今回はinterestingな言葉。
妹が出生する前後から2歳3ヶ月の息子に、例によって赤ちゃん返りがみられ始めた。
妹が家にやってきて以来、妹は母親の乳を吸いながら眠っている。
その妹と母親の間が、彼にとって意味のある空間として立ち上がってくる。
彼はしきりと母親にすがって、その間に入りたいと泣く。
こわいの、こわいの。
母親が出産のために入院している間、彼は姉と私の間に分け入ってきた。
それに対して姉はもちろん抵抗した。
姉と言えどまだ5歳なのだ。
夜の闇のなか、私の横は簡単に明け渡し難い。
しかし、やがて弟が泣いて怯える様を見て、間という特殊な空間を譲った。
母親がまだ生まれて1週間の妹を連れて帰ってくると、今度は妹と母親の間が彼にとって切実な意味を帯びる。
たとえ生後数週間のかよわい体であることは、彼にとって意味をなさない。
かの特殊空間を求めて彼は叫び求める。
その時、私はふいに「あ、痛い!」と叫んでみる。
やはり息子は「どうしたの?」と応じた。
私はこれまでも観察から、彼が甘えて泣いている時に、誰かがたまたま「痛い」や「うわ」などの言葉を発すると、すぐさま「どしたの?」とやってくることを見知っていた。
今まで泣いていたのが嘘であったかのような表情をしていた。
なるほど、彼の表現としての涕泣にはいくつかの意味があるのだろう。
身体的にないし精神的に強烈な痛みが彼を襲った時、彼はその時何をしても泣くだろう。世界が崩壊しつつあるように感じられているのかもしれない。
しかし、痛みの程度がさほどでもないとき、例えば甘えから泣く様な時、彼の精神にはまだ遊びがあり、容易に切り替えが生じうる。
私はその観察からの仮説を就寝時に彼がかの特殊空間を希求して泣くときに活用した。
彼は私が「痛い」と叫ぶと、すかさず「どうしたの」とやってきた。
姉もそばにいる。
私は「ヨシヨシして」とリクエストする。
すると彼は「ヨシヨシ」としながら手でさすっている。
私はさらに「大丈夫?ありがとうって言って」とリクエストする。
すると彼は、その通りに言う。
そこで姉も私も笑う。
「なんでありがとうやねん」と。
すると、つられて彼も笑う。
しかし、すぐにまた彼はかの特殊空間を求めて泣く。
そしてまた私が「痛い」と叫ぶ、笑う。
繰り返しているうちに、彼は眠りについた。
お粗末なテクニックだと思う。
嵐が去るのをただ待つこともできたのかもしれないし、その方が良かったのかもしれない。
しかし、私はその夜、彼の中に生じたある種の刃を無力化し、私たちは穏やかに眠ることができた。
われわれの会誌「臨床文藝」創刊号がまもなく発刊される。
主に私はケアについて論じ、LINE座談会でもケアが話題にあがった。
急性期においては、あえてまなざしを注がないことが保護的になることも論じられた。
相手の内なる刃を見て見ぬ振りをする。もしくは、ずらす。
子育てをしているときにも、子のうちに刃を見ることがあり、記録しておく。
追記)
発達障害の外来で心理士がオペラント条件付けの「消去」という対応法を紹介していた。
例えば、子供がお菓子売り場でお菓子を買ってくれないことにかんしゃくを起こしてその場で手足をばたばたとさせてしまう状況を考えてみる。
この時、かんしゃくに耐えかねて親がお菓子を買ってあげると、かんしゃくという行動の正の強化となる。今後同様の状況でかんしゃくを起こしやすくなる。
逆にかんしゃくに対して、「そんなわがままする子は今日はゲームなしだからね」とすれば、負の弱化となる。
ところで、そもそも相手にしないというのが消去。見て見ぬ振りをするといわけである。
私の今回の対応は、単に見ぬ振りをしたのではなく、他の感情を喚起させるよう、他の現象を出来させた。消去とも少し異なるテクニックのようである。
素寒居士