宇佐

宇佐八幡宮は国東半島の付け根にある。神武の帝にゆかりがあり、もともとは宗像三女神が御許山に降臨したのが始まりともいい、八幡神が大神比義の前に顕われた土地である。

大きな参道沿いに「ねぎ焼き」を売っていた。

「ねぎ焼きですよ。どうですか」と中年の女性が呼び込む。彼女ひとりで店を回している。

ねぎ焼きを食べながら宇佐とはどういう土地なのだろうとぼんやり考えた。

参拝は叶った。

八幡宮の広大な神域を後にして私は駅に向かって歩き始めた。

はるかに山々が聳える。かつては内陸深くまで海岸線があり、今に田畑に見えるところは恐らく全て海であったろう。

私は歩いた。台風が近づいているらしかったが雨も降らず、雲はむしろ次第に薄くなるようだった。

青い山を見ながら歩いていくと生きている気分になる。

世は揺れ動くようだが本当のところは動かない。

頭で考えるより(正しいことにあっては)素直に思ったほうが良いように思われた。

八幡神は不思議である。

空谷子しるす

鉄輪

鉄輪温泉と言うのは別府八湯の一にしていわゆる湯けむりの街として有名である。

貞観九年(西暦867年)に別府の高峰鶴見山爆裂せり。おそらくその噴火は辺りの野を焼き、火砕流、噴煙の類いが麓を焼きかつ埋めたのだろうと思われる。その惨状を治めたのが火男火賣神社の神だ。

由緒にいわく

「大音響とともに無数の岩石を吹き上げ、溶岩が流出して河川をなした。鳴動は三日間続き、人々は神の怒りであると恐れたが、これを止めたのが当社で読み上げたとされる『大般若経』であった。(中略)大般若経は九人の山伏に命じ三日間読み続けられたとされている。そしてこの時に出来たのが別府温泉であり、その守護神としても崇められている」(加藤兼司宮司「火男火賣神社由緒」)

この鶴見山の大爆発以後別府は今に至るまで人々の業苦を緩和している。噴火を鎮めた功績を讃えて火男火賣神社は延喜式の式内社に列せられている。大分県には式内社は6社しかないから朝廷からの認識の重さは並々ではない。さすが別府温泉だ。

台風が電車を止めたので別府に一日いることにした。

地獄めぐりをやってみようと思って鉄輪の方にバスで来たのだ。

鉄輪の近くに火男火賣神社が坐す。台風の強風が境内のイチイガシを大きく揺さぶる。空も海も青い。

私はなんだか湯に浸かってめしが食べたくなった。

「焼酎にかぼすを入れるとおいしいですよ」

と定食屋の女将が教えてくれた。

言う通りにするとたしかに爽やかでうまかった。

めしを食い、湯に入り、鉄輪の温泉街を歩くといろいろなことがぼんやりするようだった。

どうせ病院に戻ればまたはっきりしたことがたくさん出てくる。今はむしろ積極的にぼんやりしたい。

空谷子しるす

覚書4

扉を開けると虚な眼のあなたがいた。小さな白いテーブルにはグラスに注がれた赤ワイン、ノートパソコン。酔っていたのでしょう。顔が少し赤らんでいる。

私は一つ仕事を終えたところで、身体には異物の感触がまだ残っていた。洗い流してもそれは消えない。

私を注文する人がいる。お陰様で店内ではNo.1、指名料もそこそこ。

運転手は無口で助かっている。前の運転手はおしゃべりで、何も話したくない気分でもおかまいなしに話しかけてくる人だった。彼なりに気を遣ってくれているつもりらしかったがそれが妙に恩着せがましく厚かましく、気遣いというより下衆の勘繰り。

書いても覚えてないでしょう。あなたはすぐ忘れてしまう。読んだことも読みながら。だから読んでいるそのときのあなたのために。

私はこの仕事を始めてから切るのをやめた。傷つけることをしたいのは何故だか忘れた。上書きしたいことばかりというのは嘘。でも思い出さないために何度でも上塗りしていく。

あなたは何もしなかった。ただ椅子に座りワインを飲み、私の話を聞いていた。

聞き終わるとあなたは私にお礼をいい一万円札を4、5枚渡して玄関まで送ってくれた。指一本触れられなかった。

雨が降っていて、車内に流れる水滴を追ってみていた。恋でもないし愛でもないし友情でもないし、憐れみでもない、と願う。ただそれだけのことで、たまにいる客のひとり。

あなたはいま、靴を履き違えて子供に怒られている。

もう一度、そう履き直せばいいと諭されている。私はあなたにとってなんでもなくあなたも私にとってなんでもないが、なんでもない関係が続いていることが、しあわせです。

初夏、木漏れ日のなかであなたは空を仰ぎ見て忘れたことも忘れて思い出そうとしたことも忘れて、私が隣にいることも忘れて、ただ忘れ続けて、たまに私のことを見て、唇が赤いねと初めてのことのように何度もいう。

シャワーを浴びて滑りけをとる。汚れるためにまたとる。

あなたが呼んでくれた日は、シャワーも浴びずただ座っていた。ワインを傾けながら、話を聞いてくれていた。

私は悪い男でねとあなたは言った。笑みを籠らせて。後ろのカーテンが少し開いていて、雨音が聞こえてくる。

扉を開けた途端に押し倒すとか、殴りかかるとか、お尻を剥き出して思い切り引っ叩くとか、服を全部脱がすとか、そういうのは悪い男ではなくて、普通の男だった。

普通の悪い男だよ、とあなたは言った。飲み過ぎてゲロ塗れになってみな忘れてしまう。

綺麗だよとも、好きだよとも、愛してるよとも、嘘でもあなたは何も言わない。

言わなくていい。もう何も言わなくていい。

あなたは右の靴を履いて、また脱いで履いて脱いで履いてしている。神妙な面持ちで。

諦めたのか、靴をすっかり脱いでしまい、そばの木におしっこを引っ掛けて芝生に横たわった。蟻が何度か顔の上を横切った。あなたは微動だにしなかった。雲の行方を眺めているようだった。晴れていて少し眩しそうにしていた。次第に日は傾き、夜になった。あなたは股間を掻きむしっていて、起きているのか寝ているのかもはやわからなくなった。夜が明けて私はまた空っぽになる。