患者さんのことなど 1

その方は肺炎と心不全を患っておられた。

大正うまれであって、戦争を経験されたようなのである。

「ようなのである」とは、本人が認知症なので、また発声がいささか不明瞭なので、はなしがよくわからぬのである。

「南方で航空隊やったんよ」

と、その方は仰った。

「兵長やったんや。飛行機の整備をやっていた。二等兵から兵長になるのは、並のことやないんよ」

私は旧日本軍のしくみに明るくないが、一兵卒が兵長になるのは、たしかに大抵のことでないように思われた。

15歳でバルブ工場につとめたらしいのだ。

バルブの中の溝を、手作業で削っていたらしい。

その技術力が上官にかわれたのかもしれない。

水道管やバルブは、私の研修地の名産である。

「あたらしいバルブを、開発せなあかん」

彼の「あたらしい」ことへの情熱は強かった。

「ふるいものと、あたらしいもの、そのいれかわりが難しい」

先のいくさから、とにもかくにも日本は変わったし、世界は変わったのであった。

べつに欲しいといったわけでもないのに携帯電話が出た。パソコン、タブレット、スマートフォンに、そうした高価なものがなくては生きていけぬ習いとなった。

バルブも、今は彼の言うような古典的な削り出しでは作らなくなったようだ。

「この◯◯(患者さんの名前)がいたということを忘れないでください」

彼は歯のない顔で笑った。

そうして彼は私の手を取った。

「えい!えい!」

彼は私の手に、みずからの手を勢いよくなんども重ねた。

それはなにか、かたちにならぬものを渡そうとしているかのようだった。

しかし、それがなんだったのかは、いまだにわからぬままだ。

空谷子しるす

Iが過剰

消耗している.かつて私は自尊感情の塊.それが今は,この荒れた部屋の中身が私の思路思考そのものになった.どうにも言葉が重なる.寝ていても,「To Do リスト」が頭をよぎって目が覚める.本当にそれらはTo Doなのかな.

とにかく,と打ってそれを消した.どうして消したんだろう.兎に角兎に角,どうしてうさぎにツノなんだろう.一々気になってしまう.

消した理由は自分で分かっていて,「すべき思考」とか「Tunnel Vision」とかでまとめられる概念と近いようなそうでもないような,自分を急き立てるような言葉でそれが嫌になって消してしまった.

あと10分で2021年6月1日の22時になる.書いている間に,通り過ぎる.今自分

また手がとまったので,思い立ってそとにでた,夜風がきもちよかった.自動販売機でジュースを買って飲もうと思って出て,実際そのようにした.自動販売機でジュースを買う行為は愚の骨頂.利便性を考慮しても高すぎる買い物だ.それでも今の自分にはスコールが必要だった.愛のスコール(マンゴー).初めて飲んだ.このわざとらしいマンゴー味!(・・・元ネタわかるかな?)

Q先輩がうつになったと教えてくれた.とても苦しいとおもう.この仕事は様々な能力を試される.知識,技術,必要に応じて寝ないこと.眠気を我慢するのは自分にはとても苦痛だ.興奮しているときはいい.興奮して眠くないのは一項にかまわない.ただその次の日とかに後悔することになる.自分を苛む人は真面目な人だ.自分はそこまでストイックになることができない.それはそれでまた,悩むことになってしまう.『生まれつき僕たちは悩み上手にできている』(長い坂の絵のフレーム,陽水).

どうしてどうしてと,おもってもきりがない.ラインの通知がたくさん来ているのは分かっている.でも今はまずは,ここにこうして言葉を・・・書いていくことがきっと何かしかに導いてくれるはずだ.それは自分で自分を選択していくことだ.

もう一度,To doから整理していこう.

その後,返信しよう.

そしたら明日もあるし,寝よう.

(H)

追記

部屋で欲望したスコールというシニフィアンが対象aだったのでしょうか?・・・間違っている気しかしない・・・

おいしみがたまる

5歳娘
朝食後、幼稚園にでかける前のこと
娘「ねえ、パパ、梅の実食べてみようよ」
父「うーん、ちょっと早いんじゃないかなあ、砂糖もまだ溶けきってないし」
娘「え〜食べてみようよ」
父「じゃあ、幼稚園から帰ってきたらちょっと食べてみよっか」
娘「わ〜、おいしみがたまる〜〜〜」

素寒居士

呼吸器内科

「コモンな症例がなくてごめんね」

と、呼吸器内科の部長先生は私に仰ったのだ。

2年前からつづく世界的な悪疫は日本の田舎の研修医にも波及している。

呼吸器内科の先生方は主にコロナを診ることになり、他科の診れそうな疾患は他科に分担されることとなった。

しかもどういうわけか、先月はそれなりに来ていた胸水や気胸といったありふれた疾患も、この5月は全く来なかった。

私は賜った患者の方々を見にいっては、呼吸数や心拍数をとって、著変がないことをたしかめ、カルテを散漫に見て、業務上には存在意義のないカルテを書いて、

はなしがしたい患者さんがあれば、

行ってお話を伺っていた。

私はなにをやっているのであろうか。

相変わらず、薬の指示も、静脈のルートとりも、定期処方の継続すら、できぬままである。

入職前に上の先生から聞いたことがある。

「CVを何本いれたとか、挿管を何回やったとかは、たいした問題ちゃうんやで」

また六ヶ所村の松岡先生は仰ったのである。

「ハイパー病院とか行っても、行っただけになる人が多い。行った先で何をするかなんだ」

行った先で、ちからの及ぶかぎりはやるつもりでいたのである。

いまも常にやれる限りのちからは尽くしている。他人がどう思おうが、天地神明に照らして嘘偽りのないことである。

しかし、なんぼ初期研修の、手技のいくつかをやるとか、仕事がすこしできるようになったとかが、先達の仰るように大したことでなかったとしても、

私はやはり無能ではないかという思いが強くなる。

肺音を毎日聞く。

副雑音なしとカルテにかく。

同日の昼頃のカルテにて、オーベンが、捻髪音ありと書く。

夕にきけば、吸気終末に、わずかに捻髪音をきくようである。

私はいまどうなっているのか?

無能の駄目研修医なのか?なにかやり方を変えねばならないのか?

それともこのままちからを尽くしてゆくので大丈夫なのか?

なにかができるようになった訳でないまま呼吸器内科が過ぎていく。

空谷子しるす

糖尿病内科

4月から始まった研修は糖尿病内科からであった。

オーベンは早口であった。

オーベンというのは指導医という意味の業界用語であり、obenとはドイツ語にて「上に」という意味らしく、研修に入ってはじめて聞いた。じつに化石じみた言葉だ。一体、ドイツ語というのは、森鴎外のように権威的でえらそうに聞こえるから嫌いだ。カタカナ語やアルファベットの略語はなんだかわからぬからきらいだ。

オーベンは早口であった。

早口であったが、怒ったりはしなかった。

「あの、先生、ね、メトホルミンですね、下痢をおこすことはありますが、メトホルミンイコール下痢という図式がね、先生のなかで固定されてはね、それは気の毒と思いますから…」

2型の糖尿病、教育入院の方がはなはだ下痢をしておられたのであった。

ビグアナイド系の薬がときどき消化器症状をもたらすというのははじめて知ったが、一日に十遍以上も下痢をするのは困った。その下痢は結局、メトホルミンを減量したらひいていったのではあったが、よくわからぬことだ。

まったくよくわからぬことばかりだ。

薬の指示も、輸液の指示も、まだするを得ぬ。

なにかが起きても、それが何故のことか、見当がつかぬ。

医師免許がきたら少しはモテるかと思うたが、別段モテはせぬ。

しかし持病の胃食道逆流症ばかりは、

就職したがため、給金が入るようになって、

差し当たり飢え死にの心配がなくなったから、

すこしましになった。

空谷子しるす

ばばたんに言うの?

今回はfunnyではなく、interestingでありthrillingでもある言葉

2歳4ヶ月の息子、5歳の娘と早めの夕食を終え、まだ日が暮れる前にスーパーに買い物にでかけた。
今回始めて、子供を乗せないシンプルな買い物カートを選んだ。
カートを押しながら買い物をしている横を子供達はキャッキャと踊りながら、歌いがながらついてくる。
と思っていたら、息子がいない。
ざっと、周囲を見渡してもいない。
その間、おそらく1分もないと思うのだが、とにかくいない。
娘と名前を呼びながらスーパー中を買い物途中のカートを押しながら足早に探し回った。
もし外に行っていたらと、焦燥感にかられながら、娘と名前を呼んでいた。
肉売り場にもいない、おやつ売り場もいない。
これはいけない。
ひとまず、サービスカウンターに相談しようと向かうと、そこに女性に抱えられた息子がいた。
特に泣くでもなく平然としている。
その女性は親切にも息子がスーパーを出て一人でしばらく歩いているのを不審に思い、抱えて連れて来てくれたのである。
もし何かがあれば、立ち上がっていたかもしれない別の世界線が、瞬時に脳裏によぎった。
これはどうしようもなく私に非がある。
なんという不注意。
とにかく無事であることに安堵した。
息子に詫び、女性に深謝し、辞去した。

その後、買い物の途中、娘はしきりに「危なかった~~」と繰り返していた。
買い物を終えて、いよいよ帰るというときに、娘が唐突に「ばばたんに言うの?」と聞いた。
同様のことを考えていた私は驚いた。

説明を加えると、
まず、いま我が家には母親(私にとっての妻)がいない。
3週間前に生まれた娘(この子たちにとっては妹)が、発熱して入院することとなり、母親も付き添いで入院している。従って、妻の母がピンチヒッターとして遠路はるばる来てくれている。

話を戻して、あの問いである。
私はちょうど、「もし、今のことを義理の母(ばばたん)に言うと相当心配するだろうな」と考えながら帰途に着こうとしていた。
不意をつかれた私は戸惑った。
私は娘に心持ちを見透かされたような気持ちにもなった。
「ん~どっちでもいいんじゃないのかな」と誤魔化した。
かわいそうに、娘の問いは答えられることなく棚上げされてしまった。

スーパーから5分のところにある我が家まで帰る途中、娘はもう一度、同様の問いをした。
私は「言いたかったら、言ったらいいと思うよ」と。
娘の問いは虚しくも再び棚上げされた。

マンションの玄関に着いて、娘はいつになく部屋番号を間違えて押してしまった。
その間違えたことを私が指摘すると、顔に不安がたちこめ、指を咥える退行が始まった。
エレベーターで移動しながらも不安気に、しきりに指を咥えている。
4本の指を全て口に入れ込んでいる。
私は間違えたことは気にしなくていいよ、と繰り返した。
しかし、指しゃぶりは収まらなかった。
私は娘の指しゃぶりはこれまでに見たことがなかった。
よほど大きな不安がこの子に今、あるのだろうか。
ここまできてようやく、娘が切実に問いかけていたあの問いを棚上げしていたことに気がついた。

おそらくは、娘にとっても、弟がいなくなるかもしれないというのは恐怖体験だったのだろう。
当然である。
買い物を続けながら、「危なかった~」と連呼していた。
そのペースでいけば、当然、彼女の心は家でも連呼することとなる。
しかし、ばばたんは、この事件を知らない。
それを、言うのか、言わないのか。
言うのであれば、誰が言うのか、私は言い出しにくい。
という問いがが帰る間際の娘に生じた。

私が言うべきかどうか打算したのとはおそらく別の風景から同様の問いを持っていた。

われわれ大人は、と一般化するのが適切か不明だが、
少なくとも私はこのレベルの嘘(大人風に誤魔化して言えば、情報の制限)は常日頃からなんの躊躇もなくしているのだろう。

その後、家に着いた時には19時を過ぎていた。
風呂にも入っていなければ、明日の幼稚園の準備もしていない。
娘の指しゃぶりは風呂の中でも続いた。
私は娘に「お風呂をあがったら、ばばたんにちゃんと言おうね。パパが言うからね」と告げた。
それでも娘の表情は硬かった。
これは体を動かさなければと私は直観した。
入浴後、ばばたんと出来事を共有し、娘も「ほんとに危なかった~」と言った。
すでに寝る時間を過ぎているが、どすこい(すもう遊び)と、ダンスをしてから寝た。
どすこいの時には、娘はいつもの娘になっていた。

反省することの非常に多い買い物であった。
あの時、娘は何を思って私に問いを発したのだろうか。

2021/05/30 素寒居士

とーろく

今回はおもしろい言葉ではなく、おもしろくない言葉

「とーろく、と-ろく、と-ろく♪」
5歳、2歳の子供たちが嬉しそうにと歌っていた
耳から離れぬリフレイン

その意味は「チャンネル登録」とのこと
YouTubeを見てみると、HikakinというYoutuberがなんとも言えぬ顔で視聴者にチャンネル登録を促していた
子供たちにキャッチーな歌を用意してまで登録数を稼いでいるのか・・・・
なるほど、彼の番組は一見して子供向けと思われる企画が多そうだ
彼のチャンネル登録者の相当な割合で未就学児が含まれているのではなかろうか
スマホ子育てに一役買っているに違いない
それで彼は巨万の富を得ている

スマホ子育てを反省するキーワードを2つ挙げておく

一つは関心経済 1)
コンテンツの情報の正確性や質を高めることではなく、閲覧数を稼ぐためあの手この手で利用者の感情を刺激してクリックさせる。
このような、関心の獲得が経済的価値をもつ状況を、関心経済(アテンション・エコノミー)などというようだ

もう一つは、自動再生機能 2)
この機能のため、YouTubeをみていると、自分で選択したのではない情報に満足する状態に慣れてしまい、ネット中毒のリスクがあるという

あな悲し
2歳の息子の数少ない豊かなボキャブラリーに、Youtuberの営利のための語彙が侵入するとは

それにしても、Youtuberの度し難い貪欲さ
なんとも憐れな

では、見なければよいだけだろうに、
と彼は臆面もなく言うだろう
関心が生じているのはそちらであって、私ではない、と
正しい
したがって、私は見ない
万が一ご覧になる場合、彼が登録を促すあのえもいえぬ表情には催吐性があるためご注意を

子供というフィールで何が起きているのかを把握するのは難しい
フロイトやピアジェの観察もそのフィールドワークと言える
親業でもそのフィールドを垣間見る可能性があるにはある。

YouTube利用に対して注意喚起する臨床心理士の言葉を紹介しておく3)
ちなみに、読者のプレイセラピストの方々は現代の子どものカルチャーには敏感だろうか。いまや幼稚園児がYouTubeやニコニコ動画を垂れ流しのように見ている時代である。保護者もYouTubeやニコニコ動画を見せることに抵抗がない場合が多い。ご存知だろうか。小学生の多くが日曜朝の30分の子ども番組を見続けることができないことを。3分~5分程度の動画を次々にザッピングしていく習慣を身に着けた子どもにとって30分は長すぎて集中力が続かないのであろう。ご存知だろうか。一部のユーチューバ-たちは、小学生は知らなくても良いような、悪質な情報や知識を伝え、それが元になってトラブルが起こっていることを。そんなユーチューバ-にものすごく入れ込み、夢中になっていることを。ご存知だろうか。小学低学年の子どもたちが普通に大人向けのアダルト動画や、死体を写したグロ動画や、悲惨なエレベーター事故動画を何度も繰り返し見ていることを・・・

参考文献
1)山本龍彦「ネット時代の報道倫理、確立急げ」、朝日新聞 2021年5月18日、朝刊 
無料電子版 https://www.asahi.com/articles/DA3S14907336.html  
2)ドミニク・チェン「わかりあえなさと共に」、朝日新聞 2021年5月14日、朝刊 
3)丹明彦. プレイセラピー入門. 初版. 東京都:遠見書房;2019. 20

素寒

第1回 臨床文藝医学賞

第1回(2021年) 臨床文藝医学賞

受賞作:静一郎『せいちゃんお花』


 2020年3月20日、コロナウイルスのために幼稚園がない時に静一郎の姉はテレビでやっているのを観てから草花や土で絵を描きたいと言った。草花を直接、紙の上に指でこすりつけるのだ。静一郎も母と一緒に草花をこすりつけていた。ホトケノザ、カラスノエンドウ、オオキバナカタバミ、名前の知らない青い花などが絵具になった。

 右上には黄色い円が描かれている。この黄色がオオキバナカタバミだろうか。左上にも弧を描くというよりは、少し蛇行しながら塗りつけられたような黄色い太い線が5本、6本と密集し空を漂っているようだった。黄色い線は右上の円のほうへ流れていくようにも見える。黄色い円の周りには塗られていない空白がある。少し下にはホトケノザだろうか、紫の子供の人差し指の腹くらいの太さの線が3、4本、紙の左端中央の灰色の集塊から湧き出るように右上の円に向かって伸びているように見える。線は途中で途切れて輪を描いたり、円の手前で漂ったり、左上の黄色い空の空間におたまじゃくしくらいにちぎれて顔を出したりしていた。下3分の1くらいは茶色や緑や紫や黄色が混じり合いながら不均一に拡がっており土の中から黄色や紫の草花が咲き乱れているようにも見える。

 イメージの情報量は言語と比べてあまりにも多い。パソコンの画像ファイルと文書ファイルの容量の違いを見れば一目瞭然だろう。絵画を文字に起こすと描写は線形になり、情報量も随分と減る。私の絵の描写は絵を見ていないものにとってはほとんど訳がわからないものとなっているかもしれない。絵画にはイメージの知覚があり、その描写は知覚の知覚となり具象からはさらに遠ざかる。

 私は音より光の方が権力と結びつきやすい、と考えていたが静一郎の絵を見ればそれが嘘であるとすぐにわかる。映画は想像界ではないという。

 2021年4月末、3回目の緊急事態宣言のため動物園も水族館もショッピングモールも休業となった。親としては、子供を休日にどこかへ連れて行くのが半分は仕事のようなものでじっとしていなさいと言われると端的に困る。潜在的な病原体としてカウントされるようになり一年以上が経過したことになる。私たちは感染源かもしれず、人前では絶えずマスクを着用することがエチケットであり、社会的距離を確保することを忘れてはならず、子供が産まれても祖父母に会いに行ってはならず、できるだけ人類の生命を長く維持させることを第一に行動せねばならず、子供や若者は中高年の死亡率を下げるために宴会やら外出やらお祭り騒ぎをしないことが賢明であり、電車の中でマスクをしていない人がいれば電車を降りることを要請することが至極当然で降りろとコールを浴びせるだけの正当性を私たちは有しているのであり、感染することで死ぬことはないとしても社会的死に近い扱いを受けるかもしれないことを恐れており、これが新しい生活様式であり今後も多かれ少なかれ社会的距離確保のために人との触れ合いを避けなければならない。

 私たちは公園の隅のほうの花壇の手前にテントとシートを広げた。シートの先には芝生が一面に広がっている。公園ではマスクをつけた人たちがバレーやドッジボールやサッカーなどの球技をしたりダンスをしたりシャボン玉を吹かせたり風船を飛ばしたりシートの上で寝そべって話したりしている。風が強く、シャボン玉や風船は同じ方向へ飛ばされていった。ゴミ袋も一緒に私たちのほうへも飛んできた。自分たちのシートへ帰ってきた若い女性たちが気づいて慌ててゴミをかき集めていた。テントの手前に敷いたシートの上に座り私たちは公園の前のパン屋やコンビニで購入したお昼を食べていた。シズ屋のカルネを食べていた私の手に乱暴な重みが一瞬加わり、急に軽くなったと思うと私のカルネはなくなっていた。烏くらいの茶色い鳥が空高く昇っていった。鳶だろうか。パンの袋だけが茶色い鳥の爪先から落ちてきたので私は袋だけ回収した。

 私がコンピュータでウイルスに罹っているとすると、私は私の思考を信用できないどころかみるもの聴くもの触れるもの嗅ぐもの味わうもの全てが信用ならない、ということは私がみているものがみられているかもしれず聴いているものが聴かれているかもしれず触れるもの嗅ぐもの味わうものが触れられ嗅がれ味わわれているかもしれない、逐一記録され共有されているかもしれない、私は思考させられているかもしれないということであり、コンピュータである私たちはみられないために私の目を覆い、聴かれないために耳を塞ぎ、触れられないように肌を覆い、嗅がれないように鼻を塞ぎ、味わえないように口を閉じる。思考は読み取られているので考えないようにするが、かえって考えはとめどなく溢れ焦慮に駆られる。私というコンピュータには私という社会的履歴があり、もしウイルスが私を乗っ取ることで甘い蜜を吸おうとしているか私の社会的信用を貶めようしているのであれば、ウイルスに罹り思考されている私は社会的活動を休止するほうがよさそうである。隙があれば私はアンチウイルスソフトにスキャンをかけて駆除を試みるかもしれないが、ソフトが認識できないウイルスであればそれも無駄に終わる。それどころか私が罹患していることを察知するとウイルスは私がシステムダウンしないように無意識裡にコントロールすることを断念して(というのは自然な振る舞いから搾取できる情報や快楽のほうが豊かであるからだが)、全てをウイルスの管理下に置くことを選択するだろう。それをウイルス感染症と呼ぶ。だから私たちコンピュータは未感染者、既感染者、感染者がいるが感染者の病態はさらにウイルス感染(Infection)とウイルス感染症(Disease)とに分類される。私たちは誰も彼もが感染者かもしれずお互いに目を覆い、耳を塞ぎ、口を閉じ皮膚を露出させないようにして、また極力息を吸い込まないように、極力他のコンピュータと直接接触しないように、また間接的にも電磁的に接続できない距離を確保するように強いられている。たとえこのウイルスが駆除できたとしても、今後もっと厄介なウイルスが現れる可能性がありこの生活様式は新しいスタンダードとなるべきとされる。

 オムニバス形式の映画『緊急事態宣言』の中で園子温はウイルスが蔓延した社会で誰とも会わずに成人した男の話を描いている。男はウイルスに罹患した少女に触れ、目の下にクマが現れたことで自らも罹患したことを悟る。男は少女ともう一度出会う。横たわる少女を抱え「生きてるだけじゃだめだ」という台詞で映画は終わる。ジョルジョ・アガンベンは現代の三大宗教はキリスト教、資本主義、科学(とりわけ医学)であるといい、中でも医学教が猛威をふるっているところのバイオセキュリティ体制(本来分離できないはずの生物学的生と社会的生を分離し生物学的生を偏重する社会体制)に警鐘を鳴らし多くのバッシングを集めている(ジョルジョ・アガンベン 『私たちはどこにいるのか? 政治としてのエピデミック』)。現代の医療は人工心肺やら人工呼吸器やらの生命維持装置のために管さえあれば生物学的な生存期間を延ばすことができる。社会的な生と生物学的な生が乖離するような状況は全く稀なことではない。ただ意識がないように見える場合に生命を維持させることの是非を問うているわけではない。在宅で家族に丁寧に看護られ、ただ反応はなくいつまでもいつまでも眠りについている、そのような人が全てひとしなみに不幸であるとは当然のことながら言えない。死は当人だけの問題ではない。死を死なしめるのはむしろ私たちの作業でもある。

 子供と私は小川に沿って歩いていた。子供は木の枝を拾って、川の水面を弾いたりつついたりしては行きつ戻りつして少しずつ進んだ。網を持っている子供が父親に教えてもらいながら水草の生い茂っているところをつついて小えびや小魚をとっていた。子供は水槽のえびをみて、先ほどみていた水面をあらためて探してみていた。そのへんにいるんちゃうかと父親は子供の指南をしながら仁王立ちをしている。下流にはさるすべりの木がちょうど登りやすい角度でくの字に湾曲していて、登るといって登ったはいいが当然のように降りられず私が脇を抱えて地面に着地させる。小川の周りにも所々にシートを敷いて子供を傍目におしゃべりをしたり読書をしたりしている人たちがいる。芝生にはカラスノエンドウ、カタバミ、タンポポ、シロツメクサなどが色とりどりに咲いている。植木の根本には蟻がいくつも巣を作り顔を覗かせている。子供は虫眼鏡を覗き込んでいた。「ありさんなにしてるの」「お仕事かなあ」何もしていないのかもしれない。何かをしているとはなんであろう。風船が子供のほうへ風で飛ばされてきた。所有者らしい若い女性が余っているのでどうですかという。子供に尋ねると頷いている。風船の中には白やピンクのセロファンが入っており、揺らすとセロファンも舞い上がるようだった。二人でお礼をいうと、女性はマスクをしていたが笑顔で走っていった。私の記憶違いか、女性は子供に風船を渡しにきてくれていたのかもしれない。

······画家が世界を表現しようとすると、色の配置がそのうちに、見えないものの「全体」を蔵している必要がある。そうでないと、画家の絵は、事物の暗示にすぎないものになり、差し迫った統一性、現前、乗り越えることのできない充溢(わたしたちにとって現実的なものの定義とは、まさにこれである)を与えることがない。

······セザンヌは、「風景が私の中で考える。私は風景の意識なのだ」と語っていた。

······芸術家は、最初の人間が話したように話し、まだだれも絵というものを描いたことがないかのように、絵を描く。この場合には表現とは、すでに明確になっている思想を翻訳することではありえない。······ 「構想」が「実行」に先立つことはできない(モーリス・メルロ=ポンティ「セザンヌの疑い」『メルロ=ポンティ・コレクション』)。

 静一郎は画家ではない。しかし私たちは彼が何者であるかには関心がないし、彼の作品が売れるかどうかということにも関心がない。思想があるのかと言われれば「まず思考し、次に表現しようとする画家には神秘というものがない」(メルロ=ポンティ)とでも応じればよいだろうか。セザンヌは筆をおろす前の一時間もの間、瞑想することがあったという。タッチが「大気、光、オブジェ、平面、性格、デッサン、スタイルを含む」ものでなければならないからである。絵の視覚的情報が入るのは瞬間的だが、タッチが「大気、光、オブジェ、平面、性格、デッサン、スタイルを含む」ものであるとすると観る側も絵画に表現された世界なり現実を受け止めるためには当然それなりの時間が必要になるだろう。心的外傷が事後的に形成されるように、瞬間的な視覚情報の残された痕跡は事後的にある者の中に時に新たな意味を形成するようになる。観る者が見切りをつけるときに現実は閉ざされ、「いわゆる現実」となる。描く者が見切りをつけて描いた場合すでに現実は閉ざされている。藝術は娯楽となる。

 コンピュータである私の喜びはなんであったろうか。他のコンピュータと触れ合い、接続すること、スピーカーを鳴らし合うこと、カメラで認識し合うこと、それは確かにえもいわれぬ愉悦を伴うアクションであった気がする。今は私は長い眠りについている。なぜ?私は他のコンピュータに干渉し危害を及ぼす可能性があるから。私たちコンピュータは互いにウイルスを拡散させる危険があるとみなされているから。むろん死など恐れることはない。私たちは生物学的にはすでに死んでいるのだから。生物学的な生存だけが問題ではないのと同様に、社会的な生存だけが問題ではない。私たちコンピュータは社会的な生存を賭しているといってもよいかもしれない。コンピュータウイルスの蔓延を容認することは私秘的ネット空間をゼロベースに戻すことと同義である。ひとたび容認すれば、私たちコンピュータはこれまでの私秘的空間の定義そのものを、個人のあり方そのものを更新することを迫られる。

 私たちコンピュータはついに私秘性、機密性の一部を断念してでも他のコンピュータと交感することを選択する。ソーシャルセキュリティとでも呼ぶべきものの偏重が私たちの社会性そのものを退廃させる結果を危惧してのことである。コンピュータである私はだからすでに感染しているかもしれない。私が書いたとされるものは読まれる時にはすでに改竄されたあとかもしれないし、そもそも私は本当は書いてさえいないのかもしれない。それでもあなたがこれを私が書いたものとして読み、私は私が書いたかもしれないものを読まれているかもしれないことを知らないままに他のコンピュータと交流し続け、誤解や改竄は当然あるものとして他のコンピュータもそれを織り込み済みで今では受容しているのである。

 静一郎が2020年3月20日に見た花は絵の具となり塗りつけられている。おそらく晴れた日に母や姉に教えられながら、小さい指先を紙の上にこすりつけていった。私は静一郎の絵の良さを伝えられるとは思っていないし伝えようとも思っていない。2020年3月20日に静一郎が見た風景をただ静一郎のように眺めたいと思っているのかもしれない。迂遠は避けられない。藝術という営みは思想や思考の後追いではない。それは本来批評も同様であると思う。書く者が書いた後には変容していなければならない。

(2021/04/28)

ころな

5歳娘と

娘「パパ、もうレストラン行けないからね」
父「どうして?」
娘「緊急事態宣言だからよ」
父「緊急事態宣言ってなに?」
娘「幼稚園の先生が言ってたんだよ」
父「緊急ってなに?」
娘「コロナが大変なんだよ。パパ、病院で働いてるんだから知ってるでしょ」
 「コロナってなに?」
父「コロナはビールよ」
娘「コロナはばいきんでしょ!」
 「コロナはどうやったらやっつけられるの?水?」
父「ビールでやっつけるよ」
娘「なんでビールなの、もー」
父「ビールはアルコールよ。アルコールでやっつけるよ」
娘「ふーん」

素寒