その女性はⅡ型糖尿病の教育入院であった。
かかりつけの病院で高血糖を指摘され、紹介されて来られたのだ。
「ブラジルでは、じぶんで血糖値をはかる器具を買って、じぶんではかります」
その方は日系ブラジル人であった。
ずいぶん前に日本人と結婚され、日本にきた。
「ブラジルにはカトリックとエヴァンジェリストが半々です」
ご高齢のブラジル人にカトリックが多く、若い年代にエヴァンジェリストが多いとのことであった。
彼女はカトリックであり、エヴァンジェリストはあまり得意でないようだった。
カトリックは貧しい人とお金持ち、エヴァンジェリストは貧しい人が多いとのことで、いわゆる教会への寄付は、カトリックでは「あの」馴染み深い皮袋に、いくらいれても、いれなくても自由だ。しかしエヴァンジェリストは、給与の1割を収めねばならんらしい。
それは酷なはなしである。
「娘の彼氏、ファベーラの人なんだけど」
ファベーラとはブラジルのなかで貧しくて危険な区画と私は理解している。
「ファベーラ、危なくないです?」
彼女は首を振った。
「ファベーラの人と友達の人、大丈夫。その人といっしょに行けば危なくない。」
でも、と彼女はいたずらぽく笑った。
「わたしはちょっとこわいね。ひとりではいかない」
彼女は、結婚する相手は心だと言った。
「男の人、よく、若いとか、顔で結婚する。よくないね。ブラジル、30代で結婚はふつうよ。」
「そうなんだ」
「私も、だんなさんすごい優しい人!」
そういう彼女の顔は明るく、太陽のようである。
「だから、あせらない、あせらないよ」
悪いことには子供のようであり、考え方については大人のようであれ、とは聖パウロのことばである(コリ1 14:20)。
人間のつきあい、人間のつきあい、
これはもう「赤心」をもって、こどものように、大人のように、臨むしかあるまい、と思った。
空谷子しるす