死に至る病

I先生に勧められてキルケゴールの死に至る病を読もうとしたのだが私にとってはあまりに難しくちっともわからなかった。

なんとなく

「すべてを可能にする神の可能性を信じぬことが絶望」
「みずからに課せられた十字架に従順でないことが罪」
という2点を論証しようとしているのかなと思った。合っているか間違っているかわからない。

自分に課せられた十字架に従順でないのはたしかに私のことだと思う。

私は自分がかしこいと思っている。しかし現実にはさまざまな人たちに劣っている。劣っていることがわかりながら、弱者の身振りをしながら、「おれはばかの振りをしているけど、実はいろいろわかっているのだ」とひがんでいる。

自分にできること、できないことを従順に受け止めること。それが十字架の従順ではないかと思う。不従順はキリスト教における罪だ。つまり自分を過度にいやしめるのも持ち上げるのもどちらも罪になる。

しかし自分の生のすがたを見つめたくなくて悶絶することも、自力では解決することは難しいように思う。

もしかしたら本来は自力で解決できるのかもしれない。自転車にどうしても乗れない、こわいと泣く子供が、なにかの拍子に乗れるようなもので、誰にも本来、生の自分を従順に見つめる力が備わっているのかもしれない。

生の自分を見つめることはとても恐ろしいことだ。

「自分はなにもできない」と言い放つより、「自分はこれくらいの人間だ」と認めることのほうが遥かに怖い。

死に至る病のほとんどの箇所は全然わからない。何度か読めばまた少し分かるだろうか。

神の全能性による可能性を信じることというのはこころよいことだ。

今の自分だけで全てを判断しなくてすむ。

空谷子しるす

「死に至る病」への2件のフィードバック

  1. ありがとうございます。
    早速読んで頂きましたね。
    僕の方は推薦しておきながら、おそろしく遅読で、先ごろようやく読み終えました。
    難解でしたが、慎重に積み上げるように緻密に議論を展開しており面白かったです。

    絶望と罪の定義はおっしゃる通りでよいと思います。
    原文に即してより正確に記述すれば、
    絶望して自分でない何かであろうとしたり、反抗的に自分自身であろうとしたりする状態で、これは神に対する不従順であり、罪である。
    罪の対義語は徳ではなく信仰。
    無知だから罪なのではなく、信仰がないから罪。
    他の場所では、もっと端的に、絶望とは罪のことであったと書いています。
    自己を措定した神との向き合い方を間違えている状態が絶望であり、罪ということですね。
    有名な「人間は精神である。しかし、精神とはなんであるか?精神とは自己である。しかし、自己とはなんであるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である」ということが、その定義を踏まえれば理解が深まります。

    いくつか、面白かった箇所をかいつまんで書きます。

    知識(認識)があるならば行動はその知識に即していなければならないとソクラテスは指摘しました。彼はソクラテスが大好きで、ソクラテスがその他の著作でもたびたび登場します。しかし、現実の人間はそのようなギリシャ的幸福のうちには安住できず、実際には両者に移行があり、そこには認識と意志(情欲)の闘いがある。罪は意志のうちにあるのであって、認識のうちにあるのではない。

    罪を概念として思弁することは堕落、という指摘も素敵ですね。
    特に思弁が苦手な僕には、勇気づけられます笑
    キリスト教から倫理が捨てさられ思弁となってしまった、と彼は彼が生きた19世紀のキリスト教界を切って捨てます。
    しかし、信じるということを、言語的に記述することはできない。もともと「信じる」は思弁を拒絶する。
    イエスが卑しい人間として人々の前におりたことで、神=人学説が避け難く生じた。加えて、アリストテレス的に個に対する類の優位を説くこの学説により、具体的な単独者ではなく、普遍としての人間が思弁されるようになってしまった。
    しかし、人間であるということは、個々の例がつねに類より以下のものであるような動物のあり方とは違う。人間は、個体が、単独者が類より異常のものであるということによって、質的に抜きんでている。
    そして、神と人間はイコールなのではなく、そこにはどうしようもない質的断絶がある。それは抽象的に人間を類として思弁していると、つまずく。具体的なめいめいの罪がゆるされるということを信じられるか。この一点にかかっている。

    精神医学にも多分に貢献していると思います。
    絶望の腑分けはとても秀逸です。諸条件を与えられた具体的な私に根ざすことができず、ありもしない可能性ばかり追求して絶望している人は、内科外来、発達外来でそれなりに遭遇します。

    罪それ自身における一貫性は、嗜癖やアルコール依存症から抜け出せないものの心理を見事に描いているように思います。おそらくキルケゴールも、そこに苦しんでいたのでしょう。

    「彼が誘惑に抵抗してそれに打ち勝っていたときには、彼自身の目には自分が実際の自分よりも善いものに見えた、彼は自分自身を誇るようになった。ところで、この誇りの気持ちからすれば、過去のことはまったく過ぎ越してしまったことにしてしまいたいのである。ところが、罪を重ねることによって、過去のことが突如としてふたたびまったくの現在となる。この思い出は彼の誇りには耐えられない、そこで、あのように深い悲嘆が生じる、というわけなのである。しかし、この悲嘆の方向は、明らかに神からの離脱であり、ひそかな自己愛であり高慢である。」

    これなど、自分のこれまでのふるまいが、心的外傷となって侵入的に彼自身を襲うという、今のPTSDには記述されていない側面を描いているのではないでしょうか。

    でもおっしゃる通り、新約聖書を読んだ方が早いのかもしれません。
    キルケゴールも、煎じ詰めれば、思弁に堕ちるな、神に委ねよ、うっちゃれと言っていますから。

    今年は仏教やキリスト教が勉強会のテーマになりそうですから、どうぞお導きのほどお願い致します。

    I

    1. コメントありがとうございます。
      どうも、僕はいつも「救われるかどうか」に関心があって、「結局この本や思想は人や私の救いになるか」と思っているようです。
      なので、キルケゴールの論理展開や、分類といったものを追いかけることがなかなかできませんでした。要するには「信じるものは幸いである」という新約聖書のことばが大切なのだろうと。

      私たちは神が造りなさったということを考えれば、自己というものが神と私の関係に関係するものととらえることもできましょう。神を考えずにキルケゴールを解釈することは100%不可能なことだと思います。つまるところは、私たちは神との関係の中にあるということでしょう。

      動物たちの内面は私たちにはわかりませんが、信心するということは一見無いように見えます。ゆえに動物は類のほうが優越するでしょう。具体的な事象より、特徴をまとめた概念のほうがわかりやすいしより動物を理解できるからです。
      しかし仰るように、人間には神がおりますから、個々の人間と神の関係があることを思いますと、これはもう類としてまとめるわけには参りません。なぜなら個々の特殊の関係が神とかかわるものだからです。神との関係は個々別々で、神と関わるゆえに不可避で絶対です。とても抽象化できるものではないです。

      可能性をのみ求めて絶望する人は多くあります。彼らは本当の神を見ないことは、たしかに私も精神科の病棟でよく見たことでした。神を見ることは、なにもかも楽になることはないが、しかし致命的な誤謬からは知らず知らずのうちに助けられるものです。つまり人間的な意味ばかりもとめるから彼らは苦しむのです。

      かつての我が振る舞いが、罪を犯したとたんに襲うのもたしかなことです。
      聖書に「裁く裁きで裁かれ、計る秤で計られる」とあります。
      自分の価値観や振る舞いが自分を苦しめます。まして自分を、自分の力のみで尊いように維持できていると誤解しておれば、ますます逆襲は強いでしょう。
      つまりなにか罪を犯すにせよ、神に任せていることがよいと思います。罪を犯すのにあたってはたしかに意思の問題となると思います。自由意志はあるでしょうか?キリスト者にとっては自由意志の有無は大きな問題と思います。

      日々の研修にくたびれて、ただでさえ聖書や仏典の知識が不十分で、なにかできるかはわかりません。
      しかしみなさまと一緒に、聖書や仏典という、貴重な書物に向き合えたら幸いです。

      O

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