死に至る病

I先生に勧められてキルケゴールの死に至る病を読もうとしたのだが私にとってはあまりに難しくちっともわからなかった。

なんとなく

「すべてを可能にする神の可能性を信じぬことが絶望」
「みずからに課せられた十字架に従順でないことが罪」
という2点を論証しようとしているのかなと思った。合っているか間違っているかわからない。

自分に課せられた十字架に従順でないのはたしかに私のことだと思う。

私は自分がかしこいと思っている。しかし現実にはさまざまな人たちに劣っている。劣っていることがわかりながら、弱者の身振りをしながら、「おれはばかの振りをしているけど、実はいろいろわかっているのだ」とひがんでいる。

自分にできること、できないことを従順に受け止めること。それが十字架の従順ではないかと思う。不従順はキリスト教における罪だ。つまり自分を過度にいやしめるのも持ち上げるのもどちらも罪になる。

しかし自分の生のすがたを見つめたくなくて悶絶することも、自力では解決することは難しいように思う。

もしかしたら本来は自力で解決できるのかもしれない。自転車にどうしても乗れない、こわいと泣く子供が、なにかの拍子に乗れるようなもので、誰にも本来、生の自分を従順に見つめる力が備わっているのかもしれない。

生の自分を見つめることはとても恐ろしいことだ。

「自分はなにもできない」と言い放つより、「自分はこれくらいの人間だ」と認めることのほうが遥かに怖い。

死に至る病のほとんどの箇所は全然わからない。何度か読めばまた少し分かるだろうか。

神の全能性による可能性を信じることというのはこころよいことだ。

今の自分だけで全てを判断しなくてすむ。

空谷子しるす