近況

『プライマリ・ケア』という学会誌に、2020年に訪れたパリの記事が掲載されることとなった。
近況を150字で書けと編集部から指示されたので認めた。
せっかくなのでここにも載せておく。
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枝雀の提出した緊張と緩和が単に笑い話ではすまされないと最近考えている。
(身体を含めた)環境とライフステージの変化により主体に緊張が生じる。
高じればゆとりがなくなり乱数もでたらめも笑いもなくなる(中井久夫)。
統合失調症やPTSDではそれが極まる。
感染症、育児(発達障害でも定型発達でも)、終末期においても時に減圧が必要となる。
一切は循環の中にあるのだろうか。

素寒

一生遊ばないよ?

6歳娘が3歳の弟を説き伏せていた。

ねえ、それ返して
ねえ、貫ちゃん、それならもう一生遊ばないよ?
一生遊ばないっていうのはね
お母さんみたいになってもね
おばあちゃんになってもね
天国に行ってもね
ののさまのとこに行っても
もう一生遊ばないってことなんだよ
それでもいいの?
じゃあ返して

素寒

『現象学の理念』

3年ほど前のプライマリケア連合学会でビブリオバトルに参加し、本書を紹介した。
その時の原稿を残していたので掲載する。
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みなさんは患者さんをケアするとき、寄り添うとき、どうすればケアになるのか、寄り添うことになるのか、困ったことはありませんか?

私は、非常に困っています。
訪問診療で例えば終末期ガン患者さんと向き合うとき、
手を握って傾聴したり、関係性に着目したり、自律性に着目したり、痛みには麻薬で調整したり、家族と医療従事者と連携します。
しかし、十分に寄り添えている、などとは決して思えません。
思ったとたん「お前はこの苦しみを経験したことがないから分からないだろう」という心の声が直ちにわきあがってきます。

例えば、家庭医療で有名なマクウィニー先生は死にゆくひとに注意を払いなさい、と指摘しています。
それもただの注意ではなく、完全な注意を、と指摘しています。完全な注意とはなんでしょう。
非常に抽象的です。しかし彼はわざわざ言い直しています。
イギリスのジョン・フライ先生は16世紀の外科医のアンブロ・パレを引きつつもケアの重要性を再三指摘します。
科学には限界があり、キュアにも限界がある。しかし、キュアはできなくてもケアは常にできると。
この学会はプライマリケア連合学会ですが、プライマリキュアではなくプライマリケアです。

でも、ケアがなんであるかを端的に明言したものは私はみたことがありません。
従って、普段はわたしは、例えば終末期がん患者さんに接する時、非常に困ります。
はて、よりそうとは?完全な注意を払うとは?

でもそれは、もしかしたら本来的に概念として定義できないもの、であるからかもしれません。
そのような時、この本はヒントを与えてくれるかもしれません。

この本の著者エドムント・フッサールは現象学の創始者です。
皆さんも最近ケアの領域で間主観性という言葉を聞かれたことがあるかもしれませんが、あれはもともとフッサールの仕事です。
この本は彼の仕事の最初期のものです。
彼は、認識とは何か、を非常に深く深く問い考え抜きました。
彼は認識とは、直接に、明晰に、直観することだ、と繰り返し指摘します。
その時、その認識から概念は排除せよ、とも指摘しています。
なぜなら、概念は、外側にあるからです。
ではなくって、直接的に知覚されるもの、目の前にあるものをしっかりつかんで、そこに注意を払え、と言っています。

例えば、私が、自分は何者かと考えた場合
男性で日本人である私、2000年代を生きる私は〜と記述してもよいでしょう。
愛国心ある自分として記述することもできます。
自然に考えるとそうなるだろう、でも哲学的に考えるとは、そのように考えることではないとフッサールは言います。
私は日本人でなくたって私だ。私は男でなくたって私だ。
日本人だとか男性だとかは、外部の概念であり色眼鏡にすぎない。
そういった外部の概念に頼ら判断を一旦中止してみよ、現象をそのまま直観せよ。
色眼鏡を外しなさいと言っています。
これが現象学的還元です。

この本は哲学書ですから、もちろんケアについての本ではありません。
しかし、フッサールによると、苦しむ患者さんに寄り添うとき、どんな教科書にあるどんな概念で、この人に向き合えばいいのか、と考えるのではありません。
外部に頼らず、内へ内へ。
今認識していること、患者さんとの間で起きている現象をそのまま掴む。
目をそらすな、完全な注意を払え。そうですマクウィニーの指摘する完全な注意と重なってきます。

ケアが定義できないかもしれないと言いましたが、現象学的に言えば、ケアは相手ありきです。
ケアとは何ですか、と言った場合に、それは誰のケアですか、誰との間でおきている現象のことですか?という問いが立ち上がります。
したがって相手不在の簡潔な定義はできません。

哲学書はだいたいそうですが、読むのが非常に困難です。
僕はこの本を30回くらい読みました。
10回読んで薄ぼんやり
20回読んでなんとなく
30回読むと、ああなるほど
非常に難解で、時に放りたくなりますが、頑張って読んでみてください。
哲学は実学としては役に立たない、なんてことは全くありません。
必死にしがみついてみてください。
苦しむ患者さんに寄り添う時、逃げるな、退くな、今起きていることをしっかり見よ、感じよ、そんなフッサールの息遣い、励ましが聞こえてくるでしょう。

素寒

シタール

私の家にはシタールがあった。

父と母が新婚旅行にインドに行って買ってきたものだ。

それは土産物ほど安くはないが高級な楽器ということもないほどのもので、誰が弾くわけでもなく放置されていたのであった。金属製の弦をはじくと、清らかな水のように爽やかな音が出た。

シタールを聴くと肩こりが治るということを中島らもが書いていた。シタールの奇妙な波長が私たちを癒すのだそうだが実際はよくわからない。

私の家のシタールは猫が本棚の上から落として壊れてしまった。母がどういうわけか引越しのあとに本棚の上にわざわざ押し込めたのだ。シタールが嫌いだったのか、というと、いや大切なものだと言う。私の母は良くも悪くも女らしくなく、なさけというものに乏しい。母も小さいころから祖母の愛情の足りなかった女性である。名古屋の中村の地主の家であったが、曽祖母は早くに亡くなり祖母は義母に育てられた。試験の点は100点しか認められなかった。女性としては最初期に大学生となったことが祖母の誇りだった。そんな祖母だったから、私の母に対して温かい母の優しさなどはなかった。

金があっても人は幸せにならぬものである。

しかし金がなければ幸せにすらなれぬ。私はシタールを買うことを考えた。このところひどく肩が凝っていた。相変わらず私は異性の愛情という高級品は得られずにいた。私は一種の不感症であり、人の優しさを感じられず、つねに不安に脅かされている。だんだんと肩が重くなり、満足な人生を歩む同期の研修医のなかで、私はまたいつものように僻めしくなってきた。

シタールはそのあたりでおいそれと売っていないらしいことが分かった。

十字屋はシタールを売っていないことがインターネットの検索から了解された。

民族楽器を扱う店が寺町にあり、そこに置いてあると分かったので私は向かうことにした。

車を走らせながら私は父と母のインド旅行を想った。仏跡を見て廻る旅は楽しかったのだろうか。もし私たちの身の上がつつがなく過ぎていたなら、私はどんな人間になっていただろうか。人生は一切皆苦という実感が私の中にある。父は幼い頃から育児放棄され、就職先をひきはがされ、実家の商売を追われ、奈良の旧市内にあらぬうわさをばら撒かれ、透析と心筋梗塞に苦しんだ。父もまた一切皆苦であった。父方の祖父も小さいころから船場の丁稚にされたから、また愛情のない男であった。そうした苦海の連続の先に私がいて、そうした苦海のことばかりしか考えられない。私があらゆる人から注がれている愛情に気がつけば私は救われるのであろうか。イエズスやマリアは私を愛してくれているのであろうか。私に情緒と感受性があれば私は助かるのであろうか。

私のくだらない運転は三条駅に着いた。

三条駅前はほのかに暖かく、もう世の中は春なのだ。病院の中にいるうちに季節が分からなくなってしまった。たいした仕事もしていないのに、私は外のことがわからなくなっている。

寺町の楽器屋は明るかった。

男女の二人づれが音楽的なことを話しながら楽器を買っていく。

アジアが好きそうな女がアジア的な小楽器を買っていく。

私はまぬけなあほ面をさらしながらシタールを見ている。

「触ってみますか」とシヴァ神のように髪の長い男性店員が言ってくれた。

私は久しぶりにシタールを手に取った。なれない赤ん坊を抱くようにぎこちない私の手はシタールの首と丸胴を持ち、木の手触りが私に物質的な実感を与えた。

「シタールのピックはね、金属で指につけるのです」

と男性店員は言い、私は鳥のくちばしをふちどったような銀色の爪を指に挟めて、シタールの弦を弾いてみた。

あの日の音ではなかった。まだ家族が落ち着いて暮らしていたあの日の音では…

シタールは11万円ほどするらしかった。婚活だ何だと出費の多い月だったから私は購入をあきらめた。

私は部屋の中でシタールの音をインターネットで聴いている。肩こりが治る気はしないが気分は悪くない。

私がさまざまな、くだらない、つまらない思い込みや記憶や自らの歪んだ人格から逃れて、なにか意味のあるものを創り出せる日は来るのだろうか。それとももう過去のさまざまな事柄のために私の脳は萎縮してしまって、私は今生では祈りながら苦しみの無くなることを願いながら暮らすしかないのであろうか。それとも、もともとなにか意味のあることをする才能に欠けているだけであろうか。

能力がないなら無いで、享楽的に生きたいのに、私はそうしたことすらできない。

私はお金がもしずいぶん貯まったら、きれいなシタールを買うことを夢想している。

空谷子しるす

ぼけ、再び

道すがらボケの赤をみとめ、思わず立ち止まった。
20年ほど前に、やはりぼくを釘付けにしたボケ。
その出会いの唐突さに世界が少し揺れた。

一週前までは刺すような冷たい外気があった。
暖かくなった春の日差しに包まれると記憶がゆらゆらと、
ふと解離から覚める。

回診で寝て過ごす高齢者達にボケのことやユキヤナギも咲きそうなことを報告してみた。
みな認知症をもっている。
ある者は年相応に、ある者はすっかりいろんなものがわからなくなっている。

ボケがもし古い記憶としてあるならば、その索引性でもって何かを手繰りよせられないか。
歌を歌ってもらって手拍子をとるなどすると活気づく場面はこれまでにも経験している。

5人中3人は普段と変わらぬ無表情を維持した。
1人はほんまか、ととぼけていた。
同室の誰かが笑っているのが聞こえた。
おそらく、ぼけ、という音に惹かれたのだろう。
味をしめたぼくは追撃を試みる。
ぼけてますね、なんて失礼言ってるわけじゃないですからね、ぼけてるのはみんな同じですからね
ぼけを見たぼくがぼけた。
予想通り、同室の誰かの笑い声が大きくなった。

もう1人は泣きつつ笑った。
彼女にサクラとボケはどちらが好きですかと問うと、
知らん、
と返答があった。

知らん、
という快活な響きは我が家の3歳男児を思い出させた。
彼は好きなことを自分で訴えられるようになった。
しかし好きな理由を問うと、
知らん、
と明快に答え、爽やかな風が吹く。
彼も3歳で正しくツッコミを入れられるようになった。
順調に言葉の海を楽しんでいる。

両者は認知機能としてはどちらも十分ではないという点で共通している。
片や上り坂に、片や下り坂にいる。
機能が十分でない場合に日常生活の自立がままならず、サポートが必要となる。
それは高齢者であっても小児であっても同じだということが、両者を診ているとよく分かる。
機能が十分でないことに対する他者によるサポートが必要である。
しかし、医師(親)という他者の主体性が、ケアを受ける者の主体性を凌駕してはいけない。
いや、時に避けがたいこともある、がしかし。
機能、イメージ、他者の喪失とその外傷に関わることがライフワークとなるだろう。
物心ついたときから私のまなざしはなぜかそこに向かっている。

随分前に妻と議論したことがある。
花が咲いていると、君はだーれ?なんていうの?
と聞きたくなる。
君は気にならないのかい。
美しいと感じることが大事なのであって、花の名を知ることは重要だと思わない。
じゃあ君は、好きな人の名前が気にならないのかい。

花の名を知ることは、花に気をかけ、愛するということだ(寺尾紗穂)

いまわのきわの方針についての意思表示が重要であるとよく言われる。
ACPのP、planningは現在進行形であって、動名詞ではないなどと。
心肺停止時に延命処置をするかどうか以外に、
好きな歌や、好きな花など意思表示しておくとよいかもしれない
好きな食べ物でも、好きな馬でもいいだろう。

僕がボケた暁には、
真っ赤なボケが咲いたよ、だとか、
ハクモクレンが妖しくも美しいよ、だとか
サルスベリは雨に濡れるとやっぱり色っぽいね、
などと話しかけて頂きたい。

素寒

小児科

2月は小児科だった。

当院に産婦人科はなく、NICUはあるけれどそれほど忙しくない。

一日外来に張り付いて、ときどき診察や小児採血をやらせてもらった。

川崎病の子が来た。

よく泣く子であった。アンパンマンのドキンちゃんが好きで、ちいさなドキンちゃんの人形を「キンちゃん」と呼び離さない。

4日間の発熱があり、眼球結膜の充血、手足の硬性浮腫、体幹部の皮疹、苺舌(私は初めて苺舌というものを見た)と典型的な徴候を認めて川崎病と診断された。

ただちに彼は入院となった。

彼の母は彼をなでながら言った。

「◯◯ちゃんはいろんな目に合うなあ」

母親は彼を慈しみの目で見た。

「ぜんぶお母ちゃんが代わってやれたらええんやけどな」

幸い一回のIVIgで熱も下がり、血小板も大して増えなかった。冠動脈も拡張しなかった。

よく泣く子だったが元気になって帰っていった。しかしどうやらすっかり病院に懲りたようで、外来に来るたび泣いている。優しい子である。

兄がたまたま電話してきたのである。

電話の用件は彼の異動についてであった。その話が済むと、話題は私の仕事に及んだ。

「川崎病の子を診させてもらったんだよね。僕は指導医にくっついていただけだけど…」

と、私は川崎病の子を診て、幸い彼が元気になって帰っていったことを話した。

すると彼は妙に嘆息して言った。

「お前自分で気づいていないかもしれないけどな」

仕事で疲れた兄は急に身を乗り出したようだった。

「川崎病の話をしているとなんかいい感じだぞ。おかげで元気もらったわ」

私はよくわからないことを言われたので、そうか、それはよかったとのみ返した。

彼は妙に機嫌が良くなり、またなにかあったら話せよ、おれも話すからと言って電話を切った。

兄はときどき妙なことを言う男である。

勘にすぐれ、能楽を好む。

兄は私の言葉に何を感じたのかはわからない。

ただ、私は外来に張り付きながら、猫ひっかき病疑いやら手足口病疑いやらの子たちを見ながら、

なんとなくこうしたことはたしかに意味のあることかもしれないと思った。

私はドン・ボスコ師の本を改めて読み返す気になった。

小児神経の先生が南方熊楠の熱心なファンであったことも私の気に入った。

空谷子しるす

覚書2

 名前は忘れてしまったが、仮に山田さんとしておこう。その山田さんさんは私の手を引いて歩いていた。振り返り大丈夫?と言った。私は頷いた。しかし何度も躓いた。躓くたびに山田さんは振り向いて立ち止まった。そして私は頷いた。

 高いビルに挟まれた細い路地だった。ビルの隙間から雲が流れいく。手前では次々車が横切っている。座るところもないので、私たちは立ったまま休憩をした。だいぶ歩けるようになったと山田さんは言った。

 二足歩行になる前は私は四つ足で這っていたものだ。私は顔を上げるのもつらくてずっと地面を見ていた。砂利道よりも芝生が良い。雨の日よりも晴天が良い。土のにおいが好きだった。蟻が私の腕を時折間違えて登ってくる。そして間違えたことにも気がつかなかったかのようにいずれ同じ腕や別の腕から降りてくる、そして私よりも速く進んでいく。腕が疲れると、私は仰向けになり空を見上げた。子供たちがボールで遊んでいる声や音楽に合わせて踊りを踊っているらしい声が聞こえた。

 男が視界を遮った。私は体力を節約するために姿勢を変えず男が話し始めるのを待った。四つ足歩行は問題だという趣旨のことをどうやら言っていたらしい。私は話を長引かせないために、同意しますよという態度を示すつもりで微笑んだ。非難がましい目つきには慣れていた。そして男の助言の前には何もないことが明白だった。

 彼女を仮に山田さんと呼ぶとしよう。私が5日か1週間か、2週間か、横たわっていると、大丈夫ですか、としゃがみ込んで尋ねた。寒くもないし、暑くもないし、季節はいつだろうか。5月でも10月でもよいだろう。彼女が心配したのは寒さや暑さのことではなかったし、少なくとも私はそのような感覚に煩わされることなく横たわっていた。私は彼女の心配には同意いたしかねた。無為に見放され疲労を覚えた。これ以上の質問に晒されるくらいであれば、この場を彼女に明け渡そうと観念した。

 記憶違いがなければ、というよりほとんど記憶違いかもしれないが、私は四つ足をやめて二足歩行を始めた。逆だったかもしれないが大した問題ではないだろう。私は犬のように排泄すると汚れが少ないことを心得ていたので直立や座って用を足すことに戸惑いを覚えた。それでも慣れてくると最初からこうしていたような気がしてくるもので不便に感じていた頃の記憶も次第に薄れていく。

 しかし彼女は人の条件を満たすためにはもう少しうまくやらなければならないとでも言いたげだった。少し褒めてから、たとえば立ち上がる前に紙でお尻を拭くともっと上手にできるかもしれないとか、手を洗うときは石鹸をつけるとよいかもしれないとか、段階的に次の課題を提示することであるべき姿へ近づけようとしていた。私はどこまでも協力するわけにもいかないと思った。いずれにせよもうすぐ私の記憶は途絶えまた一からやり直しになるだろう。彼女は笑顔がいつも少し曇っていた。レポートの締め切りが迫っているのかもしれない。それでも申し訳ないがじゅうぶんに協力することはできなかった。