麻酔科2

その人はfTURに来た患者であった。前回も同じ腎結石で来院して、その時は尿管が細くてカメラが通らずステントだけ置いて終わりになっていた。

つまり最近に全身麻酔をかけた記録があったので、その通りにやればよいということだ。

いつものように薬液を注射器に吸って準備していた私は、唐突に指導医からこの患者の麻酔を全部自分ひとりでやってみよと言われた。

それは本当は喜ぶべきことなのだろう。全ての研修医は喜ぶだろう。認められてうれしいとか、自分なりにやれてうれしいとか、経験ができてうれしいとか思うだろう。

しかし私は驚懼した。

手順も何もわからなくなり、あわてふためき、酸素飽和度の機械を患者の指につけようとして混乱して、男性看護師に手渡した。その看護師は私を見下したように鼻で笑った。私はああまただと思った。私はいつでも馬鹿にされる。やるべきことがわからず、要領を得ず、学習せず、人に迷惑をかけて馬鹿にされる。

一年目や同期の研修医なら全てうまくやれただろう。

私は男性看護師に軽侮されたと思った。それで過去の古傷をえぐられたように怒りを感じた。

気道確保はラリンジアルマスクであった。私の準備が遅れたためゼリーを塗ろうとしたときに看護師にマスクを持ち去られていた。挿管前に申し出てゼリーを塗り直す失態を演じる。

ラリンジアルマスクはうまく入らなかった。咽頭後壁に先があたりそり返ったのだ。左の人差し指を入れてもマスクの先端にとどかず、そり返りを修正できない。結局指導医が入れた。

とてもみっともないと思う。自分の無能のために恥をかいたと思う。しかし良い経験をしたと思うこともできる。

私はつまらない人間である。

空谷子しるす

めめ

1歳8ヶ月の娘

我が家の食卓は魚が多い。
父が魚好きだからである。
それを反映して、子供たちも魚好きになる。
鯛は乳幼児の食卓への食材としては敬遠されがちである。
何せ骨が硬い。
飲み込めば、内視鏡でもって取り除くなどということが十分ありうる。
あなおそろし。
しかし、虎穴に入らずんば虎子を得られない。
骨周りの肉というものは肉でも魚でも、最も旨い。
かつ、鯛の頭は安い。
安ければ200円で一つの頭を買える。
今では7歳の娘が陣頭指揮をとって、鯛の頭を解剖し、3歳の弟と1歳8ヶ月の妹に安全な魚肉を供給するということが日常となっている。
中でも、コラーゲンが豊富な眼球は希少である。
何せ一つの鯛の頭に、一つしかない。
7歳の姉も1歳の頃からその味を知っており、いつしか「めめ」と呼称するのようになった。
後に生まれた弟もその味を知ることとなり、一つの頭を巡って「めめ」の奪い合いとなる。
自然状態に争いは絶えぬ。希少なものを誰が獲得するかは、親の愛の獲得に等しい熾烈な意味を帯びる。
近頃は鯛の頭を二つ買って帰るようにしている。
1歳8ヶ月の娘も「めめ」と姉と弟が言い合うときには、鯛の頭が食えると理解している。
彼女のなかで、「めめ」は鯛の頭らしい。時に魚全般を指しているようにも思える。
近い将来、リュックの中に鯛の頭を3つ揃えて帰る日がくるだろう。
我が家のヴィタ・アリメンタリアはかくのごとく象られていく。



人間はいつか必ず死ぬんだよ

7歳娘と

父:あの人刺されたんだってね
母:ニュースでやってたね
娘:え、その人死んだの?
父:え、あの、その、全然死んでないよ。誰も刺されてないし、誰も死なないよ。へへへ。
娘:何言ってんの、人間はいつか必ず死ぬんだよ。知らないの。

喉頭けいれん

抜管した患者が喉頭けいれんを起こして再挿管になった。

私は2回目の麻酔科を回っている。上行結腸切除と肝部分切除の症例であった。165cm、85kgであって巨きな男である。挿管はうまく入った。AラインとCVはうまく入らず、上級医が交代した。

10時間を超える手術だった。術野では外科志望の1年目が始終カメラ持ちをしており、極めて役に立っていた。私は自分が1年目に劣ることに情けなく感じた。

手術が終わって抜管という段になり、上級医が呼吸数や覚醒度合いなどを確かめ、口腔内吸引した上で、私に抜管を任せてくれた。私は呼びかけながら管を抜きマスクをあてた。

しかしSpO2が下がるのだ。私はやんわりとマスク換気を始めたがなかなか入らない。経口エアウェイを入れよと言われ、入れてからマスク換気したが空気がやはり入らない。

SpO2は34まで下がった。

上級医はマックグラスで再挿管を試み、なんとか成功した。どうやら声門が完全に閉じていたらしい。らしいというのは、私はちゃんとマックグラスの映像を見ていなかったのだ。邪魔をするのが恐ろしくてやや後ろにいた。

私は何もできなかった。1年目の研修医は始終適切に動いていた。

私はこの事件から声門閉鎖しているときには強めに陽圧をかけ続けたらいつか気道が通ることを教えられた。

私は私の能力が低いことを改めて思う。1年目や同期の研修医は私のことをいてもいなくても大差ない人間と扱っている。無理もない。

私は厚かましく生きていく。

空谷子しるす

忘れられた日本人

大晦日には私の家の近くに提灯が出る。

というのは各集落の入り口に提灯をふたつ建てるので、この町に住んで22年ほどになるがいまだにその訳は知らない。提灯には「御神燈」と書いてあり村の名前が書いてある。これは何かの神社を目指したものか、あるいは年神を集落に迎えるためなのか、別の理由があるのかわからない。

私たちは足元のことをよく知らない国民である。

柳田國男が「この書を外国に在る人々に呈す」と遠野物語に記したのは100年前になる。それから順調に日本人は自分たちを意図的に、あるいは無意識に忘れてきたのだった。

むろん血筋や郷土が私たちの全てではない。むしろそれらよりなお重要なものがあるだろう。それは一切の誤解を恐れずに言えば神であり真実である。神と申して、なになにの宗教に金を納めねばならんとか、これこれの宗教は歴史上かつて教義のために虐殺や略奪をしたとか、いまだに犯罪が絶えないとか、そんな「具体的」の「神」は偽物である。しかしカトリック、仏道、神道、それらが各々訴えるところの内奥の真実はおそらく多にして一であり異なる。

そうした真実を目指すときに私たちの足元がしっかりしていなければどこにも行けない。具体的なことは具体的になされなければならない。私たちは日々に嘆きながらも目を開いて歩くことを要求されている。目を開いてつらい世の中を具体的に歩くためには真実が必要だし、真実はどれほど人間が理知的に否定しても存在する。真実というものは私たちがそれを意図的に道具に「する」ことはできるが、本質的に道具ではない。旧約聖書にあるように神の名は「私は在る」という名なのだ。真実は私たちの意図とは全く無関係にただ存在している。ちょうど未発見の物理法則が私たちの認識と関係なく存在するのと同じように。

宮本常一の「忘れられた日本人」を読んでいる。この本は地域の診療所の所長に勧められた。診療所の所長はかつて愛媛の山中に長らく赴任していた。なかなか動かない行政と渡り合い、住人と睦み、医療を行った。具体的なことを具体的に行おうとした人間である。その彼が宮本常一の「土佐源氏」を読むことを私に勧めた。理由はわからない。

人間は卑しい。田舎の人間には田舎の強烈な卑しさがある。都会に憧れる人の気持ちはよくわかる。東京にはきっとそんな卑しさは無いだろう。それは東京のいいところではないかと思う。卑しさは無くなるほうがよい。

しかし私たちは根無草になってはならない。目の前の足元を見なければ現実に自分も人も損なうだろう。東京の良くないところは根無草なところではないかと疑う。根無草というのは具体的なことを見失った状態である。人間の人間的な部分だけを愛することは具体的ではない。人間の卑しさだけを求めることは具体的ではない。文学も詩もそうだ。真実を目指さず、人間の卑しさだけを賛美するようならそれらは世の中に売れても何の価値も無いばかりか大勢の人を惑わす大罪を犯す。惑わしておきながら勝手に滅びて、あとは知らないと惑わされた人々を放り投げるのだ。私は小さいころから文学も詩も好む。しかしある話がある。私はそれを全て信じるとは言わないがある程度は真実性はある。その話というのはこうだ。パードレ・ピオというカトリックの聖人がいた。彼のところに人が尋ねて、その人はある小説家の作品が大好きだった。それで訪問者は、ピオ神父にその小説家がいまなにをしているか尋ねたのだ(その小説家は故人であった)。ピオ神父はわなわな震え、顔を紅潮させた。「ああ、彼はあまりに人間を愛し過ぎた!」と言った。

恐らく小説家は「人間」を愛しすぎたために煉獄に落ちていたのだろう。それでピオ神父はあわれな小説家のために悲しんだのだった。小説家は人間の人間的な部分を愛し過ぎたのだ。人間的な部分の多くは卑しい。あまり価値のないことだ。性交、暴力、濫りな酒食、勝負、そうしたものは「人間」が生きるには必要だが人間が救われるには節制すべきものである。「人間」的なものばかり見つめるのは具体的に生きているとは言わない。ただ欲望にまみれているだけだ。酒や賭博に溺れて自らの脳髄に麻酔をかけているのと同じではないか。人間の卑しさは具体的ではない。薬物にまどろむことを現実に生きていると誰も言わないのと同じように、人間の卑しさを描くことを具体的に生きているとは言わない。人間を描かざるを得ない小説家や詩人は、目指すべき軸がなければ卑しさにまみれる。全然具体的ではない。

具体的なことを具体的に。この言葉は箕面の神父から教わった。往々にして「まじめ」な宗教者(「まじめ」はくそまじめとは意味が違う)のほうが、在俗の人々よりはるかに具体的だ。抽象的と思われている神に祈ることは、きわめて具体的な行為だ。祈ること、日々のくらしをすること、食べること、飲むこと、家族とくらすこと、排泄すること、話すこと、全ての具体的なことはつながっているように思う。家族を見ず、めしも味わえず、安酒とうま酒の違いもわからず、化学物質のアルコール作用だけが酒と思い込み、生きることと大麻で酩酊することを混同しているかのような生き方は具体的とは思えぬ。

具体というのは必ずしも目に見える物体のことを意味しない。固定化された血筋や地域性は一見具体的に見えるがそれほど大事ではない。地縁、山や川の神々(キリスト教の神と日本語の神はもともと指す意味がある程度は異なると思う。それは単純な多神教と一神教の違いではないはずだがうまくは言えない。言葉にしたらその瞬間間違っている気もする)、家族、人々の内奥の軸(ただの「人々」ではない)を具体的に大切にすることが重要だ。私自身具体的なことを具体的にできているわけではない。私は自分の努力や自力が無い。だから祈り求める。

大晦日を越えて新年が来る。年神を迎えるということについての実感は私の中には無い。私もまた日本人のことを忘れているのかも知れない。年神という概念が日本のものか東アジアに普遍のものかは寡聞にして知らない。しかし具体的なことを具体的に学び、軸を祈り求めることはいつも重要だろう。

空谷子しるす

覚書12

氷を三つ、入れて、水滴をなぞり、陽光を左の手でさえぎり、砂浜を眩しく眺めて、海面を乱舞する光の粒の脇で羽を休めている白い鳥の、波に揺られるままの浮沈を、全く意に介さない2、3の海水パンツの子供たちが駆け抜けてゆく それもいつのことか

私がこうして寝そべっているのは  度し難い厳密さで指を折り だから?と首を傾げる君の氷の眼差しを そのまま君に送り返す

叙情的な音楽を好む私はひどく蔑まれ それでも、人間くさいものに拘り続け 涙のひとつでも流せばよいだろう という君に 君が求めているものがたいしたものではないことを諭すような野暮はせまいと、苦笑いひとつで済ませ 雨が降りそうだ と真昼の晴天の遠くの空をみて嘯いてみせる、というのも人間臭い笑みを引き出したくて

よしおがみた彼女はもう少し角がとれ、洗練されたというよりトカイの荒波にもまれ擦り切れていたのだろう、よく言うように。信じまい。

あのときの光がみていた彼女の背がほんとうなのだ。

根源的不信が叙情的な音楽をかろうじてこの世に繋ぎ止める最後の藁なのだから、真実とか現実とか、気安い言葉に気やすく付き合えるように

よしおは彼女に手を引っ張られ、いつものように、足はもつれ、少し肌寒くなってきたねと銀杏並木の落ち葉と高くなった空を同時にぼんやり眺めながら呟くでもなく、声にもならず、ただうめきのように重低音が喉元で鳴る、彼女はそれに答えることもなく、ただいつものように振り返ることなく、前のめりの彼を黙々と引っ張っている 

目が合わない というのは視線を向けているということではない、ということを私は彼女にどう伝えたらよいか

彼女の隣についてきた男は視線を向けずに目を合わす人でそれですべてが救われたような気がした。

男は高い空を見ていただけだった。しかし彼は空を見ていたわけではなかった。同じほうを向いている ということは見られていることといっしょだった。

見ないことで見ることがある。空はいつも私の理解を超えている。

すると、彼女の手の湿り気を覚えた。彼女もまたそうして私を見ていたのだろうか。よしおは重低音を響かせながら恥じ入るように謝罪した。驕りは罪である。

彼女の汗を愛おしく思った。飛びついて抱きついて締め付けたくなった。彼女の手を少し力を加えて引き寄せると、倍の力で引き返された。彼女のこめかみに一筋の汗が滲んでいた。彼女の目は汗だったとそれで気づいた。もうよくなりましたと、次ははっきりと言える気がした。彼女に感謝しなければならない。すると彼女は、暑いですねえと。依然彼女の言葉は1mmも触れなかったが、抱きつきたい気持ちと感謝の気持ちは変わらなかった。うう、うう喉元を鳴らしせめて未来へ届けよと思った。

死に至る病

I先生に勧められてキルケゴールの死に至る病を読もうとしたのだが私にとってはあまりに難しくちっともわからなかった。

なんとなく

「すべてを可能にする神の可能性を信じぬことが絶望」
「みずからに課せられた十字架に従順でないことが罪」
という2点を論証しようとしているのかなと思った。合っているか間違っているかわからない。

自分に課せられた十字架に従順でないのはたしかに私のことだと思う。

私は自分がかしこいと思っている。しかし現実にはさまざまな人たちに劣っている。劣っていることがわかりながら、弱者の身振りをしながら、「おれはばかの振りをしているけど、実はいろいろわかっているのだ」とひがんでいる。

自分にできること、できないことを従順に受け止めること。それが十字架の従順ではないかと思う。不従順はキリスト教における罪だ。つまり自分を過度にいやしめるのも持ち上げるのもどちらも罪になる。

しかし自分の生のすがたを見つめたくなくて悶絶することも、自力では解決することは難しいように思う。

もしかしたら本来は自力で解決できるのかもしれない。自転車にどうしても乗れない、こわいと泣く子供が、なにかの拍子に乗れるようなもので、誰にも本来、生の自分を従順に見つめる力が備わっているのかもしれない。

生の自分を見つめることはとても恐ろしいことだ。

「自分はなにもできない」と言い放つより、「自分はこれくらいの人間だ」と認めることのほうが遥かに怖い。

死に至る病のほとんどの箇所は全然わからない。何度か読めばまた少し分かるだろうか。

神の全能性による可能性を信じることというのはこころよいことだ。

今の自分だけで全てを判断しなくてすむ。

空谷子しるす

にんにくとシュトーレン―2022/12/18のこと―

ラカン,生一本,濁醪,川口加奈氏(NPO法人Homedoor),音と詩,

唇が腫れている間に,書きとめておく.大いに語り合った良き日であった.全員参加は叶わなかったが(それぞれの戦場にあったのだ),一方で新たな関係も生まれた.

令和4年はそうして暮れていくのだった.

塞の神

大津の山の、山科との境に蝉丸神社がある。

これは百人一首で有名な歌人の蝉丸を祀るのであって、彼の生前の威力から歌、技芸の上達に験があるばかりではなく、前がちょうど逢坂山の峠道だから交通安全の神でもある。

このように往来の安全を祈り、不審物の侵入を防いでくれる神を塞の神と申す。村境や峠、三叉路、追分などに祀られる。

大津から瀬田川をくだり宇治に出る山中に猿丸神社がある。猿丸大夫は三十六歌仙の一人である。

猿丸はどんな人物か未詳だが蝉丸は盲目の歌人だったという。彼の庵が逢坂山という、どちらの国にも属さぬ境界にあったのが宮の由来と申す。

歌人にせよ盲人にせよ、共同体の境界、本来の日常から外れた人間は、卑しまれるとともに尊ばれる。はずれものは境目に追いやられ、しかも神として畏れられるものかもしれぬ。

境目にあらねばならぬ人間は弱い。弱いから追いやられるのである。

しかし弱く追いやられ、しかも歪まず正しい道を思う時、その人間はまことに尊い。

弱くあらねばまことに強いとは言えぬという矛盾がある。まことに苦しみ、まことに心身弱いがゆえに恨みや怒り、耐えがたさや業苦が湧くものを、なおも正しさを思わねばならぬ。まことに弱くあらねば強くならぬ矛盾である。まことに頭と体が弱く、それゆえに苦しまねばならぬのに歪むことなく正しさを思うところに人間の真実がある。

弱くなければ真実は得られぬ。キリスト教のえらいところはそうした弱い人間を聖とて認めるところにある。日本に必要にして不足しているのはそこだと思う。強い人間、強い存在のみが神なのではない。弱いがゆえに境目にある人間の、なおも祈る人々が尊いというのは、円空などの雲水を尊ぶこころと通う気もする。しかしその目線はよそよそしく、教養ある上級民のみが美術を自分たちは理解するというように彼を見るのみだ。

境界にありながらも祈り求める人間を私はほとんど知らない。そうした人間だけが人間らしい人間と私は思う。

空谷子しるす