何日に一日はいよいよ頭が動かなくなる。
たぶん睡眠が不足するためで、夜中にだらだらとスマートフォンをいじるのが原因だろうと思う。
すべての児は可愛らしいものだ。彼らは全員人間である。人間だからいいところも悪いところもある。
奈良の長谷も紀伊の高野も山岳霊場であり、御霊がつどう山であったと五来重は「高野聖」の中で書いている。
高野も長谷も昔からの神の住む土地であった。長谷坐山口神社や丹生都比売神社の存在はいずれの土地の古さを物語る。
してみると、こうした山に祖霊が集まり、墓がたつのは仏教以前の話であり、その霊を祀るのには神の力のみならず仏の力が必要であったのだろうか。伊勢の神道は厳しく仏道を忌む。山に霊が集まる信仰と伊勢の神道とはどうも別のもののようだ。
山に霊が集まる。それはあるいは神霊であり、祖霊である。荒ぶる魂であるが、蕃神にあらず。このことは世界に普遍の現象だろうか。あるいはこのことが日本人の重要な要素なのかもしれない。
熊野もまた死者の国であった。大雲取峠を行けば死にたる者とすれちがう。
毎日の仕事は沢山あり、複雑で私の能力に負えない。負えないなりに生きているのみである。この先どうなるかなど神様以外誰も知らない。
空谷子しるす