第3日

母:あなたは祈っていないし、聖書を読んでいない、そのような態度が果たして許されるだろうか、勿論出来ない人がしなくても何も問題はない、しかし、できるのにやらないのはおかしい、それは思い上がった態度だ、私は10年間教会を離れていたが、父のことと(新)宗教、淀キリのホスピスで教会員との再びの出会い、交通事故による罪の自覚というエピソードがあって深く懺悔し、神の元に戻された、そしてそこから、本当に祝福された日々を過ごすことができている、求めようとする下僕に対しては主人は与えようとするはず、祈りたくないのか、聖書を求めたくないのか。もしも今、時間が与えられたのなら、それは離れていた神様との時間に充てるべきではないのか。

私:確かにある時期から祈りや聖書の通読が私の日常から消えていった、私は、神様はすべてをご存知であり赦されている、そして私は神様がすべてを成功や良い方向に導かれるとは考えない、また祈りの程度や有無によって、その希望の実現・現実の結果が影響されるとは、考えていない、やはりすべて我々の目の前におきていることは神様が働かれた結果であって、神様の働きの結果僕が術中死することだってあり得ると考えられるし、だからといってその後に祈りが足りなかったから、とは考えたくはない、それから、私は祈りたくなかったり聖書を読みたくなかったり拒むような気持ちがあるのではなく、祈りが非科学的で無意味な行為だといっているのでもない、僕たちはともに祈り合うことで、祈らないときにはえられない感情を共有している、私はあらためて、祈り読む時間にしたほうがいいかと思う、ただつまるところ、そういう行為を私がとっているかどうか、他人には分かりようがない、なのだから母が私の行為を信頼できるかどうか、といったことの問題でもあるようにおもっている、私はこれを私が18歳くらいのころから母との間に問題として横たわっていると感じてきたが、今日の日までここまで大きく取り上げてこなかった、だがこうして指摘されることで非情に辛く感じることも事実であり、伝えることと行動を変化させることが必要であるように感じたため、伝えることとした

母:そのように神様のことを考えているとは知らなかった、悪いことがおきているのはサタンが働くからであろう、ただもうあなたには後がなく、言わば刃を突きつけられている状態なのに、神様がなんでも救ってくださるからなにをしても、祈らなくてもいい、という態度では許されない、祈るかどうかはあなた自身の問題であるため私にはわからないけれど、とるべき態度は唯一つであるようにおもう、牧師にも相談をしてはどうか

私:私の考えを伝えることができてよかった、また(何度もきかされた話も多かったが)母の考えをきくことができよかった、通読と祈り、そして牧師との相談はあらためておこない、このときを与えられたことの意味を神様にもとめていきたいとおもう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です