えが正しいかどうかは一生分からぬ。

「常に『神様と私』やな」

神父はそう言って酒を飲む。

空谷子しるす

プロブレムに基づく

素寒さんとの対話のなかで表題が話題になりました.ある患者さんの夫の話です.

その方はもと看護師で,故人の夫は医師でした.満州に生まれ,戦時に医療従事者として務められました.戦後開業しましたが,外科も内科もお産も中絶術までもされたというのです.これにはたまげました.いくらGeneralistでも今の医療現場でアウスはしませんね.そして鼻腔異物や縫合は看護師の方が処置をしていたとのことです.

個人的な話をすれば,私の祖母は,開業したとき(これも戦後すぐ頃のことです)耳鼻科と眼科を掛け持ちしていた,と聞いたことがあります.後ほど耳鼻科だけを,やっていましたが.

H

ぴーかん

ぴーかん

最近よく聞くお経のフレーズを
寝床でおもむろに発してみた

隣の5歳娘がただちに反応する

ぴーかん?

やや遅れて2歳息子も身を乗り出して応じる

ぴーかん!?

二人の嬉々とした声色は新しい玩具を見つけたようだ
言葉は精神にとって玩具のように機能することもある
だじゃれ、連歌、ラップなど玩具性が際立つ

ぽぱーぺ ぽぴぱっぷ

と言えば、谷川俊太郎の絵本だが、玩具そのものである

娘:ぴーかんってなに~?
父:・・・・ぴーかん、のんりき

娘、息子:ぴーかん!

素寒

はたらきつづける

5歳の娘と

娘:あした、おしごとなの?
父:うん、そうよ
娘:え〜、なんで?
父:う〜ん、だって、毎日働かないとお金もらえないものね
娘:はたらきつづけないといけないの?
父:うーん、そうね。ももちゃんは、今日だけご飯食べるの?毎日ご飯食べるの?
娘:毎日たべるよ
父:じゃあ、今日だけ幼稚園に行くの?それともこれからも行くの?
娘:これからもいくよ
父:ご飯を食べるのにも、幼稚園に行くのにもお金を払わないといけないものね
娘:じゃあ、幼稚園のバスにもお金をはらってるの?
父:払ってるよ
娘:ガーン!
娘:お金チョコ買わないと
父:え?
娘:お金チョコ知らないの?イオンで売ってるよ

素寒

ある老師の話4

「オメガ点」ということを彼は言うのである。

「オメガ点」というのはティヤール・ド・シャルダンの言葉であって、私もよくわからぬけれど、「神」と同義であろうか。

ティヤール・ド・シャルダンの著作を真剣にまだ読まぬからよくわからぬ。

さまざまなことがらは究極すると「オメガ点」に至るというのだ。

「僕はティヤール・ド・シャルダンを読まなかったら神父になるのやめてたと思うわ」と彼は言うのだ。

「オメガ点に至るのはなんでもええねん。キリストでも、念仏でも、禅でもいい。神道でもええと思う」

ティヤール・ド・シャルダンはオメガ点は「人間外」の領域だから、人間は漸近的にオメガ点に近づくのみでオメガ点になることはできぬという。その不可能を可能にするには「愛」が不可欠だとそう書いてある。

なぜ愛なのかはわからぬ。本にそう書いてあるのだが、記述をあちこち眺め回したがわからなかった。

「禅は自力の宗教でキリスト教は他力の宗教ですね」

と私は問うた。

「キリスト者のあなたが禅を認めるのは不思議な気もします」

「だからオメガ点なんや」

と神父は穏やかである。

「自力が合う人は禅をやればいい。他力がいい人は念仏でもキリスト教でもいい。行き着くところは同じ。オメガ点や」

神父の飄逸さは群を抜く。

彼の言葉は矛盾にまみれているようでありながら極めて普通であり、毒のようでいながら水のようにすんなりと腑に落ちる。居心地の悪さがなにもないので、朝夕の風のようで不思議この上がない。

「ティヤールドシャルダンは愛が不可欠だと言っています」

と私はまた問うた。

「神父は神様の愛を感じますか?」

神父は日本酒をのみながら何も変わらないのである。

「いつも感じるということはないな」

居酒屋の焼き鳥と日本酒と黒い木の卓と電灯の灯りが我々を灯している。

キリストの話をする席の中にキリストは同席していると福音書に書いてあったことを思う。

「でも神様が自分を愛していることを知っていたらいいんちゃう?」

神父はにこりと笑う。

空谷子しるす