言い訳

私の父はひどい父だった。

幼少のころからひたすら愚痴と宗教の話を一方的にし、聞かなければ怒り狂った。事実母は昔から何度も家を飛び出したし、兄は大学のころに家出してそのままずいぶん長いこと帰ってこなかった。

中学高校のころは父の愚痴を聞く仕事みたいなもので、夜中の2時まで延々と話を聞く日々が多かった。学校では医者の息子どもから勉強もスポーツもできないので見下され、馬鹿にされ、いないのも同然の扱いであった。廊下を歩いていたら押しのけられるのが普通だった。積極的に物理的な害は与えられなかったけれども、学校中から人間扱いはされていなかった。

父は怒ると手がつけられない。物をこわし、怒鳴り、出ていけといい、それで母と父はほぼ毎日のように喚きちらしていた。というのは商売が祖父や叔父のために破綻して我々は路頭に迷おうとしていたからだ。そうでなくとも父もまた不幸な育てられ方をして、精神的にまったく大人とは言いがたい人間だったのに、いよいよ餓え死にが目の前に迫ってくれば苛立つのはしかたなかった。

父は毎晩、借金におびえる祖父の話を聞き、そして私に愚痴を話した。

なぜ父を小さいころネグレクトししかも大人になってからは野村證券を無理にやめさせて(会社に祖父が直接乗り込んでわめきちらしたのだ。私の家系はものぐるいが多い)家業を手伝わせ、しかもあらゆる商売をうまくいったと思ったら長男の叔父の手に任せ、叔父はパチンコギャンブル狂いというのに、月々の払いのたびに店の金を持ち出した穴をうめるために父は寝ずにデイトレードしたのに、家業の店もとうとうつぶしたのに、祖父が勝手に我々の家に侵入し、ハンコを持ち出して我々の家に抵当権をつけたのに、

なぜ父は祖父が毎晩電話で呼び出して、借金がこわいの銀行がこわいのという話をさせられに祖父の家に行くのか、

なぜその話を毎晩私にするのか、

理解はできない。

虐待をうけた子が親から離れるのは難しいということだろうか。

今もって私の愚昧な頭では私の家のよくわからないことどもを整理できないのがとてもくやしい。

私はいまでも有能きわまりない研修医どもを見るたびに、私が青年期に多少とも安定した成長が得られていたならば、もう少しまともな知能と人生が得られていたのではないかと疑う。

彼らが着実な人生を美しい伴侶に支えられて歩む姿を見れば、ただ人の話を聞くだけ、ひたすら聞くだけの私は虚しくなる。私も自分のことを伴侶に気にかけてもらい、支えてほしい。しかしそれは無理な願いだと思う。私は人の話を聞いて、聞くしか能のない人間なのだ。私は面白い話はできず、知能は低く、体は脆弱で、性格は捻じ曲がっている。

私が毎晩父の話を、本当に毎晩聞き続けた経験など文章にすれば一行である。なぜなら同じ話しかしなかったし、すべて覚えていたら私の愚昧な頭はもうとっくに潰れていただろうから、あまり多くを覚えていない。だから書いたら一行だ。しかしそんな無意味な作業でも、もし私が父の話を聞き続けなければ、私の家はとっくに悲劇的に霧散していただろう。その苦行を私は小学生のころからしていたのだ。それが20年以上続いたことを思えば、私がいかに父を怒らさぬよう気を遣い続け、あげくにようやく自分の人生が多少ともはじまるかと思われた医学部入学後、解剖実習のはじまるまえのある朝に頓死されたとあっては、神だけは私の怒りや怨みやさまざまな感情は理解して当然だしそうあらねばならぬ。

もしその上で私をこれからもなお人から侮蔑されつづけねばならぬ立場に置くとしたら、私は理不尽に苦しむあらゆる人と同じように、神と全ての人間を恨む筋合いがある。

私はつくづく家族というものが呪わしい場合があることを知っている。その呪わしさを知るから家族が大事なことを知っているのだ。祖父も祖母も叔父も父もあらゆる係累が邪悪で、しかも邪悪になるには仕方ない理由があることを知る人間は世の中に少ない。しかし何を言って自分の虚栄心をなぐさめようが、私が事実無能なことには変わりない。だがそれは自己責任論でかたがつくような、生優しい世界ではなかったのだ。

このようなつまらない発作を、私の無能が露呈するたびに喚くのは本当に進歩のないことだ。しかし生きるためにはしかたがない。

空谷子しるす

麻酔科2

その人はfTURに来た患者であった。前回も同じ腎結石で来院して、その時は尿管が細くてカメラが通らずステントだけ置いて終わりになっていた。

つまり最近に全身麻酔をかけた記録があったので、その通りにやればよいということだ。

いつものように薬液を注射器に吸って準備していた私は、唐突に指導医からこの患者の麻酔を全部自分ひとりでやってみよと言われた。

それは本当は喜ぶべきことなのだろう。全ての研修医は喜ぶだろう。認められてうれしいとか、自分なりにやれてうれしいとか、経験ができてうれしいとか思うだろう。

しかし私は驚懼した。

手順も何もわからなくなり、あわてふためき、酸素飽和度の機械を患者の指につけようとして混乱して、男性看護師に手渡した。その看護師は私を見下したように鼻で笑った。私はああまただと思った。私はいつでも馬鹿にされる。やるべきことがわからず、要領を得ず、学習せず、人に迷惑をかけて馬鹿にされる。

一年目や同期の研修医なら全てうまくやれただろう。

私は男性看護師に軽侮されたと思った。それで過去の古傷をえぐられたように怒りを感じた。

気道確保はラリンジアルマスクであった。私の準備が遅れたためゼリーを塗ろうとしたときに看護師にマスクを持ち去られていた。挿管前に申し出てゼリーを塗り直す失態を演じる。

ラリンジアルマスクはうまく入らなかった。咽頭後壁に先があたりそり返ったのだ。左の人差し指を入れてもマスクの先端にとどかず、そり返りを修正できない。結局指導医が入れた。

とてもみっともないと思う。自分の無能のために恥をかいたと思う。しかし良い経験をしたと思うこともできる。

私はつまらない人間である。

空谷子しるす