ずるいでしょ?

最近、7歳、4歳、2歳の子供たちの間でずるさ自慢が流行っている

同じ食事でも、大きさや味のよい部位などでより優れたものを手にしている時に、嬉々として自分がずるいポジションにあることを顕示する

ずるいでしょ?
と承認を求める

子の誰かを抱っこしている時も、羨望のまなざしが刺さる
ずるいという声なき声が聞こえてくる

このように、他者の欲望としての<私>の欲望(ラカン)は自然な家庭で容易に観察される

同胞は親の愛を奪い合うライバルである(フロイト)
自然状態では万人が万人に対して闘争する(ホッブズ)
それでは身がもたぬ
争いは辛い。痛い。血が流れる。
よって、現実原則が上からふってくる、父に委ねる(去勢、フロイト)
自然権を国家、リヴァイアサンへ譲渡する(ホッブズ)
快感原則から現実原則へ(フロイト)
争いから平和へ、現実の美しき妥協へ
やはり対話しかない
マスターベーション(のみ)ではなく、交歓も
モノローグ(のみ)ではなく、ダイアローグも
高まった緊張を対話でドレナージしなければならぬ
全ては循環のなかにある

だって、そうでしょう
権力は監視しなければ、などと言う時、
ダイアローグをしましょうなどと、ぬけぬけと言う時、
それはセクハラだとか、パワハラだとか、喫煙はダメだとか他者に言う時、
あなたは、あなた自身の権力を自覚していますか、
と、私は気になる
卑近な場面で言えば、あなたが父親である場合、あなたは子に発揮している権力に自覚的ですか
私は私が日々行使している権力のあれこれに、日々うんざりしている(だからなんだという話なのだが)
私が怒った時に、子のまなざしが、いの一番に私に注がれるとき、やりきれぬ思いがする
そのようにまなざさないで欲しいと願う
(随分と身勝手な権力だこと。そしてそのことにまたうんざりする)
子と接するのみならず、誰と話す時も、権威的な自分が立ち上がる様が自覚されるとき、その刹那、ないし事後的にうんざりする

かくして王様は孤独である

だから植物がよい
植物には権力の無自覚性がない
また同じ場所で私に挨拶をしてくれる。同じまなざしで。
今年もヤマボウシが、アジサイが咲き始めた
タチアオイという佇まいの美しい、気品高い花とも出会った
愛おしい

王様でなくとも、権力はあらゆる場面でやはりある
地位や立場、人生経験の差などといった差異だけではない
方言の差といった瑣末な差異ですら生じる
情報の非対称性はポジションに関わらず常にある
<私>と<あなた>の差だけ、そのままある

2者が話すときdia(2人の間で)logueにならないのは、どちらか一方が、あるいは両者がmonologueしているからである
我々はみな王様なのである
王様は孤独で最も退屈なのだ(パスカル)
ユゴーの描くルイ11世も退屈にうんざりしている(ノートル=ダム・ド・パリ)
孤独な王様たちがなんやかんやとtweetしている

モノローグもよいのだ
もちろんよい
自分と対話をすることは耕すことだ
マスターベーションもよい
おのが想像力を自由に発露させればよい
しかし、この我が身我が土地という必然性を離れれば絶望が待っている(キルケゴール)

他者と交わるのであれば、
ヤマアラシ同士が暖め合うことを意図するならば(ショーペンハウアー)
お互いのトゲでもって傷つけ高まる緊張をドレナージしなければならぬ

それは、一方的に一者が勝ち、他方が負けることではない
それでは、快感原則に身を任せた自然状態にすぎぬ
めいめいの小さな王様が、おのが土地の取り分を争って悲喜交々しているに過ぎぬ
王位を維持する限り、交歓は起きない
そこに支配はあっても愛はない
玉座から離れぬ者の前戯はさぞつまらんだろうな
相手が本当にイったかどうかも分からんのだろう
それはマスターベーションである
同様に、抽象のモノローグはマスターベーションである
交歓が必要なのだ、具体的な愛のある交歓が
愛し合わければならぬ
自我の玉座からおりたマイノリティ同士が愛し合うのだ(近頃の若者はそれを脱構築と言うらしい)
私はマイノリティである
しかし、あなたもまたマイノリティなのだ