麻酔科

当院の麻酔科もまた破格に優しい。

質問攻めも無ければ侮辱の言葉も無い。その上で部長先生は私の研修が順調だと言う。私は矛盾に頭を悩ませる。不勉強なのはどの科でも同じだ。聞かれたことはほとんど全て知らない。なのにある科のある医師からは侮辱され、別の科の医師からは褒められる。

人間はいいかげんなものだ。

私は叱られたく無い。気分が滅入るからだ。叱られた方が勉強になると言う人がいる。本当に駄目な奴は叱られないから、叱られる内が花というのだ。しかし嫌なものは嫌だ。できるなら平穏に話をして欲しい。

青やかな稲穂は次第に早稲から始まる順に黄色に変わってきている。近江の田は収穫に向けて時間を刻んでいる。

私は相変わらずできる限りには懸命にやっている。アンプルを切り、バイアルから薬液を吸うのが多少うまくなった。挿管も筋弛緩がきまっているから割合に入るようだ。しかしこれを私の実力と言うわけにはいかない。麻酔のことは何もわからぬ。わかるということはない。2年目の医師にわかるほどしょうもない事柄が医業のはずがない。救急を恐れぬ優秀な研修医がいる。彼らは頭がどうかしている。私は自然が恐ろしくて仕方がない。2年しかやらないのに全てが分かるというのは絶望的な誤謬だ。

週頭に夏休みをもらえた。

病棟に患者がいないのだから今取っておきなさいと言うのだ。

病棟に患者がいると盆も暮れも休めないのでは医者は極めて不健全な職業だ。

しかし休んでパァッと遊びに行くというのも私には分からない。

学生時代は金と時間がなかったから遊ぶ間はなかった。賢い研修医たちは東北一周をしたり北アルプスにこもったり男と遊び回ったりしている。そんな遊び方は私は知らない。

結局どこかに祈りに行くことにした。遠くの中々行けぬところへ。それは江戸時代の伊勢参りをする町人と同じ精神性なのかと一瞬疑ったが、彼らは私よりよほど「参詣以外の付随物」が主目的であったろう。私は参詣に行くために行く。そのためにいささか銭湯に浸かるくらいの楽しみは許されようと思っている。

空谷子しるす