滋賀の北部は順調に寒くなり、伊吹山は今年初めて雪が降った。
長浜の息長のあたりでは伊吹山に三度雪が降れば三度目には里にも降ると言う。
息長はいわゆる息長氏の故地であり、すなわち八幡神の発祥の地とも言えるだろう。山津照神社という宮が息長氏の祖神を祀り、境内には古墳がある。
私は診療所の所長から褒められた…「先生はいい医者になる」。しかし診療所の奥方の看護師にはあまり受けが良くないようだ。相変わらず一年目の研修医や、同期の優秀な研修医からは軽侮されている。
診療所の所長は農学部を出てから医師になったので、コメの起源を調べるため東南アジアに繁く通った人間だ。
私はコメの道を思う時、さまざまな人間の流れを思う。ある種の憧憬が湧く。力と理力で人を圧倒し恫喝する生き方ではない、弱い人間の生き方に憧れる。
ちかごろ長谷寺験記の和訳を読んだ。長谷寺の観音は願いを叶えてくださると言い、古くから藤原氏の崇敬厚い。
仏教ではしばしば今の世の理不尽な苦しみは前世の業によるものと説明される。長谷寺の仏は定業亦能転と申し、自力でどうしようもないその業を転じて助けてくださるという。
世の中は不合理である。生まれ持った豊かな心身、家の財産、整った両親、そうした数多の利益のいくつかをもとにして成功した人間が努力の大切さを語ることは無尽蔵に愚かなことだ。
私が医師免許を与えられたのも、私の体が弱いのも、私の頭が鈍いのも、顔が醜いのも、全て賜物である。私がことごとく社会に馴染めないのも賜物であるかもしれない。
恐ろしい理不尽な災禍は仏教では前世の悪因といい、キリスト教では神のみわざが顕れるためという。私は自力の無さゆえに抑圧を感じる。抑圧を感じるゆえに苦しむ。私は何のために生きるのかわからなくなる。
私は極端なことを言えば、自らの抑圧のゆえに、全ての恵まれた自力信心の人間をことごとく滅ぼしてしまいたい。しかしそれは自力の不足のゆえにできず、また神仏の望むところでもない。私はただ不真面目に祈りながら抑圧されているのみである。しかも非力な自分の生存に適した場所に行くことなく、なにかに憑かれたようによくわからぬ道を進もうとしている。
いったい神は私に何を望まれるのか。いったい私は何を望んでいるのか。自分のことは常に一切が分からない。
地域医療で出会った患者や医師は珠玉である。私はとても疲弊したが形にならぬ体験をした。
診療所の所長は私を大陸引き揚げ者の昼食会に招待してくれた…人間の営みは変わらず、惨憺の中になおも普遍的なことを求めなければならない。
ばかな私になにができるというのか。小テレジアの歩んだ道、ドンボスコの歩んだ道を私も歩まねばならないというのか。彼らより遥かに愚かで矮小な私は、それでも聖人と同じ道を歩まねば救われないというのか。しかもカトリックに至ることではなく、日本社会の人間たちが等しく私をいらない人間と憎むのに、日本の神々と親しむ道を歩まねばならぬ。
万人は私を知能の低い人間、つまらない人間、ものぐるいになりかかった見るべきもののない人間、そもそも存在に気づくことのできぬほど不明な人間と思うだろう。
どうか私を導いてください。
空谷子しるす