5日目

H: fMRIについて教えて下さい

ChatGPT: fMRIとは、機能的磁気共鳴画像法(Functional Magnetic Resonance Imaging)の略称で、脳の神経活動を非侵襲的に測定する方法です。fMRIでは、脳の血流量が増加することで、脳活動が起こる部位の周辺の酸素消費量が増加します。この酸素消費量の増加に伴い、脳血流量が増加するため、fMRIは脳の活動部位を間接的に検出することができます。fMRIでは、磁気共鳴画像法を用いて脳の構造を画像化し、同時に脳の神経活動を測定することができます。被験者は、脳の機能を刺激する課題を実行しながら、MRIスキャナーの中に入っている間、脳活動を測定します。脳の活動部位には酸素が供給されるため、脳血流量が増加し、それによってfMRI信号が検出されます。fMRIは、脳の特定の機能領域の活動を非侵襲的に測定することができるため、神経科学や心理学などの分野で広く使用されています。また、脳神経科学研究や臨床診断において、脳の活動部位を特定するための有用なツールとしても活用されています。

H: fMRIで心の中のことを覗かれてしまいますか

ChatGPT: fMRIは、脳の神経活動を非侵襲的に測定する方法であり、心の中のことを直接覗き込むことはできません。fMRIは、脳の活動部位を間接的に検出することができるため、脳がどのように反応しているかを推測することができますが、直接的に心の中を読み取ることはできません。fMRIの測定結果は、被験者の脳の活動に基づくものであり、脳内で何が起こっているかを解釈することができますが、それが必ずしも被験者の意識や感情を正確に反映するわけではありません。また、fMRIによって得られる情報は、被験者のプライバシーを侵害することはありません。ただし、脳の活動を測定するためには、被験者がMRIスキャナーの中に入り、一定時間静止する必要があります。そのため、fMRIを実施する際には、被験者のプライバシーを保護するために、適切な倫理規定が存在し、被験者の同意を得て行われます。

第4日目

今日は痙攣発作後状態(Post-ictal state)について調べたりしていたらついつい遅くなってしまい疲れたので眠ろうとおもいますが、やはり色々な人に相談などしているわけですが、病気しているとはいえ一番暇人なのですから、忙しい人にメールしたりやり取りしてもらって申し訳ないなという気持ちにはなります。

第3日

母:あなたは祈っていないし、聖書を読んでいない、そのような態度が果たして許されるだろうか、勿論出来ない人がしなくても何も問題はない、しかし、できるのにやらないのはおかしい、それは思い上がった態度だ、私は10年間教会を離れていたが、父のことと(新)宗教、淀キリのホスピスで教会員との再びの出会い、交通事故による罪の自覚というエピソードがあって深く懺悔し、神の元に戻された、そしてそこから、本当に祝福された日々を過ごすことができている、求めようとする下僕に対しては主人は与えようとするはず、祈りたくないのか、聖書を求めたくないのか。もしも今、時間が与えられたのなら、それは離れていた神様との時間に充てるべきではないのか。

私:確かにある時期から祈りや聖書の通読が私の日常から消えていった、私は、神様はすべてをご存知であり赦されている、そして私は神様がすべてを成功や良い方向に導かれるとは考えない、また祈りの程度や有無によって、その希望の実現・現実の結果が影響されるとは、考えていない、やはりすべて我々の目の前におきていることは神様が働かれた結果であって、神様の働きの結果僕が術中死することだってあり得ると考えられるし、だからといってその後に祈りが足りなかったから、とは考えたくはない、それから、私は祈りたくなかったり聖書を読みたくなかったり拒むような気持ちがあるのではなく、祈りが非科学的で無意味な行為だといっているのでもない、僕たちはともに祈り合うことで、祈らないときにはえられない感情を共有している、私はあらためて、祈り読む時間にしたほうがいいかと思う、ただつまるところ、そういう行為を私がとっているかどうか、他人には分かりようがない、なのだから母が私の行為を信頼できるかどうか、といったことの問題でもあるようにおもっている、私はこれを私が18歳くらいのころから母との間に問題として横たわっていると感じてきたが、今日の日までここまで大きく取り上げてこなかった、だがこうして指摘されることで非情に辛く感じることも事実であり、伝えることと行動を変化させることが必要であるように感じたため、伝えることとした

母:そのように神様のことを考えているとは知らなかった、悪いことがおきているのはサタンが働くからであろう、ただもうあなたには後がなく、言わば刃を突きつけられている状態なのに、神様がなんでも救ってくださるからなにをしても、祈らなくてもいい、という態度では許されない、祈るかどうかはあなた自身の問題であるため私にはわからないけれど、とるべき態度は唯一つであるようにおもう、牧師にも相談をしてはどうか

私:私の考えを伝えることができてよかった、また(何度もきかされた話も多かったが)母の考えをきくことができよかった、通読と祈り、そして牧師との相談はあらためておこない、このときを与えられたことの意味を神様にもとめていきたいとおもう。

第2日

朝希望していたパンが想像以上に美味く、やはりパン食の盛んな土地柄だけのことはある、などと感心した。検査としては脳血管造影CTだった。造影剤がながれると熱い感じがしますよ、などと、離島で造影CTを自ら撮影するときなどさんざっぱら説明してきたものだが、いざ我が身がうけるのは初めてであって(緊急入院したときもMRで造影剤を使用されたはずだったが、CT(ヨード系)はおそらく初めてのはずだった)、それなりに緊張しナースコールをもつ手に汗を握った。咳が出てしまったらアドレンリン0.3mgを筋注しなきゃ、でも今は患者だからオーダーできない・・・などと考えたが、杞憂に終わった。ただ、造影剤が血流に乗っていくとき、咽頭に「有機溶剤」の薫りを感じ、それに合わせて温かい液体が体内を駆け抜けていった。

第1日

正確には、転院第一日です。3週間前、私は高校の部活の同級生とともに、高校の部活の顧問が退職後にひらいていたで呑んでいたのです。その夜と、その夜までの事とは、今でもよく覚えています。うまい酒で、いい夜でした。そして、その日まで、記憶で困った経験は、ほんとうの意味では、ありませんでした。勿論、すっとぼけた性格をしていますので、約束が抜けてしまうことも、これまでの人生、一度や二度ならずありはしましたが・・・私個人の基準では、まあなんとか人並み(か、ややそれ以下か)に収まっているものと考えられていたのでした。ただ、それでも、成人後、慣れ親しんだ人以外の人とする対話、あるいは留学、学会、勤務先(病院)・・・そういった社会のつきあいは、私にとって、まあまあ、ハードルというかストレスが高いものでした。勿論人間は、我が身を振り返るときには、欠けたる所が目につく生き物であろうと思います。とはいえ、一方で、その状態を認識しながらも、少しでも欠けた所を補おうとする、そのような存在でもあると思うのです。そういう意味で、私もなんとか、外れがちながらも、なんとか人並みの範囲内ではなかろうかと、そう考えていたのでした。

しかし、今になってみると、一方で、どんどんとお酒が飲めなくなったり、コーヒーが飲めなくなったり、金遣いが変わったり(定額系サービスを2022年頃から複数利用するようになった)、といった変化があったようにも思います。それくらい普通、と言われてしまうとそれまでなのですが(そして自分でも、そうとも思うこともできますが)、・・・ただただ、そういう目で振り返って見ている、ということです。

そんななか、今からおよそ3週間前から記憶が曖昧になり、家でひっくり返っていた私は(このあたりもまた機会があれば詳しく書きます)、2週間前から勤務先に入院することになりました。診断は、脳腫瘍疑い。月並みですが、やはり驚きました。色々な方に報告、連絡しました。そして本日、大学病院に転院することとなりました。学生以来の大学病院です。場所としては生まれて始めて足を踏み入れる病院です。きれいな病棟でベッドも上等です。ただ、昨日まで職場のはからいで個室に入院していましたのが、今日からは4人の相部屋、総室入院となります。いまのところ、大事はおきていませんが、目下の問題として音(例えば自分の放屁等)が、気にかかります。プライバシー、は時代とともにその概念が移ろう、面白いものだと思います。基本的には、とはいえ、時代を経るごとに個々人の思想や信条、性的指向といったポイントは尊重されこそすれ、おざなりにされる方に進むことはなく、一方向的趨勢を感じます。そこに噛み合うのがコミュニティの論理です。いちコミュニティである病院の存在論理は、最大多数の病人が、癒しを得るための構造を提供することにあるのですから、どうしたって個人の領域が侵犯されます。そもそもケアするとか一緒にくらすこと自体が、ひとりでできることではなく、それは病院でも行われていますが、家庭とか、会社とか、ひとがひとりでいるのではない場所で日々営まれていることです。(H)

会うて

彼女の家族に会うた。

朝、家を出る前にfm cocoloを聴いていたら、安室奈美恵のheroがながれ、僕は自分が冴えなかった平成時代が大嫌いだから、アムラーのシノラーの言うていた時代にいいことがなかったから、すこし気色が悪くなった。

そのあとに爆風スランプのランナーが流れた。

ランナーは大好きな曲だからすこし気色がよくなった。たとえ小さく弱い太陽だとしても、のフレーズがとくに好きだ。

このラジオはおれに合わせて曲選んだるんかいなと、自他の境界があいまいな僕はなんとなく気をよくした。じっさいはDJがマラソン大会に出るので、heroもランナーもそれをはげますリクエストだったのだ。

今日は晴れた。伊吹山がきれいだ。

Googleマップが、琵琶湖線が架線点検で遅れていることを警告した。

よりによってなんでこんな日に点検しよんねんとまた気色がわるくなった。あさめしもひるめしもまだだった。コンビニでにぎりめしを買ったがレジ袋をもらうのを忘れ、めしをくってもゴミ袋がないやんけと思い絶望した。彼女の家にいくのに、かばんに握り飯のつつんだフィルムをつっこんで、見つかったらどないすんねんと思った。

結局にぎりめしは食った。フィルムはかばんのなかの目立たないところにおしこんだ。

家族にお会いし、駅まで彼女に見送られ、

帰りの電車でYouTubeのてきとうな動画を流したら、動画がかわって森山直太朗の御徒町ブルースがながれた。

高校のころに大好きだった歌だ。

茨木駅を電車が通過する。だんだん夕日が傾いてくる。

そうだ、おれは森山直太朗の歌が好きだったんだ。むかし森山直太朗の青い空に気球がとんでいるベスト盤ばっかり聴いていたことを思い出した。

僕のスマホはそのまま森山直太朗の歌を流し続けた。

電車は滋賀県にむかって走り続けた。

空谷子しるす

とても面倒な

京大に出す書類をとりあえず出し、臨床研修修了証や健康診断書の発行を待ち、

まだなおも、大学から指定された外勤先への書類や、コロナにまつわる誓約書、結婚相談所の契約破棄の書類、

さまざまなことがあってそれはとても面倒なことだ。

いまから彼女の家にあいさつにいく。

それは面倒というより気の使うことだ。

おとついパンペリの緊急オペに入った。

たまたま麻酔科の先生とめしを食べていたら、連絡が麻酔科の先生に入った。

私は興味本位でついていき、手伝いと称してうろちょろしていた。

ほんとうに私は迷惑かけたのだと思うが、まずいい経験だった。とくになにかを学んだわけではないが(ホットラインの組み方やケタフォールがわりとイケているトレンド麻酔なことを教わった)、いい経験だった。

いい経験だったがつくづく4月からやっていく体力に自信がない。でもやっていくだけしかない。

ヒマラヤを見に行きたい。3月末は休みをとったが、冬のネパールは大変だろう。

ヒマラヤのかわりになにを見に行こうかと思う。なにも見に行かないかもしれない。金もかかるから。

2週間皮膚科を回った。来週から2度目の脳外科を回る。

初期研修最後は脳外科である。

空谷子しるす

さようなら

昨夜は当直だった
珍しく4時間ほど眠れた

開始の17時、
ひどい時は、ERフロントに患者が溢れている
昨日はそうではなかった。
カルテの救急一覧を見ていると、
ふと馴染みの名前が目に止まった。
あれ、どうしたの。
カルテを開ける。
Stanford A型急性大動脈解離、高齢でありBSC方針。
造影CTをみる。
これはだめだ。

彼女は私の外来で定期通院している患者であった。
2年ほど前、感染症科にいる頃に、感染性心内膜炎で入院し、以来外来で診ていた。
認知症がある。
それを発達障害のある息子が支えていた。
つい、先日、別れを告げた。
私が退職するからである。
息子は、「先生だけですよ、こんな風にいじってくれるのは。次の先生にもよろしくお伝えください」と寂しがってくれた。
彼女はよく笑ってくれた。
デイサービスでは麻雀を楽しんでいたらしい。
「雀士のたかこ言うたら、この界隈で知らんもんはおりませんもんなあ」
と私がふっかけると、彼女も、息子もゲラゲラ笑っていた。
私もその笑いをゲラゲラ笑っていた。

たまたまその時間は都合よくERに患者が少なかった。
私は2階に彼女を訪れた。
青息吐息の彼女は、私の呼びかけに応答できなかった。
A lineの血圧は50だった。
あの時と同じであった。
なりたが旅立った時のように、私は肩を撫でながら「大丈夫、大丈夫だからね」と連呼する以外能がなかった。
「雀士のたかこ言うたら、この界隈で知らんもんはおりませんもんなあ」
と私はふっかけてみた。
A lineの血圧は60に上昇した。

また一人、私と笑った人が旅立った。

なりた、かっちゃん、
私を愛し、私が愛した人たちよ
あなたたちは神なのか
神になったのか
だから私の問いかけに答えないのか

一人、また一人、あちらに行き
やがて、私の親しい誰もが私の問いかけに応じなくなる

さよなら。
ありがとう。

覚書14

今日はどうもありがとう。

現実的なことと非現実的なことと。

帰宅してBrahms Symphonyを聞きながら、より一層非現実的な彼岸に浸っています。

君とのお話しを思い出すと、それが現実に起こったことなのか、夢のできごとなのか、井戸でのできごとなのか判然としなくなります。

いずれにせよ君と変わらずに非現実的なことをお話しできてよかった。

たとえばウクライナ侵攻のような現実的なことではなく(あれはあれで漫画のような非現実的な現象ですが)。

非現実的な、井戸のようなお話。めくるめくお話。

君が現実に現実的な素敵な伴侶を得つつある。大変に素晴らしい。

皮肉ではなく本当に、現実に。

良き夫婦の秘訣はなんでも語り合うことです。

君が一方でそれを目指しつつ、僕も他方でそれを目指しているのがとても面白かった。

そもそも語りえぬものを語り合うとはいかなることか、矛盾の出発点はそこにあるようです。

その矛盾を見つつ見ないのは非現実的な僕の現実的な落とし所だと慰めています。

そのような現実的なこととと非現実的なことの落差を、最近は悲しくも美しいことのように思っています。

おやすみなさい。