大澤真幸・永井均、『今という驚きを考えたことがありますか マクタガートを超えて』、左右社、2018年

大澤真幸・永井均、『今という驚きを考えたことがありますか マクタガートを超えて』、左右社、2018年

マクタガート「時間の非実在性」

 本書は大澤によるマクタガート「時間の非実在性」についての論文の解説、大澤と永井の対談、大澤の「時間の実在性」についての論文という三部構成をとっている。

 便宜のため、私たちもマクタガートが何を述べたか、そこから確認していきたい。

 ジョン・エリス・マクタガートはイギリスの哲学者で、1908年に「時間の非実在性」という論文を書いた。彼はまず時間上の位置を区別する仕方、時間を表現する仕方には二つあるとし、A系列とB系列とに分けた。A系列は「過去(すでに)/現在(今)/未来(まだ、やがて)」という区別で、B系列は時間的に「より前(先)か、より後か」という区別である。具体例としては、A系列としては「かつて[過去]本能寺で織田信長は明智光秀の襲撃を受けて自害した」という言明が属し、B系列としては「大坂冬の陣の後に、大坂夏の陣があった」という言明が属すことになる。B系列はすべての時点が均質であるが、A系列には、特異点=現在があり、また現在に対して、過去であるか、未来であるかにも、根本的な質的相違がある(p14)。

 マクタガートはA系列はB系列よりも基礎的であるとした。時間が存在するためには、変化[ある出来事が未来である状態から、現在である状態を経て、過去である状態になること]が可能でなくてはならない、A系列においてのみ変化が可能である、そうした理由で彼はA系列が基礎的であるとしたのである。

 そこから、マクタガートはA系列には矛盾が内在しているから、という理由で「時間は実在しない」と証明する。証明の骨子は以下のようになる。

(1) 「過去である」「現在である」「未来である」は互いに両立不可能な術後である。つまり、これら三つの中のどの二つの組み合わせも両立できない。

 ある出来事に関して「過去でありかつ現在である」も「過去でありかつ未来である」も「現在であり未来である」も、いずれも成り立たない。

(2) どの出来事も過去であり、現在であり、未来であって、三つの性質のすべてをもつ。

 これは、次のような意味である。ある出来事が「現在である」とする。このことは、その出来事が「未来だった」ということでもあり、かつ「過去となるだろう」ということでもある。つまり、その出来事は、「現在」「未来」「過去」の三つの述語をすべてとる。

 同じように、ある出来事が「過去である」とする。そのことは、その出来事が、「現在だった」ということであり、「未来だった」ということでもある。

 ある出来事が「未来である」とする。そのことは、その出来事が「現在となるだろう」ということを、そして「過去となるだろう」ということを意味している。

 もともとA系列は、変化を可能にする、というところに強みがあった。変化が記述できるためには、すべての出来事について「未来である」「現在である」「過去である」という術後が付けられなくてはならない。

(3) (1)と(2)は誰がどう見ても矛盾している、それゆえ時間は実在しない。

(証明終わり)

 これに対する、素朴な反論としては、出来事が同時に過去であり、現在であり、未来であるならば矛盾だろうが、出来事は三つの性質を順番に帯びるのだから問題はないだろう、というものがある。その反論に対する反論は、上記の反論が時間の実在の証明をするときにすでに時間の実在を前提としてしまっているというものである。「かつて、未来だった」といった場合、「過去において、未来だった」ということだが、この「過去において」とか「未来において」とか言うことはそもそも仮定に仮定を重ねることであり、証明において禁じ手であろう。大澤はそうした素朴な反論に対し、マクタガートを擁護する立場からのダメットの再反論としての論証を紹介しているが、くどいのでここでは割愛する。

<私>は存在しないかもしれない

 第2部は大澤真幸と永井均の対談である。永井はマクタガートの議論を、<私>論、つまり人称の問題と関係づけている(p37)。マクタガートが論じた時間の問題と人称の問題は、ある意味で同じことなのだと。この場合、<私>に対応するのが、A系列における「現在」となる。

 永井は「神はすべてを知っているゆえに絶対にわからないことがある」と論じている。神は全知であるがゆえにわからないことがある。それは、「すべての人にとって世界があるはずなのに、この世界はなぜか<私>に対してだけ現れているという感覚、世界の存在と<私>の存在が同値であるという感覚」(p38)である。「神の無限の知においては、根本的に失われてしまうものがある」(p39)。

 「何であるか(〜である)」(本質)と「現にある(〜がある)」(実存)は別のことだが、「出エジプト記」で神は「私は存在するものだ」と答えた。それは、「私は実存することが本質である」、在ることそれ自体が本質であるものが神である、と言ったことになる。しかし、在ることそれ自体が本質であるのは実は<私>である、と永井は言う。デカルトが欺く神の攻撃に対して、「私が『私は存在する』と思ったなら、そのとき私は確かに存在している」と答えた。神とデカルトは合わせ鏡のようになっており、デカルトは、<私>の存在の問題が神の存在との対抗関係にあることをはっきり示した人であるという(p41)。

 <私>は、神でさえ識別できないような種類の、客観的には実在しないもので、ただその内側から「これだけが現実に在る」と捉えるしかないものである(p42)。このような事態を永井は「無内包の現実性」と呼ぶ。「内包」というのは、ある対象の集合に関して、その対象が共通にもっている性質を言う。この性質によって、この集合は他の集合から区別されるのである。例えば、痛みを考えた場合、胃潰瘍の痛みと膝の痛みは内包的に区別できるが、<私>の痛みを他人の痛みから内包によって区別することはできない(ベン図を描いたときの共通項がない、と考えるとわかりやすいだろうか)。<私>の本質が実存と一致してしまうというのも、「無内包の現実性」の一種であり、この場合、「本質」というのが「内包」に対応している(p43)。「<私>なるものを定義する内包(本質)は、それが現に存在しているということ以外にはない」。現実性(実在性)はあるけれども、その現に存在しているものを識別する内包(本質)は、その現実性(現に存在しているということ)以外には何もないのだから、これも「無内包の現実性」ということになる。

 <私>が<私>について知っていることは、ある意味で、神が神自身について知っていることと同じである。どうしてそうなるかというと、ほんとうは、<私>の持っている「ただ存在するもの」という本性を、人間は神に転移しているからだ。「実存=本質ということを、神に転移したおかげで、人間自身は<私>の存在に驚かないですむ」のである(p44)。

 <私>には、「どこまでもある他者との同型性と、それにもかかわらずどこまでもある落差、という二重性がある」(p45)。この落差、否定性を含めて、他人と話が通じてしまう(わかるような感じがする)ことこそが驚きであると永井は言う。

 この二重構造はマクタガートが指摘する時間の矛盾に近い。自己と他者の問題と時間の問題はきれいにつながるという(p47)。そして、永井は<私>と現在は同じだと考えている。<私>に言えることと、時間−厳密にはA系列の時間−について言えることがパラレルであると、時制と人称の間に同型の問題をみている。私と今とは同じものだ、同じものの二つの側面だ、とも言える(p55)。

 永井はある意味で不思議な矛盾を認めるところからスタートする。矛盾があるから存在しないというのではなくて、「まさにその矛盾がありつつ、存在している」ということろから始まる。マクタガート流に考えれば「時間も私も存在しない」ということになるが、永井としては「存在しないものが存在することが、驚きである」と考えている、と大澤は言う(p72)。

 「僕にはこう見えているけれど、君にはそう見えているよね」という視点の互換性を想定しているときの他者の現れ方は、過去的現れ方と似ているのではないか、と大澤は言う。ほんとうは絶対的な差異があるはずなのに、他者を私と地続きで同じような存在と見ている。しかしほんとうは絶対に互換性は効かない。そのように他者が他者性をあらわにしているときは、その他者は未来のあり方をしている(p81)。

 私たちの他者への接し方はこのように二種類あり、ほとんどの場合は過去的対し方をしている。このとき、私と他者との架橋不可能な差異が相対化されてしまっている。しかし、ときに、私と他者とのまったく定義できない差異が露呈する。そのときの他者は未来的なものとして現れている。同じ二重性が、時間のレベルでももちろんある、こう考えたらどうかと大澤は提案している。

 すべてがわかったときにこそわからなくなるものがある(p85)。永井の議論は、それが人間の最も基礎にあること証明している、と大澤は言う。さらに、永井は実は、神のほうが実在を捉えていて、<今>とか<私>とかは実在しないのではないかと結論づける。

大澤真幸「時間の実在性」

 第3部は大澤による「時間の実在性」の証明である。

 大澤は上述したような永井の洞察も踏まえ、<私>:他者=<現在>:過去(または未来)という比例式をまず示し、<私>(と他者)や人称性という角度から、時間に迫っていく。

 大澤の問いはこうである。どうして、<私>は、他者もまた<私>であることを知るのか。ここで、他者がまた、それ自体、独自の<私>でもあるような状態として現れているとき、その他者を<他者>と表記するとこう問うこともできる。この<私>にとって<他者>は端的に存在しない、ということは事実であろうか?

 ここで大澤はレヴィナスの<顔>を参照する。レヴィナスが<顔>と呼んでいるのは、一般に、<私>が眼差しているとき、この<私>を眼差す(眼差しを返してくる)対象の一般である。つまり、<顔>は、<他者>の一種である(p115)。<顔>の変奏が<皮膚>である。すなわち、<私>が触れているとき、<私>が触れる対象こそが、<皮膚>である。レヴィナスは、<顔>や<皮膚>においては、「そこにあるもの」が「そこにないものであるかのように」求められる、「現前(=現在)」と「現前からの退却」とが同じことになってしまう、と述べている。

 愛撫とは、<私>が触れる皮膚が、<私>の皮膚や指へと触れ返すものとして、つまりそれ自体、応答するものとしてある、ということである。だが、<私>が触れているそれを、何ものかとして把持し、同定したとたんに、「それ」は、<私>に触られるだけの対象へと転じてしまう。レヴィナスは「愛撫とはなにも把持しないこと」だという。<私>が触れ、そして<私>へと触れている「それ」を、<私>が何ものかとして同定し、<私>へと現前(=現在)させようとしたときには、「それ」は、もはやそこにはないものとして、つまり退却してしまったものとして現れるほかない(p116)。

 <顔>についても、<皮膚>と同様のことが言える。<私>が、他者の<顔>を見ているとき、<他者>は、つまり<他者>のまさに<他者>たる所以(他者の<私>)は、すでに、(<私>への)現前から退いてしまっている。このような<他者>の逆説的・否定的な現前の様態を大澤は「遠心化」と呼ぶ。他方、<私>に帰属している、知覚や感覚を含む心の働き、<私>が見たり、感じたりしている、この状態を<私>への「求心化作用」と呼ぶ。

 <他者>は、<私>に対して遠心化作用を通じて現れる。<他者>の痛みは<私>にとって痛くない(<私>は<他者>を直接には知覚できない)、このような不可能性を媒介にして、<他者>が、<私>に対して開示される。

 このような遠心化作用によって、<他者>はどこに去ったのか?<他者>はすでにいない。ということは、かつてはそこにいた、ということでもある。すなわち、<過去>へと去っていったのである、と大澤は述べる。ここで、時間という主題へと回帰する。

 <他者>の存在の様態−「すでに(去った)」という様態−が、「過去」なるものを存在せしめる。「過去」がまずあって、<他者>がそこに逃げ込むのではない。逆に、<他者>の、<私>からの退却のベクトルが、過去という時制を切り拓くのである(p119)。<他者>は、常に、<私>が見出す状態よりもわずかだけ余計に死に近づいている。<私>が直接に見るのは、<他者>が去ったあとの痕跡である(p120)。このように<私>と<他者>の間の差異は、「現在/過去」と、時間的なずれという形式をとる。この不可避に生じる時間的なずれを、レヴィナスは「隔時性(ディアクローニー)」と呼ぶ。

 上述したように、<他者>の逆説的な現れが、過去の存在を可能にする。こうして、過去を実在的な次元として言及、活用することができる地点に到達した(p120)。ここで、大澤はこれまでの考察の成果を、ジル・ドゥルーズの「純粋過去」の概念へと接続する。

 純粋過去とは、「すべての出来事が蓄積され、去り行くものとして記憶される、絶対的過去」である。純粋過去は、いわばヴァーチャルな過去である。どういう意味でヴァーチャルかと言えば、純粋過去は、まだ現在であるような出来事をすでに含んでいるのだ(p121)。

 たとえば、大澤が「私は今、マクタガートに対抗して『時間の実在性』を証明する論文を書いている」という言明をするとき、この言明には、すでにほんのわずかではあれ、過去の出来事の回想というモードが含まれている。つまり、現在の出来事は、自らを「過去」の一部として知覚する、まさにその限りにおいて、現在の出来事である自己自身を認知することができるのだ。同じことが、過去の出来事や未来の出来事についても言える。どの出来事も、自らを、「過去」の一部として認知するほかない。このカギカッコで記した「過去」こそが、純粋過去、あらゆる出来事の認定を可能にするアプリオリな形式としての過去である、という(p123)。

 そうだとすると、出来事は現在でありかつ過去である、ということになる。しかし、これこそ、マクタガートが指摘した矛盾ではないか、やはり、時間は実在しないと結論せねばならないのか?違う、と大澤は言う。「今やわれわれは、その出来事が現在であり、同時に過去である、ということをためらいなく堂々と言うことができるところに来ている」と。なぜか?それは、上述の「<他者>の実在性」についての証明があるからだ。<他者>の現前=現在)とは、その過去−「すでにいない」「かつていた」−でった。<他者>の実在において、われわれはもう、現在でありかつ過去である−過去であることにおいて現在する−という様態を認め、導入していた。ゆえに、「出来事に、現在であるという規定と過去であるという規定をともに付けることに何の問題もない」と。むしろ、そのことが、<他者>の実在と同様に、出来事の時間的な実在を可能にしていると。「出来事は、まさに現在でありかつ過去である。そのことゆえに、時間は実在する」と大澤は結論づける(p124)。

 さて、大澤はここからさらに、決定論に対する自由の優位性を回復すべく論旨を進める。自由と決定論との関係については、非両立主義と両立主義がある。非両立主義は、われわれの「自由」と「人間の行為もまた自然の決定論的な因果関係の中に組み込まれているという観念」とは両立できない、とする考えで、これは科学の世界観と整合性を保つことはできない。非両立主義は、自由が帰せられる何らかの実体−人間という主体等−が、因果関係のネットワークからなる現実の外部にいる、と見なしており、要するに、人間に創造神の性質を(部分的に)与えていることになる。これは、科学的な合理主義の受け入れるところではない、という(p125)。両立主義は、これに反対して、自由と決定論的な主張とは共存しうる、と述べる。しかし、その際に基礎をなしているのは、決定論のほうであり、決定論の中で、自由(という意識=幻想)に存在の余地を与えること、これが両立主義であるという。自由は決定論に対して従属的な位置に置かれる(p126)。

 大澤の論旨を振り返ると、現在の出来事は、自身を過去の一部として知覚することを通じて、まさに現在の出来事になる。このとき、現在の出来事そのものを「過去」として知覚する視点こそが、未来に属している。未来に措定された視点がなければ、現在の出来事が過去として現れることはない。ということは、未来の視点をどのように設定するかによって、現在の出来事の同一性(アイデンティティ)が、つまりこの現在に何が起きているのかということが、異なって現れてくる、ということでもある(p127)。

 「目下の現在を知覚する未来の視点は、すでに完了した現在−つまり過去の出来事−にも影響を与える。つまり、どのような未来の視点から現在を見ているのかということは、どのような過去の出来事があったのかという認識をも規定している。現在を過去の一部として見返す未来の視点は、その現在の出来事へと連なっている過去に何があったか、ということをも規定する」(p127)。現在の出来事が過去の出来事にトータルに因果的に規定されている、という決定論の主張は全面的に正しいが、「どの過去の出来事(たち)が現在のこの出来事を決定しているのか。どの過去の出来事の因果的な連鎖が、現在の出来事へとつながっているのか。このことを規定しているのは、現在の出来事と過去の出来事とを遡及的に見返す未来の視点である。どのように未来の視点を措定するのか、というところに、自由が関与している。原理的には、未来の視点はどのようにも設定できる。この未来の視点が、決定論的な連鎖そのものを選択している」。これは、「決定論を基礎にした両立主義ではなく、逆に、自由の方に基礎をおいた両立主義になる」。

 未来の未来たるゆえんは、絶対に還元できない不確定性である。どうしても解消できない不確定性があるということ、これが未来の定義的な条件である、と大澤は言う。この不確定性は<他者>を規定する条件でもある。そして、<他者>には、本源的に自由が所属している。こうして見ると、未来を未来にしている条件と、<他者>を定義する条件とは、同じものであることがわかる。とすれば、未来とは<他者>であり、<他者>は、その本来性においては未来なのだ、とこう断定してもよいのではないかという(p129)。

 「<他者>の他者性が生(なま)のままに現れているとき、<他者>は『未来』として現れている。その<他者>を同定し、その不確定性を縮減しようとするとき、<私>は、必然的にそれに失敗する。その失敗は、『過去』という痕跡を残す」(p130)。

 「自由は、現在と過去とを遡及的に見返す未来の視点を設定する営為のうちにある」。このことは、「自由が<他者>との関係のうちにこそある、ということを意味している」(p130)。

神の視点と人間の視点

 以上が本書の概要である。マクタガートの「時間の非実在性」の証明は神の視点からの証明、大澤の「時間の実在性」の証明は人間の視点からの証明と考えると見やすいだろうか。第2部の対談で大澤は「神の無限の知においては、根本的に失われてしまうものがある」と述べ、ここに永井の発見があるいう。この根本的に失われてしまうものが、時間であり、<私>というものだろう。

 「すべてがわかったときにこそわからなくなるものがある」という大澤の発言も同じ事態を示している。

 このような見方は、「この世界のすべてのものが、近くで見るとぼやける」と言うときの量子重力理論の研究者であるカルロ・ロヴェッリの発言とも共鳴するように思える。「わたしたちはこの世界を大まかに切り分け、自分にとって意味がある概念の観点から捉えているが、それらの概念は、あるスケールで『生じている』のだ」(カルロ・ロヴェッリ. 『時間は存在しない』. 冨永星(訳). NHK出版. 2019.)

 時間とマクロな平衡状態の関係を解釈する際には、標準的な理論では「時間→エネルギー→マクロな状態」となり、マクロな状態を定義するにはエネルギーを知る必要があり、エネルギーを定義するには時間の正体を知る必要があると考える。しかし、同じこの関係を別の角度から捉えることができるとカルロ・ロヴェッリは言う。「マクロな状態→エネルギー→時間」と逆に読むのだ。「マクロな状態を観察すると、この世界のぼやけた像が得られるが、それをエネルギーを保存するような混ぜ合わせと解釈することができて、そこから時間が生まれる」と。「時間が決まるのは、単に像がぼやけているからなのだ」。「時間の進展が状態を決めるのではなく、状態、つまりぼやけが時間を決めるのだ」。このように「記述の不完全さ」があればこそ、時間はあるものとして解釈できる。

 ある人は英語の過去形は「遠い形」と呼んだほうがいいと言う。過去形は「遠い形」で表現される中の一つでしかないと。そういう意味では現在形は「近い形」である。いずれも<私>を起点とし、<他者>との関係性、距離の取り方を問題としている、ということだろう。未来形というのは自由意志を前提としており、今の私の意志の表明でしかないとも言えるかもしれない。

 解離は<私>を起点とすることをやめることで、時間の非実在性を証明し、忘却の中に自ら飛び込む行為かもしれない。未来的未来は語りようのない、不確定なナルホイヤ的(イヌイット的)未来だろう。

 純粋過去としての未来、過去的未来(<他者>としての未来)を起点にすることで、私たちは自由を取り戻すことができる。別様の因果の連鎖を選択することで。

 純粋過去としての未来からの眼差しは、時間の非実在性を否定しているわけでもないだろう。遠い彼方で雨が降っているのを私が見るとき、それは現在であって、過去であって、未来であるとも言え、それを時間の非実在と言うこともでき、我に帰ると時間の実在でもある、ということだから、分析哲学的には反論の余地はいつまでもあるだろうが、実在しつつ実在しないということは全く不思議なことでもない。私が自由に眼差すときはいつも、過去として、未来から眼差すのであって、そこで私は他者であると同時に私であり、眼差しもまた他者であると同時に私であるものへと向けられつつ、向けているのだろう。

氷と雨と晴れだったら、どうする?

4歳息子:雨と晴れだったら、どうする?
父:なんて?
4歳息子:氷と雨と晴れだったら、どうする?
父:全部?
4歳息子:うん
父:うーん・・・傘をもってくかなあ
4歳息子:ぶー、地震だよ
父:地震?地震だったら、雨と氷が降って晴れにもなるの?
4歳息子:うん
7歳娘:地震はただ地震だけだよ
父:地震怖いの?
4歳息子:うん、怖い。地震もおばけも怖い。