死と花

死と花 

私たちは誕生と死の間で生きている
或はそう都合よく自らを納得させる
ほんとうは生まれると同時に死んでいる
一生涯の すべての永遠なる一瞬一瞬において
私たちは 日々誕生と死とを経験する花であろうとすべきだ
そして花としての生を生きるため
より多くの準備をする者であろうとすべきだ

だから私たちの生は限りあるゆえに
死とは より輝いた花を咲かせるための
友人であり助言者であると考えよ
あなたが永遠について理解し
死の幻想を求めること止めるようになるまでは
このことを考えるがよい
しかし あなたが最初の大いなる幻想を失うその以前には
このことを考えてはならない
それは"生 "という名の幻想である
このことを考えるためには幾度も死に
それを知るために 生きねばならぬからである

1974年12月5日,同タイトルのキース・ジャレットの詩を,翻訳した.Deep Lを使用した上で,筆者による修正を加えた.以下にオリジナルのライナーとして,他サイトに引用されていたものを引用しておく(筆者はこのアルバムを鳥取県米子市角盤町のTSUTAYAで借りた記憶がある.残念ながら購入はしていないため所有もしておらず,文章も,Webを頼らざるを得なかった.ついでに言えば昨今のストリーミングの隆盛で,音楽=楽音または動画コンテンツとなってしまったので,ライナーノーツの存在感はかなり希薄になったと感じている.歌詞も検索で分かってしまう.しかしSpotifyに対価を支払っているものとしては,出演者Personnelとアレンジャー,エンジニア,グラフィックのデザイナー,そして原盤のライナーノーツ!まではすぐに参照できるようになっていってほしい...それがレコードやCDを所有する愉しみのひとつであったのに・・・.ここではなくてSpotifyのカスタマーサービスにでも言うべきことと思うけれども.でも結局,少し調べたら分かってしまうので,Appleの方針のそれと同じで,シンプルがよいということかもしれない.なんでもかんでも書いて情報を盛ると,醜く見にくい絵面になってしまう.デザインとは難しい問題とおもいます.)

Death And The Flower
We live between birth and death
Or so we convince ourselves conveniently
When in truth we are being born and
We are dying simultaneously
Every eternal instant
Of our lives

We should try to be more
Like a flower
Which every day experiences its birth
And death
And who therefore is much more prepared
To live
The life of a flower

So think of Death as a friend and advisor
Who allows us to be born
And to bloom more radiantly
Because of our limits
On Earth

Think of this until you realise
Eternity
And cease to need
The illusion of Death

But do not do this
Before you lose the first great illusion:
The Illusion of Life

Because
To do this
You must die Many times
And live to
Know it

引用元:https://www.wikiwand.com/en/Death_and_the_Flower

Death and the Flower

死と隣り合わせに
生活をしている人には、
生死の問題よりも、
一輪の花の微笑みが身に沁みる

(太宰治『パンドラの匣』)

22,3の頃だったと思う。
2月のある日、私は鴨川を南へと走っていた。
Mozartのsymphonyだかpiano concertoを聞いていた。
ふと、西日に包まれたボケの赤が強烈に私を捉えた。
それは私の認識以前から土手の左手に正しく佇んでいた、に違いない。
その赤の美しさと私自身の無知がないまぜになり、忘我の中恍惚としていた。
しばらく動けぬまま世界と対峙したのち、
名も知らぬ美女に今までの非礼を詫びつつ辞去した。
以来、私の網膜に町中の花が飛び込んでくるようになった。
花がこちらに話しかけてくるようにすら感ぜられる。
勢い、こちらも話しかけてしまう。
今では親友の数は植物の方がずっと多い。

前後して、私は夢の中で首を落とされた。
小屋の中で私は椅子に座らされ、後ろ手に縛られていた。
何やら罪状を読み上げられながら、致し方がないと納得していた。
その後、首は切断された。
私は私の首が落ちる様を見ていた。
首は落ちて地面に着いた。
その瞬間、私は爽やかに覚醒した。
吉夢に違いないと確信しながら。

太宰の観察に科学的な根拠はなかろう。
私にしても、むろん実際に死んだわけではない。
しかし、夢の中で死んだその前後から、花と私が親密になったのは、紛れもない歴史的事実である。

他にも死と花に関する素朴な観察が歴史にはある。

野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり。
されど我汝らに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その服装いこの花の一つにも如かざりき。
今日ありて明日、炉の投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。
さらば何を食らひ、何を飲み、なにを着んとて思ひ煩ふな。 

(新約聖書「マタイ伝」第六章)

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。

(『平家物語』第一巻「祇園精舎」)

ソロモン王、盛者はそれぞれ抽象と置換してよい。
抽象は見栄え良く耳に心地よい。
しかし、地に足がついていなければプラダのゴミ箱にすぎぬ。
美しい剃髪・僧衣は正覚のシニフィアンではない。
ゆえに、明恵は耳を切り落とした。

具体的なことを具体的に
やっていく他ない

私の恩師はかつて、繰り返し私に説いた。
地に足をつけて歩む他ない。
あらゆる病も死も、明日は、否今日は我が身である。
地に足がつけば、地に咲く花の美しさと儚さをもはや素通りすることなどできぬ。
西方でも上方でも彼岸でもない。我々の生は具体的なこの大地にある。
この大地という不自由の中でこそ、我々という花は咲いて散る。

P.S.
タイトルの”Death and the Flower”はKeith Jarrettのアルバムです。
どなたかどうしてKeithがこのようなタイトルをつけたかご存じの方がおられれば、どうぞ教えてください。邦訳の「生と死の幻想」というのでは納得がいきませぬ。