専攻医4

病棟の児のひとりが危うかった。

私の担当ではないが、いままでカンファレンスでも危ういという印象は私は持っていなかった。画像上危ういことがわかった。症状もよくないようだった。

医者は人の極まるところを見る。医者としてはしだいにその職責に慣れていく。しかし人間としては慣れることはない。

私は所属グループの当番を終えて御所に来た。

春の御所は新緑にまみれて、風は涼しくて爽やかだ。

うんかがくるくると宙を舞う。その先に空があり雲がある。その上に飛行機雲が東西に伸びていて、風に吹かれて次第に薄まっていく。

長雨が午後から止んだ。御所にはたくさんの人がいる。英語やフランス語が聞こえてくる。二度と逢わない人たちがいる。

私はPICUの先生に話しかけられた。それで来年度からのべつの病院で集中管理や救急をやろうと誘われた。

母校の集中管理の教授は私にとてもよくしてくださった。「enjoy your lifeや先生」と彼はよく仰ったものだ。

ドンボスコがとうとう孤児院をやる金が尽きて、石段に腰掛けて涙を流した。そのときにふとある男が彼をみつけ、彼に孤児院をやるための新しい物件を紹介したという。

私たちは苦しまねばならない。いつまで生きるかしれない。生きている限りは苦しむのである。しかしその先に、「軸」があればその先に、神様の導きがあることを期待せねばならぬし、期待したい。

私たちには一秒先のこともわからないのだ。分からないから、不安になり、泣き、わめく。そうしながらも祈り求めるのが人間の真実の姿なのだと思う。

空谷子しるす

まつぼっくりの木

4歳息子と
父:この木なんの木か知ってる?
息子:知らん
父:まつの木やで。まつぼっくりのやつ。
息子:この木なんの木って聞いて
父:この木なんの木?
息子:まつぼっくりの木!
息子:この木なんの木って聞いて
父:この木なんの木?
息子:まつぼっくりの木!
息子:この木なんの木って聞いて
父:この木なんの木?
息子:さくらの木
父:んーこれはももの木かなあ
父:この木なんの木?
息子:まつぼっくりの木!

専攻医3

兄が不快だという。両家の顔合わせの日取りを、彼女の都合のみで決めたかと疑ったからだという。

母も不快だという。妹家族へのお持たせを用意すべきかとの母の問いに、彼女が「それでいい」とぞんざいに答えたと思ったからだという。

ふたつとも私の文章がぞんざいだったのが原因だ。兄には顔合わせの日取りの候補日だけ伝えて来ることができるかどうかのみ伺った。候補日を決めた経緯を書かなかった。私たち二人の休日が重なる日がそこしかなかったことを言わなかった。

母には彼女が恐縮していたことを伝えなかった。

雨が降る京都は蒸し暑くなってきた。

病棟ではさまざまな患者の子らが、それぞれの事情を抱えている。その親たちも、それぞれに疲弊し、あるいは張り詰めた感情を抱いておられるように思われた。

当直をこの日とかわってほしいと二人の医員から相談された。小児科は小児科の当直と各診療グループの当番がある。シフトが複雑に感じる。

雨が降る。

私は彼女の姪に贈るためにポケモンセンターに歩き、御所八幡、六角堂に詣でつつ、街中を歩いた。

街は人間と家とが立ち並んで、しかも京都らしい取り澄ました感じがあって厭気を感じさせないところがかえって油断ができない。

物事の複雑さはいよいよ増してきたように思われる。「ふつう」の医師ならこの程度の複雑さは容易に乗り越えられるのかと疑う。

私は疲れた。病態や治療が把握できないことが困る。

歩けたのはよかった。室にこもっていれば、そのまま動かなかっだだろうから。歩いたほうが少しは頭が良くなると期待するから。運動したほうが頭は良くなると精神科医のyoutuberが申していた。すがれるものにはすがりたい。

山が雨で煙る。あの山は大文字山、しかし本来の名前は別にある。あの山のふもとには熊野の那智社があり。熊野の大神様、何卒病棟の子らが助かりますように。私がよい小児科医となれるほどの知恵と力をお貸しくださいますように。彼女と睦まじい暮らしをしていけますように。大切な人たちが幸せでおれますように。

空谷子しるす

専攻医2

病棟は忙しく、いったい自分がなにをやっているのか、なにをやらないといけないのかが未だに判然しない。

ただ神に誓って私は私にできる最大を行っている。

忙しいときはいつも飯が楽しみになる。朝はもともと食べづらく、昼は忙しくて食べられず、晩に食べるものが楽しみになる。

この病院周りは都会なので店もいくつかある。トルコ料理、インド料理、うどん、カレー、ラーメン、上海料理、いろいろある。街はいい。歩ける範囲になにかある。でも次第にこの街も何かあるように見えて実はあまり何もないように思えてくる。私は贅沢にできており、すぐに悪い意味で慣れるのかもしれない。

昨日は卒後5年目の専攻医の先生と飲みに行った。彼もまた児童精神、小児神経志望であり、北杜夫や三島由紀夫を好むと仰す。

夏目漱石が好きだという人間にあまり出会わないのは不思議なことだなと思う。私は夏目漱石が好きなのにあまりそういう人がいない。私が山ノ口貘が好きだというとそこは投合した。山ノ口貘を好む人間の方がずっと珍しい。

酒をしこたま飲んで朝起きると頭にもやがかかったようだ。今日は本当に病院に行かなくていい日なのだ。外は天気がいいからどこかお参りに行こうかなと思ったが体と頭がぼんやりしてなかなか動かないのだ。

昨日5年目の専攻医から教わったパンチブラザーズとモーズアリソンをYouTubeで聴いているのだ。聴きながら関大徹「食えなんだら食うな」を読んでいる。関大徹は禅僧である。以前、梅田で箕面の神父とI先生を待っていたときに見つけた。そのせいかこの本を読むと箕面の神父を思い出す。神父はたしかに禅的なところがあるように思う。まじめな宗教はいずれも禅的なのかもしれない。

外の天気がいい。紫外線が強烈だろう。貴船や鴨社のことを思うが遠いしとても行きたくはならない。廣田社も遠い。心のままに動きたい。

眠い。頭がすこし重い。

「明日のことは明日自らが思い悩む」という聖書のことばはとてもありがたいことである。

空谷子しるす

専攻医

もはや私は立場上初期研修医ではなくなった。

某大学のなかで私は小児科医として勤め始めた。

「○○先生と同じことができるようにならないといけないんだからね」

「患者のことは全て把握しないといけない」

と、病棟医長は仰る。

私は少しでも自分が成長すること、患者の害にならないことだけを考えている。

専門医の資格がとれるかどうかはわからない。明日のことを思い煩うなと聖書にある。私はその通りにしようと思う。

大学病院は極めて複雑な病態の方々ばかりである。今の自分にはわからないことが多い。

自分がどう言われたとしても、患者の害にならないために動きたいと思う。

ようやく一週間たち、体は重たい。

うまくいくことを祈る。

空谷子しるす