一日

日野西光尊の「衆生ほんらい仏なり」を読んだり、関山慧玄禅師伝を読んだり、インターネットでゲーム実況動画を聞いたり、ある炎上した配信者を数年にわたり罵倒するスレッドを見たりしている。

苦しみとは日野西が言うように己の心が描き出すのみのものなのだろうか?

仏道にある人はしばしば、世の中のことはすべて自分の心が描き出したに過ぎず、無我になって暮らせばいきいきすると言うのだ。

さまざまな残忍な事件や病気や障害や迫害をうけて人は苦しむのだがそれらは自分の心の捉えようだと言うのだろうか。

幼稚園の時、私はオーストラリア人の神父が師であった。師は怒ったことは一度もない。真実やさしい人であった。

彼はなんらかの癌になり天理よろづ相談所病院にて帰天したのだったが、最後まで痛みにかかわらず微笑み病棟の患者や看護師に優しさを見せていたと言うのは病棟看護師の言葉だ。これは無我の人だったろうか。人が無我になるには神の御助けがなければ無理だと思う。

私は苦しいのである。腰が痛い。眠りが浅い。患者の管理がわからない。必死になって内視鏡を台に吊り下げる。医者になるには頭が悪すぎるように思う。

同期の研修医がたびたび研修の苦しみを訴える。私も苦しい。みなそれぞれに苦しい。

外に光が出てきた。雨は落ち着いてきたのだ。

私は神社に詣でようか考える。しかしこのあと、研修医と昼間から室の内で酒を飲む約束をしている。遠出はしがたい。

床の間に神社の御札を置いて神棚としている。毎日塩と水と米を上げる。手をあわすと心が落ち着くようだが、別に頭が急に良くなったり体の疲れや腰の痛みが取れるわけではない。伊勢の神宮を心に描き、拝殿の前に平伏して額着く想像を描く。「成る」と言われているような気がする。なんだか物事がうまく行く気がするが、苦しみは苦しみのままである。

無我になってひたすら人のために生きるとよいと日野西は言う。人のため人のためというと潰れはしないか。大学の救急の教授は自分が幸せでないと医療なんかできないと言っていた。

私自身が苦しいのに人の苦しみを聞くというのは救いがない。いまは酒はいらない。眠りたい。

空谷子しるす