死と隣り合わせに
生活をしている人には、
生死の問題よりも、
一輪の花の微笑みが身に沁みる
(太宰治『パンドラの匣』)
22,3の頃だったと思う。
2月のある日、私は鴨川を南へと走っていた。
Mozartのsymphonyだかpiano concertoを聞いていた。
ふと、西日に包まれたボケの赤が強烈に私を捉えた。
それは私の認識以前から土手の左手に正しく佇んでいた、に違いない。
その赤の美しさと私自身の無知がないまぜになり、忘我の中恍惚としていた。
しばらく動けぬまま世界と対峙したのち、
名も知らぬ美女に今までの非礼を詫びつつ辞去した。
以来、私の網膜に町中の花が飛び込んでくるようになった。
花がこちらに話しかけてくるようにすら感ぜられる。
勢い、こちらも話しかけてしまう。
今では親友の数は植物の方がずっと多い。
前後して、私は夢の中で首を落とされた。
小屋の中で私は椅子に座らされ、後ろ手に縛られていた。
何やら罪状を読み上げられながら、致し方がないと納得していた。
その後、首は切断された。
私は私の首が落ちる様を見ていた。
首は落ちて地面に着いた。
その瞬間、私は爽やかに覚醒した。
吉夢に違いないと確信しながら。
太宰の観察に科学的な根拠はなかろう。
私にしても、むろん実際に死んだわけではない。
しかし、夢の中で死んだその前後から、花と私が親密になったのは、紛れもない歴史的事実である。
他にも死と花に関する素朴な観察が歴史にはある。
野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり。
されど我汝らに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その服装いこの花の一つにも如かざりき。
今日ありて明日、炉の投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。
さらば何を食らひ、何を飲み、なにを着んとて思ひ煩ふな。
(新約聖書「マタイ伝」第六章)
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。
(『平家物語』第一巻「祇園精舎」)
ソロモン王、盛者はそれぞれ抽象と置換してよい。
抽象は見栄え良く耳に心地よい。
しかし、地に足がついていなければプラダのゴミ箱にすぎぬ。
美しい剃髪・僧衣は正覚のシニフィアンではない。
ゆえに、明恵は耳を切り落とした。
具体的なことを具体的に
やっていく他ない
私の恩師はかつて、繰り返し私に説いた。
地に足をつけて歩む他ない。
あらゆる病も死も、明日は、否今日は我が身である。
地に足がつけば、地に咲く花の美しさと儚さをもはや素通りすることなどできぬ。
西方でも上方でも彼岸でもない。我々の生は具体的なこの大地にある。
この大地という不自由の中でこそ、我々という花は咲いて散る。
P.S.
タイトルの”Death and the Flower”はKeith Jarrettのアルバムです。
どなたかどうしてKeithがこのようなタイトルをつけたかご存じの方がおられれば、どうぞ教えてください。邦訳の「生と死の幻想」というのでは納得がいきませぬ。