脳神経外科

「ここの研修医は三年目が心配になる」

と脳神経外科の部長先生は言うのだ。

しかし私の兄は、

「おれの仕事も似たようなものだけどそんな言葉は嘘だと断言できる」

と言うのだ。

埋没縫合せよと言われ、してみたところ、無言で切断され、

「もっといっぱい救急でナートさせてもらいなさい」

と言われた。

しかし皮膚科で縫うと、「べつに二年目ならこんなものだろう」と言われた。

当院は救急車が到着してから頭にカテーテルがつっこまれるまで二十五分くらいである。

とても早くて腕が立ち、そして脳神経外科医たちとしては破格に優しい。

しかし生の脳を見ることを期待した私は、あまりその機会が無いことを残念に思った。

脳神経外科医たちは常に病院にいる。

「僕が初期研修医のときは、自分で希望して胆摘をひとりでやった」

と部長先生は言うのだ。

「もっと積極的にきなよ」

しかし未熟な私には、万全の力を身につけた上で積極的に前線に出よという要求に応えることはできなかった。

少なくとも私は脳神経外科医には向いていないことがはっきりわかったのでとても有意義であった。

同時に病院や医者の考え方がますます嫌いになってきた。

空谷子しるす

シタール

私の家にはシタールがあった。

父と母が新婚旅行にインドに行って買ってきたものだ。

それは土産物ほど安くはないが高級な楽器ということもないほどのもので、誰が弾くわけでもなく放置されていたのであった。金属製の弦をはじくと、清らかな水のように爽やかな音が出た。

シタールを聴くと肩こりが治るということを中島らもが書いていた。シタールの奇妙な波長が私たちを癒すのだそうだが実際はよくわからない。

私の家のシタールは猫が本棚の上から落として壊れてしまった。母がどういうわけか引越しのあとに本棚の上にわざわざ押し込めたのだ。シタールが嫌いだったのか、というと、いや大切なものだと言う。私の母は良くも悪くも女らしくなく、なさけというものに乏しい。母も小さいころから祖母の愛情の足りなかった女性である。名古屋の中村の地主の家であったが、曽祖母は早くに亡くなり祖母は義母に育てられた。試験の点は100点しか認められなかった。女性としては最初期に大学生となったことが祖母の誇りだった。そんな祖母だったから、私の母に対して温かい母の優しさなどはなかった。

金があっても人は幸せにならぬものである。

しかし金がなければ幸せにすらなれぬ。私はシタールを買うことを考えた。このところひどく肩が凝っていた。相変わらず私は異性の愛情という高級品は得られずにいた。私は一種の不感症であり、人の優しさを感じられず、つねに不安に脅かされている。だんだんと肩が重くなり、満足な人生を歩む同期の研修医のなかで、私はまたいつものように僻めしくなってきた。

シタールはそのあたりでおいそれと売っていないらしいことが分かった。

十字屋はシタールを売っていないことがインターネットの検索から了解された。

民族楽器を扱う店が寺町にあり、そこに置いてあると分かったので私は向かうことにした。

車を走らせながら私は父と母のインド旅行を想った。仏跡を見て廻る旅は楽しかったのだろうか。もし私たちの身の上がつつがなく過ぎていたなら、私はどんな人間になっていただろうか。人生は一切皆苦という実感が私の中にある。父は幼い頃から育児放棄され、就職先をひきはがされ、実家の商売を追われ、奈良の旧市内にあらぬうわさをばら撒かれ、透析と心筋梗塞に苦しんだ。父もまた一切皆苦であった。父方の祖父も小さいころから船場の丁稚にされたから、また愛情のない男であった。そうした苦海の連続の先に私がいて、そうした苦海のことばかりしか考えられない。私があらゆる人から注がれている愛情に気がつけば私は救われるのであろうか。イエズスやマリアは私を愛してくれているのであろうか。私に情緒と感受性があれば私は助かるのであろうか。

私のくだらない運転は三条駅に着いた。

三条駅前はほのかに暖かく、もう世の中は春なのだ。病院の中にいるうちに季節が分からなくなってしまった。たいした仕事もしていないのに、私は外のことがわからなくなっている。

寺町の楽器屋は明るかった。

男女の二人づれが音楽的なことを話しながら楽器を買っていく。

アジアが好きそうな女がアジア的な小楽器を買っていく。

私はまぬけなあほ面をさらしながらシタールを見ている。

「触ってみますか」とシヴァ神のように髪の長い男性店員が言ってくれた。

私は久しぶりにシタールを手に取った。なれない赤ん坊を抱くようにぎこちない私の手はシタールの首と丸胴を持ち、木の手触りが私に物質的な実感を与えた。

「シタールのピックはね、金属で指につけるのです」

と男性店員は言い、私は鳥のくちばしをふちどったような銀色の爪を指に挟めて、シタールの弦を弾いてみた。

あの日の音ではなかった。まだ家族が落ち着いて暮らしていたあの日の音では…

シタールは11万円ほどするらしかった。婚活だ何だと出費の多い月だったから私は購入をあきらめた。

私は部屋の中でシタールの音をインターネットで聴いている。肩こりが治る気はしないが気分は悪くない。

私がさまざまな、くだらない、つまらない思い込みや記憶や自らの歪んだ人格から逃れて、なにか意味のあるものを創り出せる日は来るのだろうか。それとももう過去のさまざまな事柄のために私の脳は萎縮してしまって、私は今生では祈りながら苦しみの無くなることを願いながら暮らすしかないのであろうか。それとも、もともとなにか意味のあることをする才能に欠けているだけであろうか。

能力がないなら無いで、享楽的に生きたいのに、私はそうしたことすらできない。

私はお金がもしずいぶん貯まったら、きれいなシタールを買うことを夢想している。

空谷子しるす

小児科

2月は小児科だった。

当院に産婦人科はなく、NICUはあるけれどそれほど忙しくない。

一日外来に張り付いて、ときどき診察や小児採血をやらせてもらった。

川崎病の子が来た。

よく泣く子であった。アンパンマンのドキンちゃんが好きで、ちいさなドキンちゃんの人形を「キンちゃん」と呼び離さない。

4日間の発熱があり、眼球結膜の充血、手足の硬性浮腫、体幹部の皮疹、苺舌(私は初めて苺舌というものを見た)と典型的な徴候を認めて川崎病と診断された。

ただちに彼は入院となった。

彼の母は彼をなでながら言った。

「◯◯ちゃんはいろんな目に合うなあ」

母親は彼を慈しみの目で見た。

「ぜんぶお母ちゃんが代わってやれたらええんやけどな」

幸い一回のIVIgで熱も下がり、血小板も大して増えなかった。冠動脈も拡張しなかった。

よく泣く子だったが元気になって帰っていった。しかしどうやらすっかり病院に懲りたようで、外来に来るたび泣いている。優しい子である。

兄がたまたま電話してきたのである。

電話の用件は彼の異動についてであった。その話が済むと、話題は私の仕事に及んだ。

「川崎病の子を診させてもらったんだよね。僕は指導医にくっついていただけだけど…」

と、私は川崎病の子を診て、幸い彼が元気になって帰っていったことを話した。

すると彼は妙に嘆息して言った。

「お前自分で気づいていないかもしれないけどな」

仕事で疲れた兄は急に身を乗り出したようだった。

「川崎病の話をしているとなんかいい感じだぞ。おかげで元気もらったわ」

私はよくわからないことを言われたので、そうか、それはよかったとのみ返した。

彼は妙に機嫌が良くなり、またなにかあったら話せよ、おれも話すからと言って電話を切った。

兄はときどき妙なことを言う男である。

勘にすぐれ、能楽を好む。

兄は私の言葉に何を感じたのかはわからない。

ただ、私は外来に張り付きながら、猫ひっかき病疑いやら手足口病疑いやらの子たちを見ながら、

なんとなくこうしたことはたしかに意味のあることかもしれないと思った。

私はドン・ボスコ師の本を改めて読み返す気になった。

小児神経の先生が南方熊楠の熱心なファンであったことも私の気に入った。

空谷子しるす

島行

本土からそんなに離れていないところに小さな島が浮かんでいて、そこに診療所があるけど週末医者がいないから働き手を探していたのだったが、たまさかI先生がそこに働きに行かれるとのことだったので私もついていくことにした。

島と言っても本土から40分くらいの船路である。

島は砕石で昔は潤っていたが、いまは寂れている。

港にはいくつも造船所のクレーンが生えている。

くたびれたドラム缶に火を焚いて、人が暖をとっている。

島には延喜式内の古社がましましていて、とてもよく祀られている。

島は幸いにして患者さんはほとんどこなかった。

私は一日、I先生のこどもたちと遊んでくらした。

彼らはなんでも面白がれる才能があった。磯辺から離れようとせず、みずたまりを木の枝でつつきまわしたりしてはしゃいでいた。もし磯だまりがあれば、なおさら彼らの心を弾ませたことだろう。

その島は、本土にちかいということもそうなのだが、どうにも島らしくなかった。

浜辺もなく、磯だまりもなく、漁船もあんまりなく、魚ではなく「のり」が特産品だった。

そして造船所のクレーンのむれが、さびついたサーカスの天幕張りみたいに、産業の鉄さびたにおいを撒き散らしている。

さび!この島はさびていた。海辺だからあちこちさびるのは仕方ないことだ。しかし時の流れや産業のうつりかわりが、この島をさびさせている。

そしてそのさびをどうにも憎めないのだ。

私とI先生はその晩「パラサイト 半地下の家族」をアマゾン・プライムで観た。

島で観たその映画は、映画としてとても極めて優れたものだった。そして島にとてもふさわしかった。

翌朝I先生たちと私は島を発つために港に出た。

島のこだかい丘に、まだ船には時間があるから登ることになった。

こどもたちは登ることそのものを楽しむことができる。

私は丘のうえから海を見た。

朝の日の光が海の上に反射してきらめいている。

ちいさな島のちいさな港が真下に見える。

本土の街から人を乗せに船がやってくる。

私たちも乗らなければならない。

島と私たちは、お互いの時間に戻っていく。

空谷子しるす

救急

救急の二か月が終わろうとしている。

ちかごろ余り眠れなくなった。

私は循環器内科医から侮蔑されているようだ。

他の研修医には優しい循環器内科医も私に対しては容赦ない。

私は自分が無能である意識をいよいよ確かめていく。

この二か月で分かったことは私は全く救急に向いていないということと、私は他の研修医よりも頭が悪いということだ。

人は得意なことで生きたほうがよい。

私はなにが得意なのだろうか。

以前診ていた患者さんがまた入院してきたので病棟まで会いにいった。

以前より弱った彼女は私のことを覚えていてくれた。

30分と短い時間を共有して私は病室から去ったが、「また来てくださいね」と彼女は言うのだ。

患者の人たちと話すのは私にとって一種のよろこびである。

しかし頭の悪い私は、ガイドラインやガンマ計算やさまざまな薬や指示のわからない私は、彼らを助ける術を持たない。

仲間である医療者たちの邪魔でしかない。

私はどうしたらいいかわからない。

空谷子しるす

患者さんのことなど7

「僕は青森で工場長していたんよ。もともとこのあたりの会社やったんけどね」

彼は下部内視鏡を受けるために入院し、その結果多量のポリープや癌らしき組織を認めた方だった。

喉が詰まると言うので上部内視鏡も行ったのであった。その結果大きな潰瘍性病変を認め、生検を行ったのであった。

それから全ての大腸ポリープを切除するため、引き続き入院となっていた。

「ちいさいころは満州でね。引き揚げて北海道に行ったけど身寄りがないので、東京のおばのところに行ったんよ…」

それからこの地の工場に就職し、さらに青森の工場長を任されるに至ったらしい。

「工場が長いからね」

と彼は言った。

「三交代勤務のしんどさはよくわかってるよ。看護師さんは大変や。僕らも夜間の故障があったら、朝が来ても直るまで帰れないからな…」

彼はたいへんな勉強家で、自らに行われた処置や投薬をことこまかに手帳に記録していた。

「若い時からのくせなんよ」

と彼は言った。

「一生勉強や。医者もそうやろ」

上部内視鏡の生検の結果、彼は進行食道癌であった。

主治医から病態の説明を受け、それから私がしばらくしてから彼の床に訪れた。

「食道癌…」

彼は泳ぐ目で宙を見た。

「問題は、どこが原発なのかということや。大腸か、食道か…」

彼はぽろぽろと泣いた。

「どこで手術を受けるのが良いのかな」

彼はいろいろ自ら調べた結果、他県の大学病院に手術を希望して行った。

空谷子しるす

患者さんのことなど6

その方はS状結腸癌の術後であった。

「若い頃は臨床検査技師やったんやけどね」

いまは認知症患者のケアマネージャーをしているらしい。

「認知症患者の人が、弄便て、便をいじらはるでしょう。あれは便器が手水に見えてはるんかなと思うんよ」

彼女の若い頃にはまだ廁の外には手水があった。

上からブリキの缶が吊るされていて水が入っていたり、水の入った陶器の器が置いてあったりしたのだ。その水を使って手を洗う。

「認知症患者の人たちもそういう年代やから、ぼっとん便所の世代やから、水の張ってあるところに便があると『手水に汚いものがある』と思うらしいんやね。それで掬って取り除かなあかんと思うんやと」

そんなものかなと思った。自分はブリキや陶器の手水はいまだ見たことがない。

「それで掬って、でも自分の手に汚いものがついているし、あわてて壁になすったり、どこかに隠したりするのよね。彼らも『なんとかしなあかん』と思ってるのよ。理性はあるんよ」

彼らの時代の考えや文化を知らねば認知症を知ることは難しいという。

「それにしてもネ」

ふと懸念の色が彼女の額にかかる。

「切り取った私の腸の病理、どうなってるんかなあ」

彼女は元々臨床検査技師だったから、そういうことが気になると言った。

「私もむかしは標本作ったりしていたけど、40年も前の話やからね」

彼女は寂しそうに微笑んだ。

「まだ結果はさすがに出んよね」

断端から腫瘍の細胞が出るか出ないかは、たしかにまだ時間のかかるようだった。

「そうよねえ」

困ったように微笑む彼女は窓の外の田ンぼや団地を眺めるのである。

外は良い天気だ。

「そうそう、孫が音楽やっていてね、演奏を動画にして贈ってくれたんよ…」

空谷子しるす

外科

外科のローテーションは基本的には急性胆嚢炎や鼠径ヘルニアの第一助手を務めることが目標になる。

言われたことを我なりに必死にやるしかないというのは、私にできる唯一のことである。

病棟管理は任されないから気楽なものである。外科の医師たちも破格に優しい。当院は恵まれていると思う。

日々は過ぎ去る。

大切なことは祈り以外に何もない。

空谷子しるす

産婦人科

当院はゆるやかゆえ、当直も希望制であり入らなくてもよい。

私はここ数か月当直に入っていない。

手技や知識、症例を貪欲に学ぶ同期達に気圧されたのもある。

救急が恐ろしくなったのもある。

とりあえず生きていければよいと思う。

私は無能である。

讃美歌にあるように、「世の友我らを捨て去る時も」神さんはこちらを見てくれているのなら、人間に背かれる苦痛にもなんとか耐えられる。

人生は一切皆苦である。自力でどうにもならぬ以上、私は祈り求めて与えられてきた。自力で獲得したものは何一つとして所持していない。

産婦人科で分娩を見ていると、この子達はむろん私より遥かに優れた資質があるだろうから、人生を逞く生き抜いていくのには違いないが、もし万が一私のように無能に苛まれることがあれば気の毒である。

分娩はほぼ必ず会陰が裂ける。

イヴが楽園追放の罪のために出産の苦しみを義務付けられたとあるが、たしかに出産は大変な出来事である。

日本神話にてイザナミは火の神カグツチを産む際に産道を焼かれて絶命したのであった。

出血する会陰を処理する医師の手元を見ながら、この赤い血が炎に擬せられたものかとも思える。

自力も、社会的つながりも、私のような愚かな人を救い得ぬゆえ、そうした外道のために神や仏の需要は尽きることはない。

論理的に神はいないと言えたとしても、聖書にあるように神の名は「私はある」という名であって、ただそのように思うより他は無い。

自力を恃める人は自力によって生きるのがよい。

神仏に祈らねばならぬ人は祈らねば到底生きてはいけぬ。

祈っても苦しみが止むことはない。

しかしわずかに生きることはできる。

空谷子しるす

消化器内科

消化器内科といえば緊急にて食道静脈瘤破裂や憩室出血が来る科であるが当院はゆるやかであるから時間外に研修医が呼ばれることはない。

研修医のやることは内視鏡の設置、移乗介助、鎮静剤の静脈路確保、生検介助、ルゴール液散布やインジゴカルミン散布介助、雑務であり、しかれどもやるべきことが明確なのは私にはありがたかった。

病態はどれをとっても分かりきることはない。わからぬものをわからぬでは話が進まぬからガイドラインを覚えて治療方針を立てよと言われる。私は私なりに必死を尽くすが、私の能力は至らぬからやりきるを得ぬ。

私は患者の方々とよく話す。彼らは寂しいのかしらぬがよく話してくれる。当院の周囲がのどやかな土地柄であることもあろう。

患者方と話す。神社に行って祈る。くたびれて眠る。相変わらず女からは相手にされぬ。いままで一度も相手にされたことが無い。このまま一生独身かとも思う。鏡を見て、おのれの醜さを思う。また神社に行って祈る。私には祈ることしかできぬ。

学生実習で神経内科を回ったときにさまざまな神経難病を拝見したのである。

若くして発症した場合、世間的に言う青春を諦めざるをえぬことが多くある。

チャプレンのごとき活動をする浄土真宗の僧侶が話してくれたことがあった。

「神経難病の若い男の子がね、お坊さん、あんたはいくら話しても僕の気持ちはわからないだろうと言うんですよ。だってお坊さんは学校も行って、仕事もして、結婚もしてるじゃない。僕はなんにもできないんだよ。お坊さんは僕の気持ちは絶対にわからないよ」

箕面の老師は言ったのである。

「司祭が一生独身なんは、いろんな都合で結婚できない人らの気持ちがわかるようにということもあるんちゃうかな」

私は神経難病患者のようにやむにやまれぬ事情もない。司祭のように自ら貞潔を誓ったのでもない。ただ女に厭われるのであって、それはある意味では最も惨めな立場なのかも知れぬ。

実用、実用の病院のことどもがうまくいかぬ。私は知能が足らず医者に向いておらぬと思う。しかし飯を食うためにやれる限りのことをやり、やりたくないことは極めてやりたくないと思う。

出町柳の柳月堂でケーキを食いコーヒを飲みながらこの文をものしている。

背後で女子大生がよい男をひっかける算段をしている。

私は現代日本社会から結果的に疎外されている。

日蓮のごとく正しいがゆえに世が逆らうと思うべきか。

もはや努めて楽しいことを探し求める時期に来ている。

空谷子しるす