忘れられた日本人

大晦日には私の家の近くに提灯が出る。

というのは各集落の入り口に提灯をふたつ建てるので、この町に住んで22年ほどになるがいまだにその訳は知らない。提灯には「御神燈」と書いてあり村の名前が書いてある。これは何かの神社を目指したものか、あるいは年神を集落に迎えるためなのか、別の理由があるのかわからない。

私たちは足元のことをよく知らない国民である。

柳田國男が「この書を外国に在る人々に呈す」と遠野物語に記したのは100年前になる。それから順調に日本人は自分たちを意図的に、あるいは無意識に忘れてきたのだった。

むろん血筋や郷土が私たちの全てではない。むしろそれらよりなお重要なものがあるだろう。それは一切の誤解を恐れずに言えば神であり真実である。神と申して、なになにの宗教に金を納めねばならんとか、これこれの宗教は歴史上かつて教義のために虐殺や略奪をしたとか、いまだに犯罪が絶えないとか、そんな「具体的」の「神」は偽物である。しかしカトリック、仏道、神道、それらが各々訴えるところの内奥の真実はおそらく多にして一であり異なる。

そうした真実を目指すときに私たちの足元がしっかりしていなければどこにも行けない。具体的なことは具体的になされなければならない。私たちは日々に嘆きながらも目を開いて歩くことを要求されている。目を開いてつらい世の中を具体的に歩くためには真実が必要だし、真実はどれほど人間が理知的に否定しても存在する。真実というものは私たちがそれを意図的に道具に「する」ことはできるが、本質的に道具ではない。旧約聖書にあるように神の名は「私は在る」という名なのだ。真実は私たちの意図とは全く無関係にただ存在している。ちょうど未発見の物理法則が私たちの認識と関係なく存在するのと同じように。

宮本常一の「忘れられた日本人」を読んでいる。この本は地域の診療所の所長に勧められた。診療所の所長はかつて愛媛の山中に長らく赴任していた。なかなか動かない行政と渡り合い、住人と睦み、医療を行った。具体的なことを具体的に行おうとした人間である。その彼が宮本常一の「土佐源氏」を読むことを私に勧めた。理由はわからない。

人間は卑しい。田舎の人間には田舎の強烈な卑しさがある。都会に憧れる人の気持ちはよくわかる。東京にはきっとそんな卑しさは無いだろう。それは東京のいいところではないかと思う。卑しさは無くなるほうがよい。

しかし私たちは根無草になってはならない。目の前の足元を見なければ現実に自分も人も損なうだろう。東京の良くないところは根無草なところではないかと疑う。根無草というのは具体的なことを見失った状態である。人間の人間的な部分だけを愛することは具体的ではない。人間の卑しさだけを求めることは具体的ではない。文学も詩もそうだ。真実を目指さず、人間の卑しさだけを賛美するようならそれらは世の中に売れても何の価値も無いばかりか大勢の人を惑わす大罪を犯す。惑わしておきながら勝手に滅びて、あとは知らないと惑わされた人々を放り投げるのだ。私は小さいころから文学も詩も好む。しかしある話がある。私はそれを全て信じるとは言わないがある程度は真実性はある。その話というのはこうだ。パードレ・ピオというカトリックの聖人がいた。彼のところに人が尋ねて、その人はある小説家の作品が大好きだった。それで訪問者は、ピオ神父にその小説家がいまなにをしているか尋ねたのだ(その小説家は故人であった)。ピオ神父はわなわな震え、顔を紅潮させた。「ああ、彼はあまりに人間を愛し過ぎた!」と言った。

恐らく小説家は「人間」を愛しすぎたために煉獄に落ちていたのだろう。それでピオ神父はあわれな小説家のために悲しんだのだった。小説家は人間の人間的な部分を愛し過ぎたのだ。人間的な部分の多くは卑しい。あまり価値のないことだ。性交、暴力、濫りな酒食、勝負、そうしたものは「人間」が生きるには必要だが人間が救われるには節制すべきものである。「人間」的なものばかり見つめるのは具体的に生きているとは言わない。ただ欲望にまみれているだけだ。酒や賭博に溺れて自らの脳髄に麻酔をかけているのと同じではないか。人間の卑しさは具体的ではない。薬物にまどろむことを現実に生きていると誰も言わないのと同じように、人間の卑しさを描くことを具体的に生きているとは言わない。人間を描かざるを得ない小説家や詩人は、目指すべき軸がなければ卑しさにまみれる。全然具体的ではない。

具体的なことを具体的に。この言葉は箕面の神父から教わった。往々にして「まじめ」な宗教者(「まじめ」はくそまじめとは意味が違う)のほうが、在俗の人々よりはるかに具体的だ。抽象的と思われている神に祈ることは、きわめて具体的な行為だ。祈ること、日々のくらしをすること、食べること、飲むこと、家族とくらすこと、排泄すること、話すこと、全ての具体的なことはつながっているように思う。家族を見ず、めしも味わえず、安酒とうま酒の違いもわからず、化学物質のアルコール作用だけが酒と思い込み、生きることと大麻で酩酊することを混同しているかのような生き方は具体的とは思えぬ。

具体というのは必ずしも目に見える物体のことを意味しない。固定化された血筋や地域性は一見具体的に見えるがそれほど大事ではない。地縁、山や川の神々(キリスト教の神と日本語の神はもともと指す意味がある程度は異なると思う。それは単純な多神教と一神教の違いではないはずだがうまくは言えない。言葉にしたらその瞬間間違っている気もする)、家族、人々の内奥の軸(ただの「人々」ではない)を具体的に大切にすることが重要だ。私自身具体的なことを具体的にできているわけではない。私は自分の努力や自力が無い。だから祈り求める。

大晦日を越えて新年が来る。年神を迎えるということについての実感は私の中には無い。私もまた日本人のことを忘れているのかも知れない。年神という概念が日本のものか東アジアに普遍のものかは寡聞にして知らない。しかし具体的なことを具体的に学び、軸を祈り求めることはいつも重要だろう。

空谷子しるす