覚書2

 名前は忘れてしまったが、仮に山田さんとしておこう。その山田さんさんは私の手を引いて歩いていた。振り返り大丈夫?と言った。私は頷いた。しかし何度も躓いた。躓くたびに山田さんは振り向いて立ち止まった。そして私は頷いた。

 高いビルに挟まれた細い路地だった。ビルの隙間から雲が流れいく。手前では次々車が横切っている。座るところもないので、私たちは立ったまま休憩をした。だいぶ歩けるようになったと山田さんは言った。

 二足歩行になる前は私は四つ足で這っていたものだ。私は顔を上げるのもつらくてずっと地面を見ていた。砂利道よりも芝生が良い。雨の日よりも晴天が良い。土のにおいが好きだった。蟻が私の腕を時折間違えて登ってくる。そして間違えたことにも気がつかなかったかのようにいずれ同じ腕や別の腕から降りてくる、そして私よりも速く進んでいく。腕が疲れると、私は仰向けになり空を見上げた。子供たちがボールで遊んでいる声や音楽に合わせて踊りを踊っているらしい声が聞こえた。

 男が視界を遮った。私は体力を節約するために姿勢を変えず男が話し始めるのを待った。四つ足歩行は問題だという趣旨のことをどうやら言っていたらしい。私は話を長引かせないために、同意しますよという態度を示すつもりで微笑んだ。非難がましい目つきには慣れていた。そして男の助言の前には何もないことが明白だった。

 彼女を仮に山田さんと呼ぶとしよう。私が5日か1週間か、2週間か、横たわっていると、大丈夫ですか、としゃがみ込んで尋ねた。寒くもないし、暑くもないし、季節はいつだろうか。5月でも10月でもよいだろう。彼女が心配したのは寒さや暑さのことではなかったし、少なくとも私はそのような感覚に煩わされることなく横たわっていた。私は彼女の心配には同意いたしかねた。無為に見放され疲労を覚えた。これ以上の質問に晒されるくらいであれば、この場を彼女に明け渡そうと観念した。

 記憶違いがなければ、というよりほとんど記憶違いかもしれないが、私は四つ足をやめて二足歩行を始めた。逆だったかもしれないが大した問題ではないだろう。私は犬のように排泄すると汚れが少ないことを心得ていたので直立や座って用を足すことに戸惑いを覚えた。それでも慣れてくると最初からこうしていたような気がしてくるもので不便に感じていた頃の記憶も次第に薄れていく。

 しかし彼女は人の条件を満たすためにはもう少しうまくやらなければならないとでも言いたげだった。少し褒めてから、たとえば立ち上がる前に紙でお尻を拭くともっと上手にできるかもしれないとか、手を洗うときは石鹸をつけるとよいかもしれないとか、段階的に次の課題を提示することであるべき姿へ近づけようとしていた。私はどこまでも協力するわけにもいかないと思った。いずれにせよもうすぐ私の記憶は途絶えまた一からやり直しになるだろう。彼女は笑顔がいつも少し曇っていた。レポートの締め切りが迫っているのかもしれない。それでも申し訳ないがじゅうぶんに協力することはできなかった。