塞の神

大津の山の、山科との境に蝉丸神社がある。

これは百人一首で有名な歌人の蝉丸を祀るのであって、彼の生前の威力から歌、技芸の上達に験があるばかりではなく、前がちょうど逢坂山の峠道だから交通安全の神でもある。

このように往来の安全を祈り、不審物の侵入を防いでくれる神を塞の神と申す。村境や峠、三叉路、追分などに祀られる。

大津から瀬田川をくだり宇治に出る山中に猿丸神社がある。猿丸大夫は三十六歌仙の一人である。

猿丸はどんな人物か未詳だが蝉丸は盲目の歌人だったという。彼の庵が逢坂山という、どちらの国にも属さぬ境界にあったのが宮の由来と申す。

歌人にせよ盲人にせよ、共同体の境界、本来の日常から外れた人間は、卑しまれるとともに尊ばれる。はずれものは境目に追いやられ、しかも神として畏れられるものかもしれぬ。

境目にあらねばならぬ人間は弱い。弱いから追いやられるのである。

しかし弱く追いやられ、しかも歪まず正しい道を思う時、その人間はまことに尊い。

弱くあらねばまことに強いとは言えぬという矛盾がある。まことに苦しみ、まことに心身弱いがゆえに恨みや怒り、耐えがたさや業苦が湧くものを、なおも正しさを思わねばならぬ。まことに弱くあらねば強くならぬ矛盾である。まことに頭と体が弱く、それゆえに苦しまねばならぬのに歪むことなく正しさを思うところに人間の真実がある。

弱くなければ真実は得られぬ。キリスト教のえらいところはそうした弱い人間を聖とて認めるところにある。日本に必要にして不足しているのはそこだと思う。強い人間、強い存在のみが神なのではない。弱いがゆえに境目にある人間の、なおも祈る人々が尊いというのは、円空などの雲水を尊ぶこころと通う気もする。しかしその目線はよそよそしく、教養ある上級民のみが美術を自分たちは理解するというように彼を見るのみだ。

境界にありながらも祈り求める人間を私はほとんど知らない。そうした人間だけが人間らしい人間と私は思う。

空谷子しるす

聖女リタ

聖女リタはカトリックの聖人で他の聖人と同じように大層苦労した人である。

俗世で旦那は乱暴であった。しかしリタの祈りの甲斐あって旦那は穏やかになった。しかし旦那はある者に殺害せられてしまい、憤慨した息子が仇討ちに向かいこれもまた死んだ。

世を儚んだリタは出家せんとて尼寺に向かうも年増のリタを尼寺は請けない。リタ再三祈り、尼寺の尼僧いくたびも断るが閉じたはずの門扉の内側にいつのまにかリタ入りおったりしてこれは神の奇跡なのか、とにかく本来認められぬ尼寺への異例の入門となった。

しかしながら尼寺に入ったあともリタは苦労ずくめだ。ただでさえ高齢の入門者で疎まれている。リタはイエズス・マリア・ヨゼフ・諸聖人しか頼る者もおらなかったかと思う。なのに、ある日彼女が御堂で祈っておると、あろうことかイエズスの像のいばらの冠よりいばらのかけらが射出されてリタの額に命中、傷跡は治らず膿をはなち悪臭ひとかたならないからこれは大したことだ。リタはいよいよ憎まれるし隔離されて幽閉されて暮らさねばならんくなった。

リタの物語はもう少し詳しく知りたい。竹下節子女史の本を読みたいと思っている。

亡くなってのち、リタの遺体は腐敗せず、生前の悪臭はうってかわって素晴らしいよい匂いを放ちはじめたというからこれは奇跡である。

リタは不可能を可能にしてくれる聖人と申す。

いったい世の中は不可能なことが多い。私も医学部に入る折には毎日聖女リタの御取り次ぎを祈ったものである。

キリスト者にとってキリストと共に歩む以外の意味のあることは存在しない。天文学者のヨハネス・ケプラーもまた天文学が神に一番近い学問としてその学びに与かれる栄光を心から喜んだのであった。神への敬愛が科学の原動力の重要な一要素である場合がある。

思想や科学に信仰のない今の世はまさに塩味のない塩のような時代だ。そこに味わうべき妙味も情熱も感じがたく、すべては脳髄の神経接続の出来栄えを誇って生き馬の眼を抜く遊びをしながら、緩慢な全員の退廃に気づかず日々を貪るのみである。

とはいえなにもできるわけではない。

同じ思想が巡る。

人から軽侮される道こそは真実の道なのは間違いなく思える。イエズスもまた軽侮され、愚弄され、蹴飛ばされて惨殺されたのであった。日蓮の、迫害されるほどにおのれの真実であることを信じたように、乞食のラザロが神の右に座り金持ちが平伏するように、弱い人間こそ真実である。それはおそらくマルクスやウェーバーの言うような社会不安を緩和する麻薬や魔術としての宗教ではあるまい。それは実際面にはたしかに人々の業苦をごまかしてなんらの社会改善をすることのない麻薬であり魔術である。だが弱く、陰を歩く人間が祈るときに正しさと真実があり、唯一弱い人間が良くなりうる契機があるとしたら真摯な祈りのみによる。

空谷子しるす