産婦人科

当院はゆるやかゆえ、当直も希望制であり入らなくてもよい。

私はここ数か月当直に入っていない。

手技や知識、症例を貪欲に学ぶ同期達に気圧されたのもある。

救急が恐ろしくなったのもある。

とりあえず生きていければよいと思う。

私は無能である。

讃美歌にあるように、「世の友我らを捨て去る時も」神さんはこちらを見てくれているのなら、人間に背かれる苦痛にもなんとか耐えられる。

人生は一切皆苦である。自力でどうにもならぬ以上、私は祈り求めて与えられてきた。自力で獲得したものは何一つとして所持していない。

産婦人科で分娩を見ていると、この子達はむろん私より遥かに優れた資質があるだろうから、人生を逞く生き抜いていくのには違いないが、もし万が一私のように無能に苛まれることがあれば気の毒である。

分娩はほぼ必ず会陰が裂ける。

イヴが楽園追放の罪のために出産の苦しみを義務付けられたとあるが、たしかに出産は大変な出来事である。

日本神話にてイザナミは火の神カグツチを産む際に産道を焼かれて絶命したのであった。

出血する会陰を処理する医師の手元を見ながら、この赤い血が炎に擬せられたものかとも思える。

自力も、社会的つながりも、私のような愚かな人を救い得ぬゆえ、そうした外道のために神や仏の需要は尽きることはない。

論理的に神はいないと言えたとしても、聖書にあるように神の名は「私はある」という名であって、ただそのように思うより他は無い。

自力を恃める人は自力によって生きるのがよい。

神仏に祈らねばならぬ人は祈らねば到底生きてはいけぬ。

祈っても苦しみが止むことはない。

しかしわずかに生きることはできる。

空谷子しるす

女と男の約束

寝床にて6歳手前の娘と

娘:パパはももちゃんを独り占め?
父:うん、独り占めかな~
娘:ママ、パパがももちゃん独り占めだったで
母:え~、ママだってももちゃん独り占めにしたいのに
娘:二人で話し合って決めればいいんじゃない?
父:何を言うとんねん
娘:おまえが何を言うとんね〜ん
一同:笑
父:お父さんにお前って言ったらあかんな。じいじが聞いたらびっくりするわ。
母:でもツッコミとしては面白いね
父:そう、ももちゃんはツッコミとして言ったんよね。

その後、娘がやってきて耳元でこっそりささやいた
娘:さっきは勝手に口が動いただけ。
父:そうなんやね。
娘:さっき口が勝手に動いたこと誰にも内緒だよ?
父:なんで内緒なん?
娘:だって、内緒じゃないと、それはそうじゃん。わからないの?
父:うん
娘:ママがそんなことないでしょ~って言うから。ママには内緒で子供だけには話すの
父:じゃあお父さんは子供なん?
娘:女と男の約束ってこと

素寒

ほうちょうをもった女

6歳手前の娘と

娘:ほうちょうをもった男が電車にいたんだって
父:ねえ、こわいねえ
娘:ほうちょうをもった女が電車にいたらどうする?
父:うーん、こわいねえ
娘:そんなわけないじゃん、女の子は優しいもの。そんなことしないよ。
父:え〜そうかなあ、こわい女もいっぱいいるんじゃない?
娘:え〜、ももちゃん、変な人にはついていかないもん

消化器内科

消化器内科といえば緊急にて食道静脈瘤破裂や憩室出血が来る科であるが当院はゆるやかであるから時間外に研修医が呼ばれることはない。

研修医のやることは内視鏡の設置、移乗介助、鎮静剤の静脈路確保、生検介助、ルゴール液散布やインジゴカルミン散布介助、雑務であり、しかれどもやるべきことが明確なのは私にはありがたかった。

病態はどれをとっても分かりきることはない。わからぬものをわからぬでは話が進まぬからガイドラインを覚えて治療方針を立てよと言われる。私は私なりに必死を尽くすが、私の能力は至らぬからやりきるを得ぬ。

私は患者の方々とよく話す。彼らは寂しいのかしらぬがよく話してくれる。当院の周囲がのどやかな土地柄であることもあろう。

患者方と話す。神社に行って祈る。くたびれて眠る。相変わらず女からは相手にされぬ。いままで一度も相手にされたことが無い。このまま一生独身かとも思う。鏡を見て、おのれの醜さを思う。また神社に行って祈る。私には祈ることしかできぬ。

学生実習で神経内科を回ったときにさまざまな神経難病を拝見したのである。

若くして発症した場合、世間的に言う青春を諦めざるをえぬことが多くある。

チャプレンのごとき活動をする浄土真宗の僧侶が話してくれたことがあった。

「神経難病の若い男の子がね、お坊さん、あんたはいくら話しても僕の気持ちはわからないだろうと言うんですよ。だってお坊さんは学校も行って、仕事もして、結婚もしてるじゃない。僕はなんにもできないんだよ。お坊さんは僕の気持ちは絶対にわからないよ」

箕面の老師は言ったのである。

「司祭が一生独身なんは、いろんな都合で結婚できない人らの気持ちがわかるようにということもあるんちゃうかな」

私は神経難病患者のようにやむにやまれぬ事情もない。司祭のように自ら貞潔を誓ったのでもない。ただ女に厭われるのであって、それはある意味では最も惨めな立場なのかも知れぬ。

実用、実用の病院のことどもがうまくいかぬ。私は知能が足らず医者に向いておらぬと思う。しかし飯を食うためにやれる限りのことをやり、やりたくないことは極めてやりたくないと思う。

出町柳の柳月堂でケーキを食いコーヒを飲みながらこの文をものしている。

背後で女子大生がよい男をひっかける算段をしている。

私は現代日本社会から結果的に疎外されている。

日蓮のごとく正しいがゆえに世が逆らうと思うべきか。

もはや努めて楽しいことを探し求める時期に来ている。

空谷子しるす

ぴーかん

ぴーかん

最近よく聞くお経のフレーズを
寝床でおもむろに発してみた

隣の5歳娘がただちに反応する

ぴーかん?

やや遅れて2歳息子も身を乗り出して応じる

ぴーかん!?

二人の嬉々とした声色は新しい玩具を見つけたようだ
言葉は精神にとって玩具のように機能することもある
だじゃれ、連歌、ラップなど玩具性が際立つ

ぽぱーぺ ぽぴぱっぷ

と言えば、谷川俊太郎の絵本だが、玩具そのものである

娘:ぴーかんってなに~?
父:・・・・ぴーかん、のんりき

娘、息子:ぴーかん!

素寒

はたらきつづける

5歳の娘と

娘:あした、おしごとなの?
父:うん、そうよ
娘:え〜、なんで?
父:う〜ん、だって、毎日働かないとお金もらえないものね
娘:はたらきつづけないといけないの?
父:うーん、そうね。ももちゃんは、今日だけご飯食べるの?毎日ご飯食べるの?
娘:毎日たべるよ
父:じゃあ、今日だけ幼稚園に行くの?それともこれからも行くの?
娘:これからもいくよ
父:ご飯を食べるのにも、幼稚園に行くのにもお金を払わないといけないものね
娘:じゃあ、幼稚園のバスにもお金をはらってるの?
父:払ってるよ
娘:ガーン!
娘:お金チョコ買わないと
父:え?
娘:お金チョコ知らないの?イオンで売ってるよ

素寒

一日

日野西光尊の「衆生ほんらい仏なり」を読んだり、関山慧玄禅師伝を読んだり、インターネットでゲーム実況動画を聞いたり、ある炎上した配信者を数年にわたり罵倒するスレッドを見たりしている。

苦しみとは日野西が言うように己の心が描き出すのみのものなのだろうか?

仏道にある人はしばしば、世の中のことはすべて自分の心が描き出したに過ぎず、無我になって暮らせばいきいきすると言うのだ。

さまざまな残忍な事件や病気や障害や迫害をうけて人は苦しむのだがそれらは自分の心の捉えようだと言うのだろうか。

幼稚園の時、私はオーストラリア人の神父が師であった。師は怒ったことは一度もない。真実やさしい人であった。

彼はなんらかの癌になり天理よろづ相談所病院にて帰天したのだったが、最後まで痛みにかかわらず微笑み病棟の患者や看護師に優しさを見せていたと言うのは病棟看護師の言葉だ。これは無我の人だったろうか。人が無我になるには神の御助けがなければ無理だと思う。

私は苦しいのである。腰が痛い。眠りが浅い。患者の管理がわからない。必死になって内視鏡を台に吊り下げる。医者になるには頭が悪すぎるように思う。

同期の研修医がたびたび研修の苦しみを訴える。私も苦しい。みなそれぞれに苦しい。

外に光が出てきた。雨は落ち着いてきたのだ。

私は神社に詣でようか考える。しかしこのあと、研修医と昼間から室の内で酒を飲む約束をしている。遠出はしがたい。

床の間に神社の御札を置いて神棚としている。毎日塩と水と米を上げる。手をあわすと心が落ち着くようだが、別に頭が急に良くなったり体の疲れや腰の痛みが取れるわけではない。伊勢の神宮を心に描き、拝殿の前に平伏して額着く想像を描く。「成る」と言われているような気がする。なんだか物事がうまく行く気がするが、苦しみは苦しみのままである。

無我になってひたすら人のために生きるとよいと日野西は言う。人のため人のためというと潰れはしないか。大学の救急の教授は自分が幸せでないと医療なんかできないと言っていた。

私自身が苦しいのに人の苦しみを聞くというのは救いがない。いまは酒はいらない。眠りたい。

空谷子しるす

ぼちぼち

就寝時、5歳娘と

母:今日忙しかった?
父:ぼちぼちやなあ
娘:ぼちぼちってどういうこと?
父:まあまあってことかなあ
娘:まあまあってどういうこと?
父:うーん・・・ママァ!ってことや
娘:違うでしょ!
父:うーん。6割くらいってことかなあ
娘:6割ってどういうこと?
父:10あったら6くらいってことかなあ
娘:それってどういうこと?
父:うーん・・・
父:どないでっかって聞かれたら、ぼちぼちでんなって答えるねん
言ってごらん、ぼちぼちでんなって
娘:ぼちぼちでんな
父:ちゃうちゃう、ぼちぼちでんな、や。
娘:言ってるでしょ〜
父:いや発音がちゃうねん。ぼちぼちでんな、や。言ってごらん。
娘:ぼちぼちでんな。
父:ちゃう。ぼちぼちでんな、や。
娘:ぼちぼちでんな
父:そういうことや

素寒