カブトムシ

カブトムシが出ちゃうからお片付けしないとと4歳の長女が言った。

床をはってるところを長女が見つけてベッドの部屋からおもちゃの方に行って見失ってベッドの部屋で発見したところを妻がやっつけたのだそうだ。

怖いね、お片付けしようね、と言った。

(2021.06.13)

わたし

今回もinterestingな言葉

5歳6ヶ月の娘
幼稚園の年長

ここ数ヶ月、娘の一人称が「わたし」となる時がある
それまでは「ももちゃん」と自称していた
妻には、幼稚園でみんなが使っているから、とその経緯を説明したようであった
一人称を軽やかに変化させたその軽やかさに憧憬を抱いた
数週間たって、同様の答えを期待して、聞いてみた
「どうして、わたしって言うの?』
すると、ナイーブな問いだったのか、「いや」と強く回答を拒否した
何かを侵襲しているように感ぜられたため、それ以上は問わなかった

考えてみれば、「わたし」ほど、主体性の純度が高い表現もない
しかし、娘においては、その使用は他者に大きく影響されている
主体性にしのぶ他者性の影
私にしても、「ぼく」から「オレ」への跳躍には随分と難渋した
最近は仕事での立場上「わたし」と自称する場面が増えたが、不協和音が響いている
随分と不自由な主体だこと

素寒居士

こわいの

今回はinterestingな言葉。


妹が出生する前後から2歳3ヶ月の息子に、例によって赤ちゃん返りがみられ始めた。
妹が家にやってきて以来、妹は母親の乳を吸いながら眠っている。
その妹と母親の間が、彼にとって意味のある空間として立ち上がってくる。
彼はしきりと母親にすがって、その間に入りたいと泣く。
こわいの、こわいの。

 母親が出産のために入院している間、彼は姉と私の間に分け入ってきた。
それに対して姉はもちろん抵抗した。
姉と言えどまだ5歳なのだ。
夜の闇のなか、私の横は簡単に明け渡し難い。
しかし、やがて弟が泣いて怯える様を見て、間という特殊な空間を譲った。

母親がまだ生まれて1週間の妹を連れて帰ってくると、今度は妹と母親の間が彼にとって切実な意味を帯びる。
たとえ生後数週間のかよわい体であることは、彼にとって意味をなさない。
かの特殊空間を求めて彼は叫び求める。
その時、私はふいに「あ、痛い!」と叫んでみる。
やはり息子は「どうしたの?」と応じた。

 私はこれまでも観察から、彼が甘えて泣いている時に、誰かがたまたま「痛い」や「うわ」などの言葉を発すると、すぐさま「どしたの?」とやってくることを見知っていた。
今まで泣いていたのが嘘であったかのような表情をしていた。
なるほど、彼の表現としての涕泣にはいくつかの意味があるのだろう。
身体的にないし精神的に強烈な痛みが彼を襲った時、彼はその時何をしても泣くだろう。世界が崩壊しつつあるように感じられているのかもしれない。
しかし、痛みの程度がさほどでもないとき、例えば甘えから泣く様な時、彼の精神にはまだ遊びがあり、容易に切り替えが生じうる。
私はその観察からの仮説を就寝時に彼がかの特殊空間を希求して泣くときに活用した。

 彼は私が「痛い」と叫ぶと、すかさず「どうしたの」とやってきた。
姉もそばにいる。
私は「ヨシヨシして」とリクエストする。
すると彼は「ヨシヨシ」としながら手でさすっている。
私はさらに「大丈夫?ありがとうって言って」とリクエストする。
すると彼は、その通りに言う。
そこで姉も私も笑う。
「なんでありがとうやねん」と。
すると、つられて彼も笑う。
しかし、すぐにまた彼はかの特殊空間を求めて泣く。
そしてまた私が「痛い」と叫ぶ、笑う。
繰り返しているうちに、彼は眠りについた。

お粗末なテクニックだと思う。
嵐が去るのをただ待つこともできたのかもしれないし、その方が良かったのかもしれない。
しかし、私はその夜、彼の中に生じたある種の刃を無力化し、私たちは穏やかに眠ることができた。

われわれの会誌「臨床文藝」創刊号がまもなく発刊される。
主に私はケアについて論じ、LINE座談会でもケアが話題にあがった。
急性期においては、あえてまなざしを注がないことが保護的になることも論じられた。
相手の内なる刃を見て見ぬ振りをする。もしくは、ずらす。
 子育てをしているときにも、子のうちに刃を見ることがあり、記録しておく。

追記)
発達障害の外来で心理士がオペラント条件付けの「消去」という対応法を紹介していた。
例えば、子供がお菓子売り場でお菓子を買ってくれないことにかんしゃくを起こしてその場で手足をばたばたとさせてしまう状況を考えてみる。
この時、かんしゃくに耐えかねて親がお菓子を買ってあげると、かんしゃくという行動の正の強化となる。今後同様の状況でかんしゃくを起こしやすくなる。
逆にかんしゃくに対して、「そんなわがままする子は今日はゲームなしだからね」とすれば、負の弱化となる。
ところで、そもそも相手にしないというのが消去。見て見ぬ振りをするといわけである。 
私の今回の対応は、単に見ぬ振りをしたのではなく、他の感情を喚起させるよう、他の現象を出来させた。消去とも少し異なるテクニックのようである。

素寒居士

おいしみがたまる

5歳娘
朝食後、幼稚園にでかける前のこと
娘「ねえ、パパ、梅の実食べてみようよ」
父「うーん、ちょっと早いんじゃないかなあ、砂糖もまだ溶けきってないし」
娘「え〜食べてみようよ」
父「じゃあ、幼稚園から帰ってきたらちょっと食べてみよっか」
娘「わ〜、おいしみがたまる〜〜〜」

素寒居士

ばばたんに言うの?

今回はfunnyではなく、interestingでありthrillingでもある言葉

2歳4ヶ月の息子、5歳の娘と早めの夕食を終え、まだ日が暮れる前にスーパーに買い物にでかけた。
今回始めて、子供を乗せないシンプルな買い物カートを選んだ。
カートを押しながら買い物をしている横を子供達はキャッキャと踊りながら、歌いがながらついてくる。
と思っていたら、息子がいない。
ざっと、周囲を見渡してもいない。
その間、おそらく1分もないと思うのだが、とにかくいない。
娘と名前を呼びながらスーパー中を買い物途中のカートを押しながら足早に探し回った。
もし外に行っていたらと、焦燥感にかられながら、娘と名前を呼んでいた。
肉売り場にもいない、おやつ売り場もいない。
これはいけない。
ひとまず、サービスカウンターに相談しようと向かうと、そこに女性に抱えられた息子がいた。
特に泣くでもなく平然としている。
その女性は親切にも息子がスーパーを出て一人でしばらく歩いているのを不審に思い、抱えて連れて来てくれたのである。
もし何かがあれば、立ち上がっていたかもしれない別の世界線が、瞬時に脳裏によぎった。
これはどうしようもなく私に非がある。
なんという不注意。
とにかく無事であることに安堵した。
息子に詫び、女性に深謝し、辞去した。

その後、買い物の途中、娘はしきりに「危なかった~~」と繰り返していた。
買い物を終えて、いよいよ帰るというときに、娘が唐突に「ばばたんに言うの?」と聞いた。
同様のことを考えていた私は驚いた。

説明を加えると、
まず、いま我が家には母親(私にとっての妻)がいない。
3週間前に生まれた娘(この子たちにとっては妹)が、発熱して入院することとなり、母親も付き添いで入院している。従って、妻の母がピンチヒッターとして遠路はるばる来てくれている。

話を戻して、あの問いである。
私はちょうど、「もし、今のことを義理の母(ばばたん)に言うと相当心配するだろうな」と考えながら帰途に着こうとしていた。
不意をつかれた私は戸惑った。
私は娘に心持ちを見透かされたような気持ちにもなった。
「ん~どっちでもいいんじゃないのかな」と誤魔化した。
かわいそうに、娘の問いは答えられることなく棚上げされてしまった。

スーパーから5分のところにある我が家まで帰る途中、娘はもう一度、同様の問いをした。
私は「言いたかったら、言ったらいいと思うよ」と。
娘の問いは虚しくも再び棚上げされた。

マンションの玄関に着いて、娘はいつになく部屋番号を間違えて押してしまった。
その間違えたことを私が指摘すると、顔に不安がたちこめ、指を咥える退行が始まった。
エレベーターで移動しながらも不安気に、しきりに指を咥えている。
4本の指を全て口に入れ込んでいる。
私は間違えたことは気にしなくていいよ、と繰り返した。
しかし、指しゃぶりは収まらなかった。
私は娘の指しゃぶりはこれまでに見たことがなかった。
よほど大きな不安がこの子に今、あるのだろうか。
ここまできてようやく、娘が切実に問いかけていたあの問いを棚上げしていたことに気がついた。

おそらくは、娘にとっても、弟がいなくなるかもしれないというのは恐怖体験だったのだろう。
当然である。
買い物を続けながら、「危なかった~」と連呼していた。
そのペースでいけば、当然、彼女の心は家でも連呼することとなる。
しかし、ばばたんは、この事件を知らない。
それを、言うのか、言わないのか。
言うのであれば、誰が言うのか、私は言い出しにくい。
という問いがが帰る間際の娘に生じた。

私が言うべきかどうか打算したのとはおそらく別の風景から同様の問いを持っていた。

われわれ大人は、と一般化するのが適切か不明だが、
少なくとも私はこのレベルの嘘(大人風に誤魔化して言えば、情報の制限)は常日頃からなんの躊躇もなくしているのだろう。

その後、家に着いた時には19時を過ぎていた。
風呂にも入っていなければ、明日の幼稚園の準備もしていない。
娘の指しゃぶりは風呂の中でも続いた。
私は娘に「お風呂をあがったら、ばばたんにちゃんと言おうね。パパが言うからね」と告げた。
それでも娘の表情は硬かった。
これは体を動かさなければと私は直観した。
入浴後、ばばたんと出来事を共有し、娘も「ほんとに危なかった~」と言った。
すでに寝る時間を過ぎているが、どすこい(すもう遊び)と、ダンスをしてから寝た。
どすこいの時には、娘はいつもの娘になっていた。

反省することの非常に多い買い物であった。
あの時、娘は何を思って私に問いを発したのだろうか。

2021/05/30 素寒居士

とーろく

今回はおもしろい言葉ではなく、おもしろくない言葉

「とーろく、と-ろく、と-ろく♪」
5歳、2歳の子供たちが嬉しそうにと歌っていた
耳から離れぬリフレイン

その意味は「チャンネル登録」とのこと
YouTubeを見てみると、HikakinというYoutuberがなんとも言えぬ顔で視聴者にチャンネル登録を促していた
子供たちにキャッチーな歌を用意してまで登録数を稼いでいるのか・・・・
なるほど、彼の番組は一見して子供向けと思われる企画が多そうだ
彼のチャンネル登録者の相当な割合で未就学児が含まれているのではなかろうか
スマホ子育てに一役買っているに違いない
それで彼は巨万の富を得ている

スマホ子育てを反省するキーワードを2つ挙げておく

一つは関心経済 1)
コンテンツの情報の正確性や質を高めることではなく、閲覧数を稼ぐためあの手この手で利用者の感情を刺激してクリックさせる。
このような、関心の獲得が経済的価値をもつ状況を、関心経済(アテンション・エコノミー)などというようだ

もう一つは、自動再生機能 2)
この機能のため、YouTubeをみていると、自分で選択したのではない情報に満足する状態に慣れてしまい、ネット中毒のリスクがあるという

あな悲し
2歳の息子の数少ない豊かなボキャブラリーに、Youtuberの営利のための語彙が侵入するとは

それにしても、Youtuberの度し難い貪欲さ
なんとも憐れな

では、見なければよいだけだろうに、
と彼は臆面もなく言うだろう
関心が生じているのはそちらであって、私ではない、と
正しい
したがって、私は見ない
万が一ご覧になる場合、彼が登録を促すあのえもいえぬ表情には催吐性があるためご注意を

子供というフィールで何が起きているのかを把握するのは難しい
フロイトやピアジェの観察もそのフィールドワークと言える
親業でもそのフィールドを垣間見る可能性があるにはある。

YouTube利用に対して注意喚起する臨床心理士の言葉を紹介しておく3)
ちなみに、読者のプレイセラピストの方々は現代の子どものカルチャーには敏感だろうか。いまや幼稚園児がYouTubeやニコニコ動画を垂れ流しのように見ている時代である。保護者もYouTubeやニコニコ動画を見せることに抵抗がない場合が多い。ご存知だろうか。小学生の多くが日曜朝の30分の子ども番組を見続けることができないことを。3分~5分程度の動画を次々にザッピングしていく習慣を身に着けた子どもにとって30分は長すぎて集中力が続かないのであろう。ご存知だろうか。一部のユーチューバ-たちは、小学生は知らなくても良いような、悪質な情報や知識を伝え、それが元になってトラブルが起こっていることを。そんなユーチューバ-にものすごく入れ込み、夢中になっていることを。ご存知だろうか。小学低学年の子どもたちが普通に大人向けのアダルト動画や、死体を写したグロ動画や、悲惨なエレベーター事故動画を何度も繰り返し見ていることを・・・

参考文献
1)山本龍彦「ネット時代の報道倫理、確立急げ」、朝日新聞 2021年5月18日、朝刊 
無料電子版 https://www.asahi.com/articles/DA3S14907336.html  
2)ドミニク・チェン「わかりあえなさと共に」、朝日新聞 2021年5月14日、朝刊 
3)丹明彦. プレイセラピー入門. 初版. 東京都:遠見書房;2019. 20

素寒

ころな

5歳娘と

娘「パパ、もうレストラン行けないからね」
父「どうして?」
娘「緊急事態宣言だからよ」
父「緊急事態宣言ってなに?」
娘「幼稚園の先生が言ってたんだよ」
父「緊急ってなに?」
娘「コロナが大変なんだよ。パパ、病院で働いてるんだから知ってるでしょ」
 「コロナってなに?」
父「コロナはビールよ」
娘「コロナはばいきんでしょ!」
 「コロナはどうやったらやっつけられるの?水?」
父「ビールでやっつけるよ」
娘「なんでビールなの、もー」
父「ビールはアルコールよ。アルコールでやっつけるよ」
娘「ふーん」

素寒

じゅんじゅんで

2歳3ヶ月男児のこと

最近、何かにつけて「じゅんじゅんで」と前置きする。
行為の前に発せられる。
その意味するところは、「自分で」である。
何かを食べるときも、コップに牛乳を注ぐのも自分でやろうとしなければ気が済まない。結果、床が牛乳まみれになる。
風呂掃除のときも、すかさずやってきて、じゅんじゅんで、とやるのだから閉口する。
その行為が自分で完遂できるか、という見立てはまるでない。
とにかく、自分が関わる行為は、じゅんじゅんでやりたい。
誰でもなく、<わたし>がしたい。

時を同じくして、正確には、それに数ヶ月先行して「見て」という要求が頻用されるようになった。
最近では、帰宅すると、まず「見て」と発語され、手をとられて舞台に連れて行かれる。
見て、と言われるから見る。
見ているその最中にも、重ねるように「見て」と要求される。
見られている以上に苛烈に、とにかく見られることを欲している。
そこから結論されるのは、<何かしていること>を見て欲しい、のではなく、何かしていることを<見て欲しい>。
目的は見られる、という他者のまなざし。
<他者>にみられたい。
この他者は必ずしも親である必要はないようだ。
しかし、全くの他人ではいけない。親しいと感ぜられる他者。
他者がある程度、親しくなれば、彼は其の者の手をとって、「見て」とやる。

これら「じゅんじゅんで」と「見て」をまとめると、
彼は<わたし>がしたくて、それを<他者>に見られたい。

なるほど、2歳2語文はその通りだとうなずかされる。
彼は2歳ぴったりでは2語文はほとんど使わなかった。
しかし、2ヶ月ほど経ると、いつのまにか2語文を使用するようになっていた。
2語文では主語がたつ。
「ママいない」といった具合に主語と述語が構成される。
「にゅうにゅう(牛乳)飲む」のように述部のみのこともある。
しかし、より革命的なのは主語が据えられることだと思う。
<わたし>が・・・

「自分」という言葉の面白さについて聞いたことがある。
自ら分ける/分かる、自ずと分ける/分かる。
自分という表現には、自と他の区別が含まれているようだ。
「じゅんじゅんで(自分で)」という要求には、まず自分と他者が区別されなければならない。
誰かに「見て」と要求する際にも、自他の区別が前提されている。

言葉の獲得について、チョムスキーは生成文法を唱えた。
経験的な言語への曝露以上に、そもそも生得的に文法を理解する能力がある。
なるほど、人間のCPUには言語に関わる根本的な能力が含まれているのであろう。動物と人間を弁別するところの、言語使用能力だもの。

それ以上に、彼の「見られたい」という欲望を駆動させるものは何か。
文法以前にある、あるいは文法と同時に立ち上がる「他者のまなざしへの欲望」はどう説明したらいいのか。
私は何も抽象物を据えたいのではない。
生活実感として、私と妻は彼の「じゅんじゅんで」という欲望と、「見て」という欲望に圧倒されている。

素寒