当直明けの明け

今日は当直明けの明けだ。

くそ暑い。関西はもう梅雨明けらしかった。私の髪を切ってくれた美容師の人がそう仰っていた。美容院には猫がいた。白くて巨きな男の猫だ。

明けの明けは体が重い。当直は熱中症が5人くらい来た。あとは「1〜2週間前から調子が悪い人」が何人か来た。なんでわざわざ今日くるのだろう。2年目の研修医があなたの愁訴を解決できると思うのか?やれるだけはやります。でもやれるだけしかやれません。あとは知りません。

疲れていると落ち込む。この間デートした人は今週末法事があるらしい。そもそも好きかどうかもわからん。僕が女をえり好みするのが悪いという説は依然として有力だ。

結婚相談所の事務員は「積極的に活動しなさい」を繰り返していた。私に対して具体的な改善点を挙げることはないように思われた。彼女は私のことを「内気で弱気で奥手な男」だと思っているようであり、あらゆる女性のことを「素敵なお相手」として私に薦めてきた。私との相性とかを無視しているように思われた。適当な女性をあてがって、はげましてやれば喜んで食いついてカタがつくと思っているのか?と、私はいつものように被害妄想に火がつき、怒った。怒りの休会届けを提出している。さっさと退会できないのが私の愚かさだ。入会金11万を損切りできない。馬鹿だ。

東近江の山々が漠然とした近江平野にぽこぽこと並び立っている。その奥の鈴鹿山脈は夏の空気に霞んでいる。

むこうのホーム、駅舎の中、街の中に美しい女性は無数にいるのに、私はその誰とも縁がない。

小さい頃から三輪明神の夫婦石に願をかけているが、私の中のきたない心が見透かされて、いまだに縁がない。

大国主命は大変モテたが、たしかに私は彼ほどのカリスマは無いのだ。因幡の白兎神社にも行ったが、私はウサギより猫派だ。

明日から精神科なのだ。明るくなれない。

若い頃の椎名誠みたいになんでもケトバせるようになりたかった。もちろん椎名誠だって悩んだし、苦労はしたのだ。

でも僕も少し苦労したのだから女と付き合えるくらいあっても良くないか。

空谷子しるす

梅雨

滋賀は梅雨曇りだ。

昨日はマッチングアプリで知り合った人と京都府立植物園に行った。あじさいを一緒に見たのだが、色んな種類があるものだ。私はその人を好きなのかどうかわからない。その人と直接会ったのはこれが初めてだ。感じは悪くないが、私がどうしたいのかまだはっきりしない。考えるともやもやするから考えないようにする。

UNICORNのベスト盤を聴きながら電車は京都に向かう。奥田民生さんが人のライブに出たが、泥酔してろくに歌わなかったと聞いた。その人の歌をYouTubeで聴いたが私の好みではなかった。それで一瞬、奥田民生さんが泥酔してもしかたないかなと思ったが、どんな理由があっても侮辱されることは誰にとっても耐えがたいことだ。まして私は小さいころから同級生、先輩、後輩、先生などさまざまな人からバカにされて来て、バカにされることが死ぬほど嫌になった上、人のことをあまり信じられなくなっているのだから、いくらライブの人の歌がつまらなくて気に入らなくても奥田民生さんの行為を許すわけにはいかない。

たしか夏目漱石が「余は諸君らの台所に卑しいものを届けたことはただの一度も無い」と言っていたような気がした。調べても出ないから私の勘違いかもしれない。ただ、この言葉の表す気持ちは大好きで、卑しくないものを世の中に出すことはとても大切だ。五代目古今亭志ん生が言ったように芸には人間が出る。卑しい人間は卑しい芸になる。軽薄な人間は軽薄な芸になる。かたい人間はかたい芸になる。だから自分の中身を卑しくないようにするのは大切なことだ。自分で「これは卑しくない」などと思っていても、日頃が軽薄だったら出るものは全部軽薄になる。軽薄な芸は見るに耐えないと思う。軽薄な芸を世の中に流して世の中を軽薄にすることに憎しみや腹立ちを覚える。でもそうしたら自分も許せなくなるから面倒だ。自分だって軽薄で卑しい部分が沢山あるからだ。

批判というものは自分に返ってくる。だから人のことは見たくない。見ればさまざまな批判が湧くからだ。批判が湧けば、自分自身にも同じ批判が向いて、生きるのが辛くなるからだ。

私は昨日デートのあと、一人で上賀茂神社に行った。宮では夏越の祓をやっていた。青々した茅の輪はいいものだ。新しい草のにおいと上賀茂神社の境内の川の瀬の音が混ざって私たちの頭のごちゃごちゃを少しだけ風通し良くしてくれる。

梅雨曇りの下で頭と心を悩ませるということはしたくない。先のことを考えると、「こんな生活が一生続くのか」と思うと、誰しもやり切れなくなる。本当は人間の頭で先のことは一ミリも分からないのだ。先のことを考える人間は病気だ。しかも誰もがもっと先のことを考えるように互いに圧力をかけるから、耐えられなくなった人が死んでしまうのは無理もないことだ。

頭が悪くても性格が悪くても体がモヤシでも現在ただ今のことだけ見ておればよいのだ。未来のことも他人のことも見たくない。それはウィリアム・オスラーも言っているし、新約聖書にも書いてあるし、神道でも中今というのだから正しいことだ。

中今を邪魔する魔障は全て滅ぶべきだ。

中今についての調査は進んでいない。

今日は臨床文藝の集まりだ。私は徳利と日本酒を持って行く。割れないように気をつけながら、湿気に満ちた滋賀を南下しながら、結婚したいなあと思いながら。

空谷子しるす

さつき

寮の二階に住む一年目の研修医が彼氏を連れ込んだようだ。床の薄いのを知っているから音をひそめているようだが、そのこそこそいうのがかえってこちらの気が引けるから部屋を出た。

今日は三年目の整形外科の先生と会うのだ。彼は初期研修医のころ、指導医からさんざんな言われようだったようだ。人間的にも彼を嫌う人は少なくなかった。いわゆる「だめレジ」扱いだったのかもしれない。いいところも悪いところもある。明日になったら私も彼のことが嫌いになったり、尊敬したりするかもしれない。先のことはわからない。

週末は当直だった。

今日は明けの明けにあたる。体が重い。

「体力のないやつや知力のないやつは医者じゃないヨ」というような雰囲気をまとった人たちは嫌いである。ちいさいころからスポーツも得意で勉強もそこそこできて、生活の不安もない、異性にもそれなりにもてる人間が苦手である。

レキシの名盤「Vキシ」を聴きながらびわこ線は京都に向かう。近江八幡の麦畑は収穫しつつある。刈り取った後は野焼きをする!近江の山々が青く色づいている。

ふと親父のことを考える。

親父は仏典はなんでも読んで、禅なども組み、インド旅行の際は日本の坊さんたちが経が読めんので代わりに読んだ。密教の行に通じ、金剛不動明王経というのかしらないけど、不動明王の護摩なんかはよく夜中やっていたのだ。火は焚かない。商売が不安だから真言を唱えた。

でもなあ、禅や真言じゃ幸せになれないんだよ!護摩をあげて、自力をつくして神仏を動かそうとするほど親父は殺伐とした。殺伐としたおやじが家の中で暴れたのなんて星の数ほどある。だから兄貴は家を飛び出した。商売も金は入っても親族は乱痴気になって濫費した。親父は糖尿病腎症と心筋梗塞で60でみまかったんだから、彼の人生に意味がないわけではなかったけれど、仏教的な面が彼の魂に安らぎを与えはしなかった。僕は数センチ先の間近でそれを全部見ていたのだからな。

いいか、仏教じゃなんにも救われない、すくなくとも原始仏典の素朴な正解以外はなんの意味もないんだ、それだってただ当たり前のことを言っているだけで、今苦しんでる「病人」にはなんの役にも立ちはしないのだ。病人には常識や理屈より「薬」がいるのだ。あたまの良さなんて糞だよ。

私は親父の60年の人生から仏教はだいたい無駄であることを学んだ。そのうえで、私は仏典を読んだり仏様に手を合わせることをしている。祈り以上に意味のあることは無い。だから仏典も読むし仏様に手を合わせる。

でも世の中には禅に救われる人がいる。

箕面の神父が前に言ってた。道は人それぞれだ。オメガ点って、終着点はひとつだから、気に入ったやり方をしていけばいいのだ。みんな勝手にしたらよいのだ。僕をバカにしてもいい。自分がエラいと思っていい。僕だって人を見下したり自分をもののわかったやつだと自惚れているから。矛盾まみれだ!僕もイヤなやつ、みんなイヤなやつで、みんなイイやつなんだ。だから僕は矛盾があるから祈るしかない…

電車は京都に向かって走り続けるから本当にいいものだ。ごちゃごちゃ考えていたって動いてくれるから。僕の考えはいつも同じところを巡っている。これが前に進むときが来てほしい気もする。素敵な彼女ができたら進むかもしれない!もちろんそんなことはないことは知っている。

くだらなくない人間になりたい。「くだる」人間になりたい。おれは何のために生きているのだろう。おれのことを褒めたり、認めてくれる人がいる。うれしいけど理由がわからない。おれのことを嫌ったり、バカにしたりする人が大勢いる。理由はわかるし、納得するけど、腹がたってしかたない。妻もいない。子どももいない。うまいものを食っても、酒をのんでもいっときのことである。そのいっときをちゃんと楽しめたらこんなに空しくないのか。人生が楽しいって、たとえば良寛さんや白隠禅師は生きてて楽しかったのかな。いま生きていたら、有給とって会いに行きたかったよ。新幹線に乗ってな。

世間虚仮、唯仏是真というのは正しい。祈りと善以外に価値のあることなどない。

さつきがまだ咲いてるから五月だなあと思う。五月の光は明るいよ。みんな幸せでいてほしい。僕も含めて。これは本心だ。

空谷子しるす

S先生

S先生が関東から来るから飲まないかとI先生が誘ってくださった。

S先生は小児科医である。しかし消化器内科専門医でもある。

重症心身障害児の成人内科への移行が円滑にいかないことがある。成人内科は先天性疾患がわからない。小児科医は成人疾患がわからない。はざまにある重症心身障害児の人々は、しばしば誰が診るのかが問題となる。それでS先生は小児科専門医を取得した後消化器内科専門医となろうと思った。重症心身障害児の成人疾患を自分で治せるようになるためだ。内視鏡技術を獲得し、自分で重症心身障害児に内視鏡治療を行えるようになるためだ。それですぐに彼は雰囲気のよさそうな某病院の門を叩きに行った。給料はいらないから消化器内科の修行をさせてくれと言った(実際は給料は出たらしい)。

彼は患児に「お前」と言う。患児の親にも「お前」と言う。腹が痛くて学校に行けぬと親が言う。患児の愁訴を親が言う。彼は患児をまっすぐ見て、「で、お前はどうしたいの」と言う。「学校にいきたくない」と言ったりする。「おう、それでいいよ」と言う。彼は患児にしろ、研修医にしろ、考えて行ったことは認める。考えなしの行動は認めない。「腹が痛くて学校いけなくってもいいよ。どうしても本気でやばくなったときは、おれが胃カメラして診てやるから」と言う。内視鏡技術があることで、患児もいざというときは治してもらえると思って安心する。「こどももバカじゃないからさ。でまかせは通じないよ」とS先生は言う。

S先生はいいかげんな処方や指示を嫌う。漫然と3号液が繋がれているのを嫌う。死亡診断書を「作っておきました」と軽々しく言うのを嫌う。死は特別な瞬間である。なぜ診に来ないのか。病棟で彼は亡くなった患者ならびにその家族と向き合った。その患者は彼の担当でない。担当医は来ない。担当医が事前に「作っておいた」死亡診断書があるだけだ。彼は「作っておいた」診断書を破り捨てて一から作った(いまは事前に死亡診断書を作っておく習慣に一定の理解を示している)。

彼は後輩に金を出させない。かならず奢る。良い加減な指示や処方は蹴散らすので、彼の指示を仰ぐために若手が彼の周りに並ぶ。パワハラをしていると彼は言う。しかし逃げ道は残しているから、訴えられたり潰れたりはしないと言う。

彼は小児科医として、総合診療医的性格を有する小児科医として、医療への思いを語る。しかしあくまで「ひとつの意見として聞いてくれ」と必ず言う。

彼は朝誰よりも早く、誰よりも遅い。彼は力にあふれ女性にもてる。貧しい境遇に育った。乗用車に住み、そこから学校に通ったこともある。母子家庭に育った少年である。異様に頭が良く、小学1年次で二次関数を解した。

まずベッドサイドに行けと彼は言う。それで余計な処方がひとつ減るから。とにかくベッドサイドに行けと。研修医はいちばんそれができるしそれでよいと。患者に寄り添うというのは当たり前のことだ。その上で専門家として「指針」を示すのが医者だと。この指針というのは医学的な選択肢を並べ立てることではない。彼は専門家として進むべき道を示すのだ。もちろん相手の意思を鑑みながら、しかも彼は苦しむ人間に道を示すのだ。

「そういう意味では宗教みたいなもんだよ。S教の教祖だよ」とS先生は言う。知識や技術のうらづけはあっても、最終的には「おれを信じろ」ということになるからだ。ことばで人を安心させて導く。しかしことばで導くからこそ、まちがいは起こりうる。だからいつでも全責任をS先生は背負うつもりでいる。

私は、そうすると医者は落語家のようですねと言った。医学知識は古典落語の知識である。古典の知識を知らなければまともに話すことができない。その上で落語家は芸に人間が出る。まじめな人間はまじめな芸になる。人を見下した人間は人を見下した芸になる。芸はごまかせない。医者も同じようですね。診療に人間が出る。たしかな知識をもとにして、その上で話芸で人をよくしていく。

S先生は「よくおれの話を聞いてる」と仰った。

S先生は酒をたくさん飲む。S先生が指導医であったら、とても怖かろうと思った。

空谷子しるす

熊楠

白浜の南方熊楠記念館に行ったのである。

完全に無計画であった。

私は歩いて駅まで行き、電車に乗り、白浜を目指した。

南方熊楠記念館は番所山という岬の先端にある。

南方熊楠の直筆の書写やイラスト、Natureに掲載された論文、標本、粘菌の数々が展示されている。彼の生涯Natureに掲載された論文は51篇に及ぶ。

彼はさまざまな本を書き写すことで覚えた。

8歳のころから和漢三才図会を本屋で見ては自宅で紙に書き出したのは有名な話である。

東大予備門を辞め、渡米し、さらに渡英するなかで様々な書籍を書き写し、覚え、野山に出て標本採集し続けた。

イギリスから帰郷した後は那智や熊野の山でほぼ全裸で粘菌の採取をした。

彼の興味関心は人間を含めた自然全体に及んでいたのだろう。

彼は実体を眺める方が好きで、机の学問は苦手であった。幼少のころから山に入り仲間からは天狗と呼ばれた。学業成績はほぼ全ての科目で極めて悪かった。東大にしても代数や体育が嫌で、標本採集と図書館ばかり行くので出席もせず、代数で落第したため辞めたのであった。

エコロジーという言葉を最初期に用いた日本人でもある。人間を含めたあらゆる生物が、どれを欠いても自然は成り立たぬと言うのだ。したがって明治政府の行なった神社合祀には烈火のように反対した。鎮守の森を伐採することで貴重な生物たちが失われる。神々を損ない、侮辱する。人々が神々と紡いだ物語や歴史が消える。鎮守の森の材木で儲けることを考えていた外道の小人に対して彼は激烈に怒ったのだ。

彼はさまざまな知識を知る以上に、それらを「有機的につないで」新しい結論を導くことができた。しかもその結論に卑しい名利の気持ちや他者を蹴落とさんとする戦闘心が無く、天下万人の為は言うに及ばず、もちろん己の為であり、近所の飲み友達や、小さいこども、馴染みの芸妓、遠方の知己、身寄りのない弱った人々の為であった。アメリカ時代の友人、孫文もその一人である。あちこち飲み歩いては猥談をし、銭湯で人々に世界中の面白い話をして、また人々から民話や生活の話を面白く聞いた。下ねたも天空の星々も宇宙の実在であることを彼はよく知っていた。彼は真の天才の一人である。それは空海の描いたホロニックな世界と似る。熊野の神々の大きな世界に通う。

番所山から見た太平洋はどうだ!南紀の亜熱帯性の植生、照葉樹林、温順な気候の中に私は立ち。眼下に広がる太平洋は限りなく美しいのだ。

ああ私たちは何をすべきだろうか。自然の探究をすべきだ。しかし物質的で名利的で戦闘的で打算的で澄ました論理による研究というもの。そうした研究をすべきだろうか。違う。「研究者」たちには知能はあっても軸が無い。南方熊楠の中に建立された無前提の精神の「軸」がない。同じ自然の探究でも南方熊楠のような情熱と精神の「軸」があれば、知能が高いだけの冷血漢たちの中でも生き延び、導かれる。本当の意味での自然の探究となる。

南方熊楠は私たちの先達としてふさわしい。

見よ。熊野の杜は彼を産んだのだ。

追記 彼の死後解剖されて取り出された脳髄は決して大阪大学ではなく 日本国内なら少なくとも京都大学か東京大学に収められるべきだろう

空谷子しるす

皮膚科

ツァンク試験、尋常性天疱瘡、皮膚生検、ボーエン病の手術、Stevens Johnson、KOHの検鏡がたくさんと様々なことが起こり、一か月は流れていった。

皮膚科は必ずしも楽しくはない。しかしこれならもしかしたら自分にもやれるかもしれないとも思う。

四月から月二回義務の一人当直が始まった。

私はなんとか二回を乗り越えた…指導医の消化器内科医は「よく一年でここまで育った」と裏で私のことを誉めてくれていたらしい。

とても嬉しいことだ!知らないことは知らないと開き直り、臆病さと共に進んでいく…

大学の皮膚科には知り合いが多い。

皮膚科もありだな!と軽薄な私は考える。

ともあれ私は寝たい。素敵な人と結婚したい。楽しいことを探したい。

私は何が楽しいのか?

空谷子しるす

患者さんのことなど9

当直中に病棟から電話があった。患者さんが亡くなったので死亡診断してくださいと言うのだ。死亡診断書は主治医の先生が書いていてくれて、日付と署名だけでいいです。

救急が落ち着いてから行くと、ご家族と患者さんと看護師の方々がいた。

おおここだここだと私が言うとご遺族はこっちです先生、と言って微笑んだ。

はじめてお会いした彼は亡くなった人特有の黄色い皮膚をしている。痩せており、頭蓋骨のかたちのままの顔をしておられる。

私は死亡診断をし、たまたま手持ちの時計がなかったので看護師さんの時計から死亡時刻を告げた。

コロナの感染防御をしたまま、私は地下に随伴して患者さんを見送った。

私はまた救急に戻った。

私はいまだに彼がどんな人であったかを知らない。

空谷子しるす

患者さんのことなど8

「この気持ちはなってみないとわかりません」

と彼女は言うのだ。

「さびしい気持ちですか?」

彼女は遠くの山を見ながら言った。

「そうとも言えん」

彼女は89歳で拡張型心筋症にICDが埋め込まれている人だ。もともとB型肝炎もあり、今回は著明な腹水貯留で入院した。

彼女はもう自宅に帰れそうになかった。

「早く死にたい」と彼女は言うのだ。

「最近、よく実家と弟の家とが思い浮かぶ。自分の家はまったく出てこない」

それだけ実家や弟さんが馴染み深かったのかと聞くと、「そうかもしれない」と言う。

彼女の病室から低い山が見える。

その山は弥生時代の遺跡や古墳があり、山頂に荒神様を祀っている。その山に彼女の実家の歴代の墓がある。

「息子はよくやってくれてる…」

彼女は弱い声で息子を誉めた。

彼女が息子を誉めるのは私は初めて聞いた。

「珍しいですね」と言うと「そうやな」と言って笑う。

「早く死にたい」とまた言うのだ。

そのたびに私は「人の命は人は決められんですからね」と言う。

「そうやなあ」と彼女はうなずいてくれる。

伊勢の大神様や多賀の大神様がいいようにしてくれますよ、とも言う。いつも祈っています。だからあなたも僕のために祈ってください。彼女はそれらの神様への崇敬がある。彼女は私の独身を心配してくれている。

「ありがとう」と彼女は言う。「先生のことも祈ってます」

彼女はものが食べられなくなり、せん妄を起こすようになって亡くなっていった。

彼女がのぞましい死を得られたかだけが気がかりである。

私は自由になりたくなった。

空谷子しるす

二年目

初期研修に入って一年経った。

なにかをやる時にそれほど恐れなくなっているのは、ある程度進む科を決めたからであろうか。私は確定ではないものの小児科に進もうかと考えている。小児科が一番居心地がよかったからだ。子どもらのために医療を行うことは少なくとも今の日本の環境では自然なことに思える…私には今の日本は誰も死や命について思いを巡らさないように思える。患者の家族が必ず生かせと詰め寄る。しかし患者はもう90歳近くて認知症も重く意思疎通ができないのだ。カルテには膨大な数のプロブレムが並んでいる。その全てをガイドラインに正しくのっとって治療することを指導医に言われる。しかし患者は家に帰りたがってせん妄を起こし、仕方のないことだが口腔も肛門周囲もいくら清拭しても汚れてしまう。

私たちがこの日本でおそらく考えるべきなのは高齢者の人々をいかに治療するかではなく、彼らといかに対話し、よく生きることを考えるかなのだ。

大阪で働く同期が言われた。

「おまえ、赤ひげ先生気取りかしらんけどな。自分の臨床力のないのを患者の機嫌取りでごまかしてへんか。赤ひげとか寄り添うとか言えるのは治せる疾患を治せて、治せない疾患を緩和できるようになってからの話や。おまえは間違ってる。おまえは医者に向いてない。辞めろ」

おお、正論。あらゆる正論を私は憎む。

人の世の正論ほど致命的な誤謬は存在しない。

だんだんと割り切ってくる。救急の現場は最終鑑別をつける場ではない。自分の時間が過ぎるまで生かせばよい。それは有用な考え方だ。しかし素早く捌く中で副産物が精神の中に生まれる。長っちりの患者を疎み始める。暴飲暴食で体調を崩した患者を疎み始める。糖尿病、精神疾患、認知症、救急現場を阻害する諸問題を冷めた目で見るようになる。それは私の力が足りないからだ。私の父が糖尿病患者だったのに、糖尿病患者を疎む医療者の感情を私は理解できるようになっている。

この一年で何かしらできることが増えたことは嬉しいことだ。しかし同時に失ったこともある。その矛盾を私は忘れてはいけないと思う。矛盾を矛盾のまま保持するためには、私には祈りが必要なのだ。

難しいことを単純にするのももしかしたら祈りによって可能になるかもしれない。

空谷子しるす

脳神経外科

「ここの研修医は三年目が心配になる」

と脳神経外科の部長先生は言うのだ。

しかし私の兄は、

「おれの仕事も似たようなものだけどそんな言葉は嘘だと断言できる」

と言うのだ。

埋没縫合せよと言われ、してみたところ、無言で切断され、

「もっといっぱい救急でナートさせてもらいなさい」

と言われた。

しかし皮膚科で縫うと、「べつに二年目ならこんなものだろう」と言われた。

当院は救急車が到着してから頭にカテーテルがつっこまれるまで二十五分くらいである。

とても早くて腕が立ち、そして脳神経外科医たちとしては破格に優しい。

しかし生の脳を見ることを期待した私は、あまりその機会が無いことを残念に思った。

脳神経外科医たちは常に病院にいる。

「僕が初期研修医のときは、自分で希望して胆摘をひとりでやった」

と部長先生は言うのだ。

「もっと積極的にきなよ」

しかし未熟な私には、万全の力を身につけた上で積極的に前線に出よという要求に応えることはできなかった。

少なくとも私は脳神経外科医には向いていないことがはっきりわかったのでとても有意義であった。

同時に病院や医者の考え方がますます嫌いになってきた。

空谷子しるす