島行

本土からそんなに離れていないところに小さな島が浮かんでいて、そこに診療所があるけど週末医者がいないから働き手を探していたのだったが、たまさかI先生がそこに働きに行かれるとのことだったので私もついていくことにした。

島と言っても本土から40分くらいの船路である。

島は砕石で昔は潤っていたが、いまは寂れている。

港にはいくつも造船所のクレーンが生えている。

くたびれたドラム缶に火を焚いて、人が暖をとっている。

島には延喜式内の古社がましましていて、とてもよく祀られている。

島は幸いにして患者さんはほとんどこなかった。

私は一日、I先生のこどもたちと遊んでくらした。

彼らはなんでも面白がれる才能があった。磯辺から離れようとせず、みずたまりを木の枝でつつきまわしたりしてはしゃいでいた。もし磯だまりがあれば、なおさら彼らの心を弾ませたことだろう。

その島は、本土にちかいということもそうなのだが、どうにも島らしくなかった。

浜辺もなく、磯だまりもなく、漁船もあんまりなく、魚ではなく「のり」が特産品だった。

そして造船所のクレーンのむれが、さびついたサーカスの天幕張りみたいに、産業の鉄さびたにおいを撒き散らしている。

さび!この島はさびていた。海辺だからあちこちさびるのは仕方ないことだ。しかし時の流れや産業のうつりかわりが、この島をさびさせている。

そしてそのさびをどうにも憎めないのだ。

私とI先生はその晩「パラサイト 半地下の家族」をアマゾン・プライムで観た。

島で観たその映画は、映画としてとても極めて優れたものだった。そして島にとてもふさわしかった。

翌朝I先生たちと私は島を発つために港に出た。

島のこだかい丘に、まだ船には時間があるから登ることになった。

こどもたちは登ることそのものを楽しむことができる。

私は丘のうえから海を見た。

朝の日の光が海の上に反射してきらめいている。

ちいさな島のちいさな港が真下に見える。

本土の街から人を乗せに船がやってくる。

私たちも乗らなければならない。

島と私たちは、お互いの時間に戻っていく。

空谷子しるす

救急

救急の二か月が終わろうとしている。

ちかごろ余り眠れなくなった。

私は循環器内科医から侮蔑されているようだ。

他の研修医には優しい循環器内科医も私に対しては容赦ない。

私は自分が無能である意識をいよいよ確かめていく。

この二か月で分かったことは私は全く救急に向いていないということと、私は他の研修医よりも頭が悪いということだ。

人は得意なことで生きたほうがよい。

私はなにが得意なのだろうか。

以前診ていた患者さんがまた入院してきたので病棟まで会いにいった。

以前より弱った彼女は私のことを覚えていてくれた。

30分と短い時間を共有して私は病室から去ったが、「また来てくださいね」と彼女は言うのだ。

患者の人たちと話すのは私にとって一種のよろこびである。

しかし頭の悪い私は、ガイドラインやガンマ計算やさまざまな薬や指示のわからない私は、彼らを助ける術を持たない。

仲間である医療者たちの邪魔でしかない。

私はどうしたらいいかわからない。

空谷子しるす

覚書1

覚書1
 足の裏に忘れるなと書かれているマジックの文字をシャワーで洗い落としながら、忘れてしまったことを思い出そうとしていた。必死ではない、というのも私はその頃には忘れたことも忘れているのだから。左足を洗い、右足を洗い、左足を洗い、右足を洗い、左足を洗い、左足を洗い、左足を洗い、右足を洗い、右足を洗い、左足を洗い、左足を洗ったかもしれない。そしてまた左足を洗い、左足を洗い、右足を洗い、右足を洗い、右足を洗い、右足を洗ったかもしれない。 

 私は仕事の一つを思い出した気がして外へ出た。「どうして靴を履いてないの」と問う子供がおり、私はまた靴を探しにいくはめになった。 

 十分くらいだったか、二時間くらいだったか、車窓から田園風景が続いた。電車の子供がどうして靴を履いていないのかと問うた。どうせまた忘れたのだろう。私は彼に微笑みかけ、忘れてしまったんだと答えただろうか、それとも失くしたんだと答えただろうか、だから探しにいくのだと。 

 車窓には黒いスーツを着た男ののっぺりとした顔が映し出されていた。ネクタイはしていない。シャツも襟が乱れている。靴は履いていない。髭は生えていただろうか。今は、生えている。私は、と言ってよければ、私は河岸の芝に座り込んで、じゃらじゃらとした水の擦れる音を茫然と聞いていただろう。ある女性は目を見開いて川とは反対方向に電話を掲げて口の端を持ち上げていた。もう一人の女性は長い柄をつけて、より高く電話を持ち上げていた。光が粒となり川面を弾いているようだった。 

 もし仮に、と私は、と言ってよければ、私は、考える。私が会社員であるとすれば、どうだろうか、私はそれなりに優秀な会社員で、会社のために何かしらの成果を上げていた。書類を仕上げたり、会社員達の前で会社のためになるような何かしらのプロジェクトについてプレゼンをしたり、仲のそれなりに良い同僚や上司と米の汁を啜り合ったり、そうしているうちにある人と結婚して、子供が産まれたりした。 

 水面は次第に赤く滲んでいく。遠くで竹林の葉の擦れ合う音がする。私は鞄から書類を取り出し、確認するというより思い出すために、一字一句を読み上げる。企画書の類だろうか。それはこう述べる、夜明けを知るためには、夜を知らねばならないだろうか、そのためにはもう一度夜を知らねばならないだろうか、忘れる前に忘れるために、手を触れる必要があるだろうか、というのもそうでなければ忘れたことを私は思い出したふりさえもできなくなるだろう。第一に、手順を決めることである。もし私が、こう言ってよければ私が、靴下や靴を履き忘れるとすれば、それは特別なことではないのだ、それがあなたにとって初めてだとしてもそれはもう何度繰り返されたことか、私はと言ってよければ、私は、ただ、それを知らないだけであると知ることである。第二に、手順をその都度決めることである。常に決めることである。あなたが仕事を忘れたとしてもそれは大したことではない、もうずっとそうである、あなたはもうずっとそうである。たとえば、金木犀の香りがした、それがあなたの家の玄関に植えられており、借家となった今でもそれはそこにあるだろう。春になれば、青黒い毛虫がつくのだ。子供は気をつけよと祖母の声がするだろう。マニュアル式の軽自動車で君は学校の裏門まで送り届けられる。サッカーボールとサッカーシューズを持って、君は駆けていく。早く終われば良いと思った。運動は楽しいものではない。もちろんいつもではないが、練習の繰り返しは退屈で試合はひどく体を酷使する。 

 ひぐらしの時雨れる山をその子供が親とその兄弟と従兄弟と登っている。傘をさしている。山の喫茶店は薄明かりで照らされ、打ちつける雨音と静かなBGMが流れていただろうか。子供はグラスの水滴をなぞり、照明を反射する氷の表面を話を聞くともなしに聞きながら眺めていた。それは光の粒が彼を眺めているのだった。何度でも繰り返す。彼は何度も忘れている、忘れたことにも気づかずに、世紀の発見をしたと目を輝かしている、それは正しい、彼は確かに発見した、その都度忘れ、その都度新しい発見をした。君が覚えていようがいまいが、どうでもいい。 

 竹林の中には線路が横切っている。君は線路の前に立ち尽くしている。子供が駆けてくる。彼は私の前を通り過ぎてゆき、笑顔で振り返り、また前を向いて全速力で駆けてゆく。

患者さんのことなど7

「僕は青森で工場長していたんよ。もともとこのあたりの会社やったんけどね」

彼は下部内視鏡を受けるために入院し、その結果多量のポリープや癌らしき組織を認めた方だった。

喉が詰まると言うので上部内視鏡も行ったのであった。その結果大きな潰瘍性病変を認め、生検を行ったのであった。

それから全ての大腸ポリープを切除するため、引き続き入院となっていた。

「ちいさいころは満州でね。引き揚げて北海道に行ったけど身寄りがないので、東京のおばのところに行ったんよ…」

それからこの地の工場に就職し、さらに青森の工場長を任されるに至ったらしい。

「工場が長いからね」

と彼は言った。

「三交代勤務のしんどさはよくわかってるよ。看護師さんは大変や。僕らも夜間の故障があったら、朝が来ても直るまで帰れないからな…」

彼はたいへんな勉強家で、自らに行われた処置や投薬をことこまかに手帳に記録していた。

「若い時からのくせなんよ」

と彼は言った。

「一生勉強や。医者もそうやろ」

上部内視鏡の生検の結果、彼は進行食道癌であった。

主治医から病態の説明を受け、それから私がしばらくしてから彼の床に訪れた。

「食道癌…」

彼は泳ぐ目で宙を見た。

「問題は、どこが原発なのかということや。大腸か、食道か…」

彼はぽろぽろと泣いた。

「どこで手術を受けるのが良いのかな」

彼はいろいろ自ら調べた結果、他県の大学病院に手術を希望して行った。

空谷子しるす

患者さんのことなど6

その方はS状結腸癌の術後であった。

「若い頃は臨床検査技師やったんやけどね」

いまは認知症患者のケアマネージャーをしているらしい。

「認知症患者の人が、弄便て、便をいじらはるでしょう。あれは便器が手水に見えてはるんかなと思うんよ」

彼女の若い頃にはまだ廁の外には手水があった。

上からブリキの缶が吊るされていて水が入っていたり、水の入った陶器の器が置いてあったりしたのだ。その水を使って手を洗う。

「認知症患者の人たちもそういう年代やから、ぼっとん便所の世代やから、水の張ってあるところに便があると『手水に汚いものがある』と思うらしいんやね。それで掬って取り除かなあかんと思うんやと」

そんなものかなと思った。自分はブリキや陶器の手水はいまだ見たことがない。

「それで掬って、でも自分の手に汚いものがついているし、あわてて壁になすったり、どこかに隠したりするのよね。彼らも『なんとかしなあかん』と思ってるのよ。理性はあるんよ」

彼らの時代の考えや文化を知らねば認知症を知ることは難しいという。

「それにしてもネ」

ふと懸念の色が彼女の額にかかる。

「切り取った私の腸の病理、どうなってるんかなあ」

彼女は元々臨床検査技師だったから、そういうことが気になると言った。

「私もむかしは標本作ったりしていたけど、40年も前の話やからね」

彼女は寂しそうに微笑んだ。

「まだ結果はさすがに出んよね」

断端から腫瘍の細胞が出るか出ないかは、たしかにまだ時間のかかるようだった。

「そうよねえ」

困ったように微笑む彼女は窓の外の田ンぼや団地を眺めるのである。

外は良い天気だ。

「そうそう、孫が音楽やっていてね、演奏を動画にして贈ってくれたんよ…」

空谷子しるす

外科

外科のローテーションは基本的には急性胆嚢炎や鼠径ヘルニアの第一助手を務めることが目標になる。

言われたことを我なりに必死にやるしかないというのは、私にできる唯一のことである。

病棟管理は任されないから気楽なものである。外科の医師たちも破格に優しい。当院は恵まれていると思う。

日々は過ぎ去る。

大切なことは祈り以外に何もない。

空谷子しるす

なんでかえってきたの

2歳11ヶ月の息子

帰宅と同時に息子が問うた。

パパなんでかえってきたの?

父:えーっと、かんちゃんと遊びたかったからかな
息子:なんで?
父:うーん、遊びたかったからかな

主語が立つようになった2歳2ヶ月から8ヶ月経過したこととなる。
主語が立つようになり、その後からイヤイヤ期が訪れ、
ここ1ヶ月は、ナンデ期にある。

さっきの問いを終えてからものの数分も経たないうちに再び問われる

息子:パパなんでかえってきたの?
父:うーん、みんなに会うために帰って来たんだよな
息子:なんで?
父:なんでって、ここはお家だもんな
息子:なんで?
父:じゃあ、かんちゃんはなんでここにいるの?
息子:かんちゃんのおうち

その後も同じ問いが反復される・・・

素寒

産婦人科

当院はゆるやかゆえ、当直も希望制であり入らなくてもよい。

私はここ数か月当直に入っていない。

手技や知識、症例を貪欲に学ぶ同期達に気圧されたのもある。

救急が恐ろしくなったのもある。

とりあえず生きていければよいと思う。

私は無能である。

讃美歌にあるように、「世の友我らを捨て去る時も」神さんはこちらを見てくれているのなら、人間に背かれる苦痛にもなんとか耐えられる。

人生は一切皆苦である。自力でどうにもならぬ以上、私は祈り求めて与えられてきた。自力で獲得したものは何一つとして所持していない。

産婦人科で分娩を見ていると、この子達はむろん私より遥かに優れた資質があるだろうから、人生を逞く生き抜いていくのには違いないが、もし万が一私のように無能に苛まれることがあれば気の毒である。

分娩はほぼ必ず会陰が裂ける。

イヴが楽園追放の罪のために出産の苦しみを義務付けられたとあるが、たしかに出産は大変な出来事である。

日本神話にてイザナミは火の神カグツチを産む際に産道を焼かれて絶命したのであった。

出血する会陰を処理する医師の手元を見ながら、この赤い血が炎に擬せられたものかとも思える。

自力も、社会的つながりも、私のような愚かな人を救い得ぬゆえ、そうした外道のために神や仏の需要は尽きることはない。

論理的に神はいないと言えたとしても、聖書にあるように神の名は「私はある」という名であって、ただそのように思うより他は無い。

自力を恃める人は自力によって生きるのがよい。

神仏に祈らねばならぬ人は祈らねば到底生きてはいけぬ。

祈っても苦しみが止むことはない。

しかしわずかに生きることはできる。

空谷子しるす

女と男の約束

寝床にて6歳手前の娘と

娘:パパはももちゃんを独り占め?
父:うん、独り占めかな~
娘:ママ、パパがももちゃん独り占めだったで
母:え~、ママだってももちゃん独り占めにしたいのに
娘:二人で話し合って決めればいいんじゃない?
父:何を言うとんねん
娘:おまえが何を言うとんね〜ん
一同:笑
父:お父さんにお前って言ったらあかんな。じいじが聞いたらびっくりするわ。
母:でもツッコミとしては面白いね
父:そう、ももちゃんはツッコミとして言ったんよね。

その後、娘がやってきて耳元でこっそりささやいた
娘:さっきは勝手に口が動いただけ。
父:そうなんやね。
娘:さっき口が勝手に動いたこと誰にも内緒だよ?
父:なんで内緒なん?
娘:だって、内緒じゃないと、それはそうじゃん。わからないの?
父:うん
娘:ママがそんなことないでしょ~って言うから。ママには内緒で子供だけには話すの
父:じゃあお父さんは子供なん?
娘:女と男の約束ってこと

素寒