映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』

 映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を観た。

 他者をどう考えるかという問いに対して、三島は「私の大嫌いなサルトル」という言い方をして『存在と無』から最も猥褻なのものは縛られた女の肉体であるという文言を引用し、エロティシズムと暴力の必要性について語っている。ここでいう他者というのは、双数関係にある他者ではなく、大いなる他者であろう。それを三島は天皇という。

 他人を物のように扱うことの誠実さは他人の中に自分を見出さない、他者は自己の鏡ではない、という切断的態度の内にある。サディズムは自分と似た他者を切断する行為によって虚無を回避し大いなる他者を現出させようという涙ぐましい努力である。三島は映画の中でも言っているように、その他者は天皇である必要はなかった。本来的になんでもよいが、卒業式で時計をもらったときの天皇はとてもご立派だった、そういう個人的恩顧が三島にはあった。

 三島の学生への問題提起は、物と持続についてであった。机は本来の使用用途とは別の扱いを受けることがある。たとえばバリケードのように。究極的には何者でもないことは可能なのか、という問いである。革命が本来の使用用途や存在様式から離れることであるとして、それを持続させることは原理的に可能なのか、ということである。成功するかどうかは問題ではないと言ったときに無自覚であるのはどういった点か。それは何者でもないということは不可能であるということだろう。常にすでに、人は何者かになってしまっている。同時に物はある眼差しの中でそれが本来的とよび得るか非本来的とよび得る在り方かどうかによらず何物かであってしまっている。

 学生たちが他者と思しい権力と対峙するなかで、三島の問題意識は他者がいないこと、大いなる他者が不在であるということにあった。だから三島の学生に対する問いは、転覆した先の他者をどう担保するのか、ということでもあっただろう。というより、他者は大なり小なりおらずにはおれないものではあるが、君たちのそれは私が天皇と名指すものに匹敵し得るものなのか、どうなのかということだろう。大澤真幸は『三島由紀夫 ふたつの謎』の中で三島の原点、出発点に「一の内的不可能性」があったということを書いている。少し引用する。

 こんなふうに問いを立ててみよう。もし究極の真実が『豊饒の海』の結末が示唆しているように、容赦のない虚無であるならば、つまり「0(ゼロ)」であるならば、どうして何かが、世界が存在するのか。

 究極の真実は、虚無、つまり「0」とは異なる何かではないか。見まちがうほどによく似てはいるが、「0」とは異なる何かではないか。それを、ここでは「一の内的不可能性」と呼んでおこう。…

 私は学生の頃、戯れに0∞システム(ゼロ無限システム)というものを考えたことがあった。虚無であるところの人と無限大であるところの絶対的存在からキリスト的一が析出し得るという信念に基づく体制をそう呼んでみた。0∞=1は可能性の海であるが、それは幻想に過ぎない。このシステムは人が限りなく0か無限大に近づくことで有1であるところの1を体現できるという信念があって初めて駆動するが、実際にはこの1は遡及的にしか見出されない代物であるが故に不可能である。

 0∞=1の地平で闘っても資本主義やキリスト教は乗り越えられないということをおそらく三島は自覚していた。0∞≠1と否を叩きつける存在を三島は強く求め、その存在として天皇を選んだ、ということではないか。

 三島は自我が極端に肥大し風景の隅々にまでそれが侵食したような小説を書く一方で、自我を極度に希釈させてみせるような試みもする、その所作はゼロと無限の間を焦慮に駆られながら気忙しなく振幅しているようにも見える。

 私たちは常にすでに1であり、そこから逃れることはできない。何ものでもない在り方や何ものでもある在り方を求めることはシステムにとっては織り込み済みの行為であり、それこそが資本主義の糧となっている。私は何ものでもないとか、何ものにでもなり得るという態度は、だから態度として至極「合法的」といえる。三島がいう非合法的暴力は0でもなく無限大でもなく0を反転させた形での無限大でもなく無限大を反転させた形での0でもなく、それらのスペクトラムとは全く無関係に有無を言わさず新たに1を穿つ行為のことではなかったか。それが三島の小説においても実際の行動においても成功しているとは思えないが。

 基礎に立ち返ると、1はやはり穿つものではなくすでに穿たれたものとして立ち現れる。あらゆる、多様な1が可能だが、穿つことはできない。それと知らずに1となっている、活動とはそういうものではないか。1を目指すことはできないし、そもそもその目指す行為は意図せずその人を双数関係へと導いてしまう。

 ジジェクは平等と認識される正義は妬みの上に成り立っているという(スラヴォイ・ジジェク『パンデミック2 COVID-19と失われた時』)。能力に応じて働き、必要に応じて受け取る、ということは平等主義とは異なる。問題なのは序列や格差が自由や平等の名の下にうまれていることだろう。三島は持続を問うていた。それは机をバリケードたらしめる行為者への責任を問うことでもある。たとえば、あなたたちはバリケードであると言った場合、その眼差しが持続しないのであれば机は絶えず名指すものの顔色を伺っていなければならなくなる。持続しないこの暴力は三島の言葉を借りれば合法的な暴力ということになるだろうか。織り込み済みの暴力である。ベンヤミンの説いた神話的暴力(法維持的暴力、法措定的暴力)と神的暴力の分類でいうと、機動隊の暴力は法維持的暴力で学生の暴力は法措定的暴力にあたるだろう。三島はそれとは別の神的暴力を発動させたかった、のではないか。

 それは天皇である必要はなかったと三島は言う。私は近所のおじさんでもNPOでもいいと考えている。おじさんだろうがNPOだろうが気づいたら1になっている、ということがあるだろう。 (2021.06.14)