京都の洛中に白山神社がある。
治承元年、加賀の白山比咩神社が都へ強訴した。神輿を担いだ僧兵が押しかけたのであったが、訴えは聞き届けられなかった。それで僧兵どもは担いできた神輿をその場にうっちゃって加賀に帰ってしまった。うっちゃられた神輿を祀るようになったのがこの神社の始まりという。夫婦和合に験があり、歯痛にも効く。
私はコロナに罹患した。COVID-19という鹿爪らしい名前の不愉快な病気である。一週間、私は熱と咽頭痛と強い倦怠感、めまいなどに悩まされ、一日中部屋の中にいてはyoutubeを見ていた。
それがどうにか治ってきたので私は白山神社に参ることにしたのであった。
外はもう秋であった。小雨が降りかかる合間に木々はようやく色づいて、軒先の大きな萩の花がやや散りかかったのが匂やかだ。近所のデュランタの花は終わろうとしていた。季節は徐々に巡っていた。
私は大学の業務に圧迫されていて、院内の症例発表の準備をしなければならない内に病を得たのであった。発表の準備は、上の医師たちの求める水準には到達しないが、これ以上は無理なようである。私には何がしかの学びになったからよいと素直に思う。上の医師たちは私のことを使えぬ奴と烙印を押すのだろう。
私は病床にあって、助平なことを考えるか、ある卑しい配信者(おそらく軽度の知的障害がある)に憎しみを燃やすか、そんなことばかりしており、あとは世界樹の迷宮というゲームをやってはようやく終幕まで来たのであった。私が祈りに行くのは一つのバランスかもしれないし、あるいは私の行いの全てが祈りかもしれない。
小雨の中で白山神社は街中に寓居せられており、きれいに整えられた境内はどこかかわいらしく、やはりこれは白山宮なのだと、うっすらと懐かしい気持ちを嗅ぐ。白山はまことに尊く美しくておわします。
お参りが終わり、また帰路につくのであったが小雨はやむことなく中京の街中に降るのである。私はとても白山にまたお会いしたい気持ちがあるが、なかなか果たせそうにない。その雪も、草も木も、清らかな川、きびしい大岩、全てが美しく、あそここそは本当に人間の住むべき場所なのだ。ここいらは、街中というところはいずれの街中だとしても、今の時代にあっては人の住むべきところではないように思えてくる。極楽も地獄も無い人間は本当の地獄にいる。極楽も地獄もなく神も仏もいない真の地獄だ。そのような地獄にいる人間たちが集まって生きる算段をつけるのはいいが、主客が顛倒しては生きられない。
空谷子しるす