専攻医8

肩が重く体が重い。

中間医の先生が5月で去り、研修医の先生が6月の第一週終わりに去った。新たな中間医と研修医の先生が来る。二人は必ず私より優秀だろう。しかし新しい環境に慣れるまでしばらく時間はかかる。その間なんとか病棟を維持するようにできることはしないとならぬ。

しかしどの道それはいつもと変わらないことだ。やれることしか私にはできない。

170cm、70kg超える体格のよい児に一度で腰椎穿刺を成功し、無事に髄中ができた。以前L4-5では中間医もうまく穿刺できなかった人だ。化学療法のステロイドの影響で、筋肉質な体の上に脂肪がやや厚く、鎮静しながら巨体を支えるのも困難な児だ。うまくいったのはとても嬉しかった。

空が明るい。初夏の紫外線は真夏より強いと言う。

世の中ではさまざまな事件が起こっているようだったが私には一分の余裕もなく、私の力の全てはいよいよ病棟に向けられている。それでもなお細かな失敗は後を絶たず、しかし全てを「うまくやる」ことは私には不可能だ。

彼女の祖父母に会いに奈良に行かねばならぬ。気は重い。陽気な人々だと聞く。陽気な人々から私は憎まれることが多い。

医師という仕事は人の病気があって初めて成り立つ。それが切迫していれば医師は休む訳にいかなくなる。仕事の量が多くても少なくても困る。表面的には医師は人の不幸で暮らす人間と言える。人がよく生きるためには医療以外も必要である。私がよく生きていくためにもあるいは医療以外が必要である。しかし卑劣な商売は私はする能力がないから、私が生きていくには必死に医療をする以外のことはいまだ思いつかない。

祈りは常に重要である。天津神と国津神はどのようであったろうか。明らかに天津神は大陸の人間信仰や道教の雑多な蕃神と性格を異にする。人間信仰と自然信仰、一神教的なgodの性格を兼ねた神道はなにかの普遍性を有しているように思われるが、日本の土地を離れて成立するものかは分からない。

空谷子しるす

比叡

京から比叡に登るには雲母坂を行かねばならない。

花崗岩の風化した砂礫がざらざらする。木々は茂り、くぼんだ坂道を湿気と暑さの中に汗を垂らしながら登るしかない。

坂本のがわには日吉大社があり。東面した金大巌が太陽の光を浴びると鏡のように光るという。比叡山は古くからの信仰の山である。いかなる人間の歴史も、山の霊威を塗り隠すことはできない。いかなる人間の信仰も、山の霊威を置き換えることはできない。

山はやや涼しくなってくる。

都のそばの山であるのにこの勢いはどうだ。

比叡の山の上、西塔、さらには横川のほうまで行けば日枝の山のまことの姿が垣間見えるだろう。

なぜ全ての人は救われぬのか。

一切皆苦の果てに救いがあるのか。

救われるために苦しまねばならぬのか。

あたまの悪い私はどうしたらあたまが良くなるのか。

見よ蒼穹を突く大比叡を。真実は身近にありながらしかも一切がわからない。裏も表もないのに目に見えない。

賢い人は幸いである。祈らずにすむ。

空谷子しるす

専攻医7

病棟の児はまた別の問題が発生し、しかもその病態は難しくてなかなかどの医師も分かりきることはないのだから、これは困ったことだ。

さまざまな化学療法の数々が治療期間の終わりに特定の検査を要求する。しかもそれらはすぐに予約できる類の検査ではなく、さまざまに調整しなければならない。ひとつずつ弁えればよいのだが、その余裕はない。自分の余力を削ればやれるかもしれないが、自分が死んでは何にもならない。

6月から中間医と研修医の先生が変わる。担当患者や病棟規則を知る人間が私だけになる。私もそれらを充分には認識していない。明日のことは知らない。そうだ。だから私は祈る。他の人々が祈らずに自力で生きていけることは私には信じられない奇跡である。私には不可能のことである。私は自力で生きていない。祈るうちに…他人からはなにか合理的に後付けで説明されるけれども…なにかの形で解決を見る。それは決して私や他人が望むような浅い形の解決ではない。

週末に比叡山に登った。比叡というのはもともとは日枝と申し、日吉大社の神山であった。その霊威はいまだ息づいている。西塔を遍巡り、明らかな初夏の日差しに緑苔がきらめく様は応えられないほど美しい。その落ち着いた雰囲気の中に伝教大師の御廟がある。つつましくも美しい空間は比叡の権威とは無縁なようだ。

伝教大師この世を身罷らんとし給う時に仰すには「我が志を述べよ」と。きっとまじめな人だったのであろう。

一切皆苦は変わらない。変わらない中に私はどうなっていくのか全くわからない。私は医者になれるのかわからない。いま私はどうなっているのかわからない。

彼女が私の優しさを愛すると言う。私は自分の優しいことを思わない。彼女は彼女の私を好きな理由を私が信じないと言って悔しがる。

世の中にはわからないことがあるということを私は知っている。人間だから当然同じだという前提がないことを知っている。彼女はもしかしたらその前提を信じられる人間である。幸福な人間である。私はそうした意味では人間ではない。

私は理解したい。私以外のものは全て私と異なっている。異なるものを理解したい。しかし私が他と異なることを信じられる人間はほとんどいない。私が同じでないことに気づくと、私の無理解や消極性をなじり、怒る。私は他者を理解したいと願っている。しかし自分の心身を犠牲にしてまで同化することはできない。

私には常に疑念がある。全ての他者が私を心の中で愚弄している疑念がある。それで常に全ての人間関係について割り引いている。常に信頼しきることがない。なぜならば私の能力を、全ての他者は大きく超えているからだ。私のあらゆる実務的能力を全ての他者は超えるからだ。

だからもし私より実務能力が劣る稀有な人間が現れたら私は無意識に笑みが止まらないだろう。本能的に見下すだろう。いままで見下された劣等感が原初の癒しと救いを求めて裏返り、渇いた魚のように貴重な優越感を貪るだろう。

私は優しい人間ではない。劣等の人間だから低姿勢でいる。弱者の身振りをして自分を全力で守るだけである。

見たまえあの大比叡を。元三大師の切なる祈りを見たまえ。浄土教の先駆者たちの切なる修行を見たまえ。日枝の神を拝見したまえ。

一切はわからない。一切は私の能力を超えている。祈ったところで何かを変えるわけではない。

しかし祈ることが何よりも重要で何よりも具体的で唯一有用な手段である。

祈ることだけが卑怯な私の持つ唯一の真実である。

空谷子しるす

専攻医6

ぐちが言いたくなる。

6月から中間医と研修医の先生が変わる。中間医はまったく新しいところから来るので、大学の電子カルテシステムがわからないはずである。

複雑なことばかりだ。

私たちは先のことを考えることを求められる。先のことは考えたくない。明日のことは明日自らが思い悩む。今日の労苦は今日だけで十分だ。

私は成長しているのだろうか。一般的な医師としての力はあまり増してはいないだろう。しかしなにかの流れで来たのだ。もはや目の前のことだけを考えるしかあるまい。先のことは考えたくない。多くの場合先のことを考えるのは不利益ですらある。

結局私はいつも同じなのだ。理知的でない。わけがわからないままに歩いている。わけがわからないまま求めて、あがいて、今こうして大学の当直室から東山を眺めている。わからない。私は正しいのかどうかわからない。人の普通歩まない道を歩きつづけている。私は正しく最後を迎えることができるだろうか。よい人生を生きたい。

彼女が結婚式は金がかかるねと言う。その通りだなと思う。しかしやれるだけでやるしかあるまい。

熊野の大神様、白山の大神様、何卒お守りください。

空谷子しるす

専攻医5

何日に一日はいよいよ頭が動かなくなる。

たぶん睡眠が不足するためで、夜中にだらだらとスマートフォンをいじるのが原因だろうと思う。

すべての児は可愛らしいものだ。彼らは全員人間である。人間だからいいところも悪いところもある。

奈良の長谷も紀伊の高野も山岳霊場であり、御霊がつどう山であったと五来重は「高野聖」の中で書いている。

高野も長谷も昔からの神の住む土地であった。長谷坐山口神社や丹生都比売神社の存在はいずれの土地の古さを物語る。

してみると、こうした山に祖霊が集まり、墓がたつのは仏教以前の話であり、その霊を祀るのには神の力のみならず仏の力が必要であったのだろうか。伊勢の神道は厳しく仏道を忌む。山に霊が集まる信仰と伊勢の神道とはどうも別のもののようだ。

山に霊が集まる。それはあるいは神霊であり、祖霊である。荒ぶる魂であるが、蕃神にあらず。このことは世界に普遍の現象だろうか。あるいはこのことが日本人の重要な要素なのかもしれない。

熊野もまた死者の国であった。大雲取峠を行けば死にたる者とすれちがう。

毎日の仕事は沢山あり、複雑で私の能力に負えない。負えないなりに生きているのみである。この先どうなるかなど神様以外誰も知らない。

空谷子しるす

専攻医4

病棟の児のひとりが危うかった。

私の担当ではないが、いままでカンファレンスでも危ういという印象は私は持っていなかった。画像上危ういことがわかった。症状もよくないようだった。

医者は人の極まるところを見る。医者としてはしだいにその職責に慣れていく。しかし人間としては慣れることはない。

私は所属グループの当番を終えて御所に来た。

春の御所は新緑にまみれて、風は涼しくて爽やかだ。

うんかがくるくると宙を舞う。その先に空があり雲がある。その上に飛行機雲が東西に伸びていて、風に吹かれて次第に薄まっていく。

長雨が午後から止んだ。御所にはたくさんの人がいる。英語やフランス語が聞こえてくる。二度と逢わない人たちがいる。

私はPICUの先生に話しかけられた。それで来年度からのべつの病院で集中管理や救急をやろうと誘われた。

母校の集中管理の教授は私にとてもよくしてくださった。「enjoy your lifeや先生」と彼はよく仰ったものだ。

ドンボスコがとうとう孤児院をやる金が尽きて、石段に腰掛けて涙を流した。そのときにふとある男が彼をみつけ、彼に孤児院をやるための新しい物件を紹介したという。

私たちは苦しまねばならない。いつまで生きるかしれない。生きている限りは苦しむのである。しかしその先に、「軸」があればその先に、神様の導きがあることを期待せねばならぬし、期待したい。

私たちには一秒先のこともわからないのだ。分からないから、不安になり、泣き、わめく。そうしながらも祈り求めるのが人間の真実の姿なのだと思う。

空谷子しるす

専攻医3

兄が不快だという。両家の顔合わせの日取りを、彼女の都合のみで決めたかと疑ったからだという。

母も不快だという。妹家族へのお持たせを用意すべきかとの母の問いに、彼女が「それでいい」とぞんざいに答えたと思ったからだという。

ふたつとも私の文章がぞんざいだったのが原因だ。兄には顔合わせの日取りの候補日だけ伝えて来ることができるかどうかのみ伺った。候補日を決めた経緯を書かなかった。私たち二人の休日が重なる日がそこしかなかったことを言わなかった。

母には彼女が恐縮していたことを伝えなかった。

雨が降る京都は蒸し暑くなってきた。

病棟ではさまざまな患者の子らが、それぞれの事情を抱えている。その親たちも、それぞれに疲弊し、あるいは張り詰めた感情を抱いておられるように思われた。

当直をこの日とかわってほしいと二人の医員から相談された。小児科は小児科の当直と各診療グループの当番がある。シフトが複雑に感じる。

雨が降る。

私は彼女の姪に贈るためにポケモンセンターに歩き、御所八幡、六角堂に詣でつつ、街中を歩いた。

街は人間と家とが立ち並んで、しかも京都らしい取り澄ました感じがあって厭気を感じさせないところがかえって油断ができない。

物事の複雑さはいよいよ増してきたように思われる。「ふつう」の医師ならこの程度の複雑さは容易に乗り越えられるのかと疑う。

私は疲れた。病態や治療が把握できないことが困る。

歩けたのはよかった。室にこもっていれば、そのまま動かなかっだだろうから。歩いたほうが少しは頭が良くなると期待するから。運動したほうが頭は良くなると精神科医のyoutuberが申していた。すがれるものにはすがりたい。

山が雨で煙る。あの山は大文字山、しかし本来の名前は別にある。あの山のふもとには熊野の那智社があり。熊野の大神様、何卒病棟の子らが助かりますように。私がよい小児科医となれるほどの知恵と力をお貸しくださいますように。彼女と睦まじい暮らしをしていけますように。大切な人たちが幸せでおれますように。

空谷子しるす

専攻医2

病棟は忙しく、いったい自分がなにをやっているのか、なにをやらないといけないのかが未だに判然しない。

ただ神に誓って私は私にできる最大を行っている。

忙しいときはいつも飯が楽しみになる。朝はもともと食べづらく、昼は忙しくて食べられず、晩に食べるものが楽しみになる。

この病院周りは都会なので店もいくつかある。トルコ料理、インド料理、うどん、カレー、ラーメン、上海料理、いろいろある。街はいい。歩ける範囲になにかある。でも次第にこの街も何かあるように見えて実はあまり何もないように思えてくる。私は贅沢にできており、すぐに悪い意味で慣れるのかもしれない。

昨日は卒後5年目の専攻医の先生と飲みに行った。彼もまた児童精神、小児神経志望であり、北杜夫や三島由紀夫を好むと仰す。

夏目漱石が好きだという人間にあまり出会わないのは不思議なことだなと思う。私は夏目漱石が好きなのにあまりそういう人がいない。私が山ノ口貘が好きだというとそこは投合した。山ノ口貘を好む人間の方がずっと珍しい。

酒をしこたま飲んで朝起きると頭にもやがかかったようだ。今日は本当に病院に行かなくていい日なのだ。外は天気がいいからどこかお参りに行こうかなと思ったが体と頭がぼんやりしてなかなか動かないのだ。

昨日5年目の専攻医から教わったパンチブラザーズとモーズアリソンをYouTubeで聴いているのだ。聴きながら関大徹「食えなんだら食うな」を読んでいる。関大徹は禅僧である。以前、梅田で箕面の神父とI先生を待っていたときに見つけた。そのせいかこの本を読むと箕面の神父を思い出す。神父はたしかに禅的なところがあるように思う。まじめな宗教はいずれも禅的なのかもしれない。

外の天気がいい。紫外線が強烈だろう。貴船や鴨社のことを思うが遠いしとても行きたくはならない。廣田社も遠い。心のままに動きたい。

眠い。頭がすこし重い。

「明日のことは明日自らが思い悩む」という聖書のことばはとてもありがたいことである。

空谷子しるす

英彦山

英彦山は大分の山にして修験の霊場である。

私は引越し、行政手続き、古巣の病院への挨拶回り、彼女を私の親に引き合わせたりして、枯れた。実家、新しい居住地、近江湖東をなんども車で往復し、引越しは赤帽の気さくなオッチャンを手伝って荷物を運んだ。

疲れが高まると体が駄目だと言い始める。

私はしばらく停止した。貴重な予定を停止して不義理を行った。

そうする内に体が動くようになったので、私は英彦山に参ることに決めた。

英彦山は古くからの修験の山であり正勝吾勝勝速日命を祀る。

小倉から日田彦山線に乗る。香春岳の一の峰がセメント採取により消滅している。香春岳もまた古くからの信仰の山である。人の営みは山を削る。

添田駅に着いたら代行バスに乗る。日田彦山線は災害のために中途で断線し、この夏から鉄路に代わってBRTになるのだ。

彦山駅からは交通手段が絶無に近い。

駅から山に向かって歩く。アスファルトを歩くと車がつぎつぎと私を避ける。歩道の無い道を歩く。春の空はおだやかで日が暖かい。遠くに見えるのが英彦山だ。桜の白色が山のあちこちに見える。

旧参道に入ると一気に石段の道になり、一段一段を超えていく。山に登るのは、私の場合はどうしても山に助けてもらわねば登れるものではない。ハアハアと肩で息をしながらそれでも足が前に進むのは、山の神の許しがなければできることではない。参道にはミツマタの花が咲きこぼれている。淡く黄色い花がたくさんこぼれているのはとても可愛らしい。

ながながと伸びた斜度のきつい石段を超えきれば英彦山神宮の朱色の巨きな社殿だ。山は水が湧き、風がやわらかで空が近い。

私は祈った。いろいろなことを祈った。素朴な人の願いはただちに叶わないが、しかし祈ることで人の思惑と全然関係なく良いものとなりうる。人の望む形と同じではないが良いものとなりうる。

私は感謝してお山を去る。

遠足のこどもらがキャッキャとはしゃいでいる。

桜が咲いて里に山の神が降りて来ている。

今年もつつがなくありますように。

空谷子しるす

星田

星田神社と星田妙見宮は大阪は交野の土地にある古社であり、饒速日命を祀る社である。

初期研修が修了した。個人的にはできることは全てやった。一人でルンバールができるようになった。他にもいろいろとできるようになった。できないままのことも多く残った。

星田妙見宮は小高い丘の上にある。その丘は馬蹄型にえぐれた谷がある。これは隕石が墜落した跡なのだ。弘仁7年、弘法大師が交野の獅子窟にて修行の折、北斗七星にわかに三つにわかれ地上に降った。ひとつは今の降星山光林寺のあたり、ひとつは星の森、そして最後がこの妙見宮の丘に墜落して爆散した。

星田の名が示す通りこの土地は空と関わりがある。

天皇の一族に先駆けて高天原から降りたのは饒速日命である。彼は巨大な乗り物である天磐舟に乗って、生駒山麓北端の哮が峰に降り立った。その岩は今も磐舟神社とて大切に祀られている。その磐舟神社のあたりから流れる川が天野川といい、この星田の地を潤して淀川に合流している。

天野川というからには七夕の伝承もあって、

星田妙見宮は織女、天野川を挟んで対岸の天田神社には牽牛を祀るという。星田妙見宮の山頂には巨岩があり、これを織女石(たなばたせき)と言う。

この星田の地は他の土地と同じくとても古い。祖先のまた祖先から延々と人が暮らしてきた土地である。

人はどこから来てどこへ行くのか知らない。

春日大社の元宮司の葉室頼昭氏は、自らがむなしうなったら神霊の仲間入りをし、人々の助けとなることを思っていた。

私も自分がそうなればいいなと思う。

空谷子しるす